次回にご期待ください。

今月号の巻頭ダンマトークは休載いたします。

『怒りの客観視のための工夫』(前編)月下るり
中学のころのことです。毎朝校長先生の指導のもと、全校生徒が校庭で立禅をしていました。(仏教系ではありません)
それは丹田で印を結び、半眼、肩幅に足を開いて「雑念を払って無になる」というものでした。私たちは一所懸命「無」になるようにがんばったことを覚えています。高校ではそのような時間はなく、以後、忘れていましたが、どこか頭の片隅に残っていたのかもしれません。
30代で勉強し直した時、認知意味論を専攻することになり「ヒトの脳が意味づけをしている。不変の意味というものがあるわけではない」ということを学びました。(数十年後、ダンマパダの第1偈が同じ事を言っているのを知り、地動説が証明される二千年前のことなので驚きました)
十年程前、自分を振り回しているのは外界ではなく自分自身だと気づき、独学で座禅のような瞑想のようなものを始めました。健康のために毎日歩いていましたがテレビでマインドフルネスの歩く瞑想を知り、右左右左と足裏に集中するようにもなりました。
その後仏像を刻むために般若心経を学ぼうと多くの解説書を読んだりしましたが、どれにも納得できず、そもそも釈尊御本人の仏教とは何だろうと疑問を持つにいたり、2020年12月に中村元訳「スッタニパータ」と「ダンマパダ」に出会うことになりました。
2021年2月、本屋で中村先生の著作を眺めていると、その左側にサンガという雑誌のバックナンバーが20冊ほど並んでいて、その中の一冊にグリーンヒルの紹介があり、日本人の在家瞑想指導者がいることに強い印象を受けました。
その頃はコロナ禍で、人生で最後に一つやるとしたら何だろうと考えていたら「そうだ。私は正しい指導者について瞑想を勉強しておきたい」と気がつき、2023年夏朝日カルチャーのクラスに参加してみることにしました。一番難しそうだったので最後にと思っていたのですが、近隣で稼動していたのはここだけだったのです。
トライアルは第二回「因果の法則」で、すぐに釈尊の仏法が正しく解りやすく説かれていると思いました。仏法が正しく語られるとき、言葉、その繋がり、流れ、構成が、まるで綾や錦を織るような美しい芸術に感じられるのは多くの方々も同じだと思います。
一言発せられる度に、釈尊の意思・思考・意識で教室がパンパンに満ちていくように感じられる程で、初めて「ダンマパダ」と「スッタニパータ」を読んだときにも全く同じ感覚があったのを思い出しました。それは神秘でも奇跡でもなく、山上憶良の感性を感じる人が万葉集の研究者になり、数式に美を感じる人が数学を専攻するようなものだと思います。日本の宗派の僧侶の説法や学者の方々の講義では経験したことの無い感覚でした。
ヴィパッサナー瞑想を知って
1)立つ瞑想からはじめる
こうして私はヴィパッサナー瞑想を試みることにしました。始めてみて最初に気がついたのが、「はじめて自分の身体を発見した」ということでした。それに加えて、私にとってですが、この身体の発見がそのまま「無常」ということに結びついたのです。
中学の時の立禅では、思考や感情だけに注目して、それを無にするように努めることでした。言わば頭の中の世界だけで格闘しているわけです。身体に注意を向けることはありません。でもヴィパッサナーで教わった「立つ瞑想」は、外から見ると立禅と同じように見えますが、まったく違うことをやっているのがとても新鮮でした。
ご存じでしょうがあえて繰り返せば、「立つ瞑想」では足裏の一部に意識を集中します。そこで初めて親指、小指等があることに気がつきます。感覚は刻々と変化していって、踵、脛、腿が次々と主張したり足裏がフカフカしているのを感じることができます。また何かが聞こえたり空気が触れるのを感じることもあります。そしてじっと観察していると、雑念・妄想と闘ってことさら払おうとしなくても、的確なラベリングで自然に消滅するのに気がつきます。それによって頭の中のザワザワ・ワサワサ感が静まり、休まっている感覚を得られます。
2)妄想がおさまる
私は以前、セオリーから外れたやり方ですが便宜的に「雑念・妄想を捕らえたらゴミや瘡蓋(かさぶた)のようなものに変換し、その奥から白い球体が現れて消えるといったイメージ」を使ったりしました。しかし、こうして立つ瞑想から歩く瞑想、そして座る瞑想と感覚に気づく訓練を続けていったところ、最近はそんなイメージもまったく必要としなくなり、最近は自然と出てこなくなりました。
頭が空転して振り回され、怒りや不安、悲しみなど、そして推測や憶測、欲望などに心が乗取られてしまうのは、おそらく人間という動物としては仕方がないのかもしれません。でも、ヴィパッサナー瞑想を実践して妄想を妄想と認知する訓練をしていると、たとえ妄想している間にも細胞の一つ一つがこの身体の維持のためにしっかり働いているということがだんだんわかってきます。私の場合はそれらの細胞が喜びに満ちて活動していると思えて大切にされるべき存在であるということ、そしてそれらに対して労い愛(め)でるような温かみを感じる時間となりました。そしてそこから心が静まった感覚も自覚され、その結果頭に偏った無駄な力を使わなくなりました。
また、「見たり聞いたり食べる時」や「屋内や屋外での気づき」などでも自分の身体についての多くの発見がありました。
ある日屋外で、「今、涼しいのか寒いのか」とか「風は風か」など、肌に触れる感覚を観察していました。その時なんと丹田でボッと発火し、チロチロと炎が燃え広がるのがわかったのです。それはメラメラ大きくなって今も続いています。
その結果でしょうか、それまでは手先・足先が氷のように冷たく、一年のうち半年以上貼るカイロが必要な冷え症だったのが、それ以来カイロが要らなくなってしまいました。丹田というのは、大動脈と大静脈がそれぞれ二つに分岐・合流する場所であって、この現象が神秘的な呪術によるものではないことを知ったのはその後のことです。

立山の夕陽


今月号の「先生と話そう」は休載いたします。
次回にご期待ください。

2026年1月号
(1)
★原始仏教の要である四聖諦は、苦の現実、その原因、超克された境地、その最終点に達する8つの道である。
なぜ苦しくなるかを心得る第二命題は、因果論を正しく理解することだ。
だが、因果論を学び業論を肝に銘じても、こと自分の問題になるとその理解がブッ飛んでしまう。
エゴ妄想に圧倒されてしまうからだ。
自己中心的な生存欲に端を発する我執から目覚める瞑想……。
……………………
(2)
★夫婦喧嘩をしているという妻の話を聞くと、とんでもない夫だと同情する。
次に夫の言い分を聞くと、え、あの人そこまで自己チューなのか……と驚く。
物事を認知する瞬間、<選択的注意>が働いて情報の取捨選択がなされていることに気づかない。
エゴワールドが自動的に形成されていく構造。
……………………
(3)
★あの論理的なドイツ国民が、ナチスの愚劣な幻想を熱狂的に共有していた時代もある。
夫婦喧嘩をする人もしない人も、百人いれば百人の妄想世界。
自分は自分のエゴワールドに住しているに過ぎない、と気づけなければ、他人を非難し断罪したくなってくる。
人には真実は見られないのだ、と心得ておく……。
……………………
(4)
★先天的聾唖者が7歳で手話を覚えるまで、過去も未来もない今の瞬間だけに生きていたと証言している。
言語がなければ時間は発生しないし、記憶を司る海馬が損傷しても時の後先が失われる。
あるがままの法の世界に生きている動物達に知恵は生じず、言葉と時間の感覚を得た人類は妄想の底なし沼から出られない……。
……………………
(5)
★歴史を学び、夢と希望に向かう人もいるし、トラウマに苦しみ、将来不安の妄想で自滅する人もいる。
想像力を持たないチンパンジーは、「今、ここ」だけに心を使いきり、過去を恨まず、未来に絶望することもない。
妄想を止め、サルの脳で経験し、ヒトの脳でラベリングするヴィパッサナー瞑想……。

八ヶ岳とスピリチュアリティ
仕事場にしていたマンションの売却と小さな山小屋の購入の過程で、地元の不動産屋とかなり親しくなった。たわいない話をするなかで、他所の人がこの地域の物件を欲しがる理由を教えてくれた。まず都会の夏の暑さが尋常でなくなり、涼しい場所が欲しいという人たち。次に地震、津波が起きたときの避難所求めてという方々。そして「僕には全く意味が分かりませんが・・・」と前置いて教えてくれたのは、スピ系といわれるスピリチュアルな事象を信じる人たち。「信じる」というのは言い過ぎかもしれない。いわゆる不思議な事象が好きな人たちと言った方がよいかもしれない。
富士山と八ヶ岳の権現岳を結んだ線は、日本のレイライン(聖地が一直線上に並ぶ現象、あるいはそのように結んだ「仮想的な直線」)のひとつだそうだが、その線が、私が住んでいる山梨県北杜市を通っているようだ。また南アルプスの甲斐駒ヶ岳と八ヶ岳の赤岳を結ぶ龍神レイライン上にも位置するらしい。
近くの「延命の湯」はパワースポットということになっていて、入浴すると“気”が満ちるという。八ヶ岳には伏流水が流れていて、そこここに湧水がある。湧水がある場所は当然ながら神社があり、そこはもちろん霊場である。湧水がある場所にいると、なんとなく清涼な気を感じるし、邪気が払われる気がする。滝も同様で、「吐竜の滝」が近くにあるのだが、ここで瞑想すると滅法気持ちがよい。巨大な龍の棲み処だと言う人もいる。UFOを見たという人たち、龍を見たという人たちにたくさん会った。視界が開けた山麓で、晴れた日にたくさんの龍が遊んでいるのを見たという人までいる。残念ながら私はどちらにもお目にかかっていない。興味はあるのだが。
この地域には大小様々神社がある。舟形神社という名前の神社がいくつかあるのだが、そのうちの一社には「アメノトリフネ」をつないだと伝承されている石がある。「アメノトリフネ」とは古事記に出てくる「天鳥船」で、まさに古代のUFOではないか。山はもともと山岳信仰の対象で、神様として祀られている。八ヶ岳も当然そうで磐長姫命と八雷神が祀られ、中世からは修験道の霊場としても知られている。そういうことも、不思議好きな人たちを魅了する地域でもあるのかもしれない。
正直に言えば、私ももともと不思議大好きで、そういう話には身を乗り出してしまう。この周辺は芸術家が多く移り住んでいて、二拠点として使う人も、移住した人もいるが、作詞家、作曲家、詩人、画家、造形家などいわゆる「クリエイティブな」仕事をする人が多い。私が10年前に初めてここに仕事場を構えたのも、詩人と作曲家の友人の勧めによる。住んでみたら、「え?私も近くにいるよ」と同業者に驚かれたりした。自分の中に降りていって集中しなければ、何も生み出せない仕事をしている者には、見えない存在の力が本当に助けてくれているのかもしれないと思ったりする。不思議好きでないという人たちも、うっすらと背中を押される感じがして、ここに拠点を持つのかもしれない。
スピリチュアリティとは、産業革命以来の科学偏重の世界にあって、合理性だけでは生きられないと考える人間が個人的に霊的なものにアクセスするようになったこと、体系的ではなく自由なあり方を指す。それに対してスピリチュアリズムとは「霊魂が存在するとし、肉体の死後も魂は生き続け、生者と死者は交信でできる」という思想だ。この考えに基づき19世紀以降イギリスを中心に霊媒を通した降霊会なども盛んに行われた。現代の日本で「スピ系」という場合、霊魂に留まらず、龍や天狗などの空想上の存在や、宇宙人、さらに八百万の神など、目に見えない存在全てとの交流を含んでいるスピリチュアリティというべきだろう。
「神々との会話」「悪魔との会話」という経典があることから、ブッダも目に見えない存在を認めていると考えている。「梵天」という存在がどういうものか私には分からないが、梵天に頼まれて布教を開始したのだから、梵天もいるのだろう。原始仏教のヴィパッサナー瞑想を修行する者として、目に見えない存在を容認することは間違いではないと思っている。
ただどうだろう、そのことに過度に興味をもったり、現実の事象を軽んじたりすることには抵抗がある。「そういうことはあるかもしれない」「そういう存在はいるかもしれない」と考えつつも、それを第一にして生きるのは違うように思う。霊媒師や占い師に依存して、どんな些細なことも聞いて行動するという人もいるが、やはり自分を明け渡すような生き方は抵抗がある。もし私自身に霊感があり、霊を見たりUFOと交信したり、龍がやってきたりしたとしても、自分で考え、自分で判断し、道を決めないと気持ちが悪い。
娯楽のひとつとするにしては、「見えない存在」は重く危険なものだとも思っている。決して軽んじること無く、見えないからこそ真摯に祈りを捧げ、尊重しなければならないと思う。そんな微妙なバランス感覚を大切にしながら、ここ八ヶ岳南麓で見えない存在と共に生きていきたいと思っている。

下館道場の仏頭


ヘートゥパッチャヨー(因縁)
1)ヘートゥパッチャヨー(因縁)
結果に関連する対象に心がしっかりと留まるように、水を吸い上げる根のごとく作用する法
●木と根の例え
木の種を土に蒔いて栽培するとまず種から出て来るのは小さな根っこです。その後芽が出て、そこから葉っぱが出てきます。地面の中にしっかりと根を張れば張るほど、より力強く芽生えて大きく育ちます。
種から芽が出た時にその根を切り取ってしまったらそれでも芽は大きく育つことができるでしょうか。育つことはもはや出来ません。死んでしまいます。
根を切らずにおけば、地面深くにしっかりと根づき、枝葉も大きく育ってやがて花が咲き、たわわに実がなります。
軽く考えてはいけません。
木の枝葉を切り落としても根が残っている限り枝が伸びて葉をつけます。椰子の木の半分を伐採してしまえば根っこが残っていても死ぬだろうと軽く考えてはいけません。これを理解できるように最も身近な例を挙げて比べながら説明します。あらゆる木々を想定して例えをあげています。木々の性質として、それを殺したければ根を掘り出して断ち切る以外にありません。
このように、木が青々と生い茂り実を結ぶための最も大事な支えとなるのは水を吸い上げる根です。
●六つのヘートゥ(因)
木に根があるように、人間にも水を吸い上げる根と同様の仕組みが六つあります。それは①ローバ(貪)②ドーサ(瞋)③モーハ(痴)④アローバ(不貪)⑤アドーサ(不瞋)⑥アモーハ(不痴)です。これらを六つのヘートゥ(因)と呼びます。ヘートゥ(因)とは原因となる法という意味です。
●原因となる様子
水を吸い上げる根は、枝葉、実、花が生き生きと生い茂り、しっかりと安定するように支えるための原因となります。同様にローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)、アローバ(不貪)、アドーサ(不瞋)、アモーハ(不痴)も、それらと同時に生じる名(心)と色(物質)がしっかりと安定し、増大し、堅牢になるための原因となります。
人にローバ(貪)が生じ、ローバ(貪)という根が絡みつき、ローバ(貪)という根が強力になると人間関係、国政、経済、科学、功徳、それぞれの場でローバ(貪)と一緒になって考えます。ローバ(貪)と一緒になって調べ学びます。ローバ(貪)と一緒になって決断します。ローバ(貪)と一緒になって行動します。その人に生じる心、心所(心と同時に生じて滅し、心と同じ対象を取り、心を修飾する法)、と言う名法は常にローバ(貪)を伴い、ローバ(貪)と共に存在するようになります。「ヘートゥパッチャヨ―(因縁):結果に関連する対象に心がしっかりと留まるように、水を吸い上げる根のごとく作用する法」と言うのはこのような性質、状況を示したものです。
●水を吸い上げる根を掘り出してこそぎ取るとどうなるでしょうか。
木の根を掘り出してこそぎ取ると、成長して生い茂ることができなくなります。花が咲いたり、実がなったりすることもなくなります。同様に、ローバ(貪)と言う根を掘り出してこそぎ取ると、その後は何かを欲しいという心が生じることは無くなります。欲しい物を手に入れよう、何が何でも手に入れようという心も消えてしまいます。ローバ(貪)が有る限り何かを欲しいという心、何が何でもこうしたいという心が、次から次へと生じるようになります。
名法(心)がローバ(貪)とかかわるようになると、心が原因で生じる物質(心生色)が現れ、欲深い振る舞いが生じます。顔を見ても、目を見ても、欲深い人は、それが明らかに分かります。「ヘートゥパッチャヨ―(因縁):結果に関連する対象に心がしっかりと留まるように、水を吸い上げる根のごとく作用する法」と言うのはこのような性質、法を示しています。
●原因と結果
ローバ(貪)という心がパッチャヨ―(原因)です。欲しい物を欲しいと声に出して言う、手に入れようと努力する、これらはローバ(貪)が原因となって作りだした結果です。「ヘートゥパッチャヨ―(因縁):結果に関連する対象に心がしっかりと留まるように、水を吸い上げる根のごとく作用する法」と言うのはこのような性質、法を示しています。
同様に、ドーサ(瞋)が原因となったら、心も身体も粗暴になります。顔は真っ赤になります。そして真っ赤になった部分がくすんだ色になります。ドーサ(瞋)が原因となって、悪口を言いたい、叫びたい、叩きたい、殴りたい、殺したい、切り捨てたいという心が生じます。これが、ドーサ(瞋)が原因となって生じる状態です。
水を吸いあげる根が強力になればなるほど、木は大きく育ち元気になるように、ドーサ(貪)が強力になればなるほど、心の状態、身体の挙動、発する言葉は粗暴になります。まず顔つきが悪くなります。次いで表情が暗くなります。三番目には大きな声をあげます。四番目には相手を罵るようになります。五番目には相手を叩いたり殴ったりしたくなります。ドーサ(瞋)が強力になると頂点に達すると、殺したり、切りつけたりします。「ヘートゥパッチャヨ―(因縁):結果に関連する対象に心がしっかりと留まるように、水を吸い上げる根のごとく作用する法」と言うのはこのような性質、法を示しています。ドーサ(貪)の心が原因となる法です。ドーサ(貪)が原因となって生じるのが結果の法です。
●モーハ(痴)、無知の様子
モーハ(痴)というのは何も知らないということではありません。知ってはいますがその知識は原因と結果、善と悪、正と誤を区別し、批判的に知る知識とは異なります。モーハ(痴)という根が強力になった人は疑いが深くなります。心が散乱します。原因と結果、善と悪、正と誤を区別し、的確な見方で知ることはありません。モーハ(痴)が強力になればなるほど疑いが強くなり、心の散乱が多くなります。正しいか誤りか分からなくなります。モーハ(痴)が原因で、正誤の区別が分からないのが結果です。「ヘートゥパッチャヨ―(因縁):水を吸い上げる根のごとく原因として作用する法」と言うのはこのような性質を示したものです。
●ローバ(貪)ドーサ(瞋)が生じるたびに
このモーハ(痴)はローバ(貪)が生じると、ローバ(貪)に連れ添って同時に生じます。同様にドーサ(瞋)が生じると、モーハ(痴)が同時に生じます。けれども主役はローバ(貪)、ドーサ(瞋)なのでモーハ(痴)はあまり目立ちません。モーハ(痴)は脇役として大活躍します。
ローボー アッタン ナ ザーナーティ、ローバ(貪)が生じている時は原因結果、善悪、正誤を吟味し区別して知ることが出来ません。
コード― アッタン ナ ザーナーティ、ドーサ(貪)が生じている時は原因結果、善悪、正誤を吟味し区別して知ることが出来ません。
正しく知ることが出来ないと、ローバ(貪)が生じれば、ローバ(貪)を土台として過ちを犯してしまいます。ドーサ(瞋)が生じれば、ドーサ(瞋)を土台として過ちを犯してしまいます。
●モーハ(痴)が原因となる様子
モーホー アッタン ナ ザーナーティ、モーハ(痴)が生じると原因結果、善悪を吟味し区別する力が無くなってしまいます。
モーハ(痴)が原因であり、疑いが生じる、心が散乱する、正誤が分からないなどが結果です。「ヘートゥパッチャヨ―(因縁):水を吸い上げる根のごとく原因として作用する法」と言うのはこのような性質を示したものです。
●モーハ(痴)が主役となる様子
モーハ(痴)がローバ(貪)、ドーサ(瞋)の脇役として生じる一方で、モーハ(痴)が主役になることがあります。無為に過ごし、この人も信じない、あの人も信じない、疑うことが多くなって、心が散乱し、正誤を区別して理解することができず、支離滅裂になります。これらはモーハ(痴)が主役として機能した場合に見られる状態です。これで三つの不善なヘートゥ(因)についての説明が終わりました。







