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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『ゆるしの航海』(前) 静華

 通知表はほとんど5、稀に4。
 児童会長をやったりしちゃう。
 友達も不自由しない程度にいてくれる。
 勉強もそこそこにできて、有名な大学に入る。
 名の通った企業に勤める。


 私のこれまでの人生を振り返ると、大船に乗って順風満帆な人生を送っているように見えるかもしれません。しかしその実態は、形ばかり取り繕った外装で、中にはゆらゆらカヌーで人力で漕いでいる不安定な生身の舵取りがいました。

 みんなが幸せにしてくれていたらいい。それをただ見ているのが好きです。大人しくしている人たちから、感情を全部出してはしゃいでいる人たちまで。
 それなのに、本当は「勝手に好きなようにしていたい」というわがままな自分がいることを知っていました。それを出すとみんなハッピーでいられないかもしれない。それが怖かったのです。
 例えば、悪口が嫌い・噂話や流行りのテレビの話が苦手だったので、周りの友人がちょっと嫌な先生の話や最近盛り上がっているドラマの話をしているなかで、「そんなことより...」と自分の話をするのは、既に繰り広げられているみんなの楽しい時間を奪ってしまいます。

 だからこそ自分に自信がもてず、自分が積極的に関わるとその幸せを壊してしまうかもしれないから、距離をとり、一匹狼になり、人が好きなのに人が苦手という不器用な自分に、酷く悩まされてきました。
 自分がやることをある程度ちゃんとやって、体裁や笑顔を整えておけさえすれば、誰も悲しみません。余計な心配もかけません。完璧な自分の出来上がりです。

 テストは100点じゃないと褒められない、習い事や学校を休んではいけない。
 仲良くしていたお友達からの急な「本当に自分勝手だよね」という怒りの乗った言葉と別れ。
 昨日まで一緒にお昼を食べていたグループが突然いなくなり、孤立。
 言葉と力の暴力をふるうパートナー。

 その綺麗な外装は、教育熱心な母の教えと、順風満帆”風”な学生時代の中に起きた出来事によってどんどん強固に塗り固められていきました。

 自分が素直に動くと、誰かが傷つく。
 どうしたら周りが傷つかないか?求められている役回りはなんなのか?人の目を気にして、私の船の舵は見えない誰かがいつも取っていました。というより、見えない誰かに委ねた方が、自分がもっと傷つかないで済むから、そうさせていたんだと思います。

見かけだけは豪華客船のまま、社会人も4年目になった頃、そんな脆い自己像のバランスを ”壊してくれた” 出来事が立て続けに起りました。
 その時はもちろん知る由もありませんが、これが私の人生を大きく変えてくれる、瞑想と出会う入り口でした。そして、当時は壊してくれたなんてもちろん思っていません。辛くて仕方なかったですから。瞑想に出会って変わることができた今だから、そう言えるようになっています。
 ……
 「最近、気をつけてたんだけど太っちゃったんだよね。触ってみてよ、このお腹」
 母にそう言われ手を触れてみると、明らかに、「太ったお腹」ではありませんでした。
 パンパンに皮まで張った、私の知らないお腹。得体の知れない感覚に、わずかに戦慄が走ったのを覚えています。
 「これ、太ってるお腹じゃない。怖いから、早く病院行って」
 母は、ステージ4の腹膜がんを患っていました。これまで病気一つしたことのない母の突然の闘病生活が始まりました。

その最中、私の心が折れる出来事が起きます。代表を務める社会人サークルである出来事が起きてメンバーの1人を辞めさせるという、私にとってはこの上ない苦渋の決断をしなければいけなくなりました。大好きなメンバーでした。「みんな一人一人が幸せでいてくれればいい」という気持ちがベースにある中で、自分から苦しみを与えなければならなかったことをきっかけに、これまで責任感で繋ぎ止めていた自分の心を保つ糸がプツンと切れた音がしました。チーム運営で悩んでいたり、多忙な仕事で心身疲弊していたところに、トドメを刺された形となりました。
 それ以来、酷い自己嫌悪に苛まれ、対人恐怖症になり、睡眠障害などで苦しめられました。「ごめんなさい」が口癖で、寝床から起き上がれないことがあったり、人と目を合わせるのが怖かったです。
 とはいえ、母が頑張っていますから心配はかけられません。
 どうにかして自分を救えないかと、貪るように自分の心のケアに走り始めます。心理学や脳科学などを自己流に学びながら、ここで初めて瞑想に出会います。

 その時出会った瞑想は、イメージ瞑想でした。それは、なりたい理想になっている自分を想像し、暗示をかけるように自分に肯定的な言葉を繰り返し投げかけて叶えていこうとする、アファメーションに近いものです。ある程度、効果がありました。頭の中の妄想から解放されて、どっしりと安心感と安定感を持ちながら、自分軸で生きていく。自己嫌悪の声もおさまり、人の目を見て落ち着いて話せるようになりました。悪夢も見なくなりました。ただ、その瞑想は自分の嫌な出来事や思い出、嫌な感覚を消すイメージをするもので、そういったネガティブな感覚にダメ出しをされているようで、自分の全てをゆるして上げられない、どこか空虚でまだ苦しい感覚が残り、いつしか遠のいていきました。

 立ち直る自分とは裏腹に、母の病状は悪化していきます。もともと気丈な母は、すぐに治してまた普通の日常を送る、仕事に戻ることを目標に明るく必死に闘っていましたが、治りかけたところでの2度の再発、腸穿孔、脳転移、リンパ浮腫、蜂窩織炎、交通事故など、ことごとく母の前向きな気持ちを無情にもへし折り続ける出来事ばかり起きました。
 次第に、母と家族との関係も悪化していきました。助けたい父と私は、わからないながらに手を差し伸べますが、「病人扱いしないで、自分でやりたい」と、その思いを尊重して見守ろうとすると「なんで手伝ってくれないんだ」と言われたり、支える側の、分かってあげられない中なんとかしてあげたい気持ちと、母の頼りたくないけど頼らざるを得ない無力感、自分でできることがどんどん減っていく辛さが噛み合わなくなります。それぞれの気持ちがすれ違っていて、家庭崩壊です。
 母は毎日鏡を見ては、病気になって変わってしまった自分の姿に涙をしたり、怒りをぶつけてきたり、自分を受け入れることができなくなっていきました。(つづく)

今日のひと言

2024年8月号

(1)我執が深くエゴが強い人の中でも、自分を嫌悪し怒りを持っているタイプの方は慈悲の瞑想がノラない、 上手くいかない、苦手だ……ということが多い。
 対策は、怒りとエゴを引き算することだ。
 他人を利する利他行や善行を課題にするとよい。
 エゴ感覚を弱め、他人を思いやる練習……。

(2)反射的な衝動に従ってしまえば……、浮かんだことをそのまま言ってしまえば……、人は必ず愚かなことをしてしまう。
 人格完成者でもなければ、悟りを開いたわけでもない凡夫が、自分のされてきたことを無意識に再現しながら子育てをしているのだ。
 よく気をつけておれ、とブッダは言う。

(3)堂々めぐりになった思考回路では、何も書けず、途方に暮れるばかりだ。
 歩く瞑想をすると、思考が止まり、頭の中を空っぽにできる。
 余計な回路が閉じられれば、脳内の全データが使用可能の状態になる。
 すると、意識下の必然性が必ず一瞬の閃きをうながしてくれる。
 歩けば、智慧が出る……。

(4)歩くことは、極めて高度な脳の働きによって支えられている。
 ギリシアの賢者達が歩きながら哲学していたのも、脳科学的に理に叶っていたようだ。
 私も、原稿の筆が渋り、アイデアに行き詰まると、歩く瞑想をしながら近辺での所用を果たすことにしている。
 ほぼ確実に閃きが得られている。

(5)この世の煩悩の対象であろうと、彼岸の超越的な対象であろうと、求めている執着の手を離さない限り、苦しみが生まれてくる。
 執念で得たものも無残に壊滅していくのが業の世界だ。
 ゲットしても、永遠の不満足性がくすぶる。
 限りなく手放して、究極の引き算の果てに拡がる安息と静寂……。

(6)人生に迷い、道を求めて東に西に遍歴しなければならなかった。
 カルマが悪かったのだろうか。
 その結果、デタラメな情報やネガティブな経験を重ね、膨大にデータ化されていった。
 それは、瞑想ができない人を教える上での宝物になった。
 カルマが良かったのか、悪かったのか……。

(7)因果関係がしっかりしていれば、どんなことでもあり得るのが業の世界だ。
 成功の瞬間がある。
 失敗の瞬間がある。
 ただその状態が一瞬あっただけなのに、心の中に焼き付いた「静止画」が苦の元凶となる。
 事実を握り締めることはできない……。

サンガの言葉

『四聖諦』……五

四聖諦(五)
(7)正念
 正念(正しい気づき)をもって生きることは、幸福と精神的成長にとっての基礎です。それは大いなる祝福であり、最も大きな力によって護られることです。人間は概してある程度の気づきは持っているものです。しかしそれは多分に散漫なものなので、正確には正念と呼べません。
 正念は、簡単に得られるというわけにはいきません。良いものは簡単には手に入らないのです。正念を発達させ身に着けるには、大きな努力と決意と自己献身を必要とします。正念とは「今の瞬間に心を留めておく」ことです。これは何かの仕事をしている時に、その行為に完全に気づき、マインドフル(註)であることを意味します。
 例えば歯を磨く時は磨いていることに注意を払い、その過程を見守り、考えごとが入り込んでくるのを許しません。食べる時は静かに気づきながら食べます。食事中におしゃべりすれば、それは気づきが抜けているということです。
 この二つの単純な例を取って見ても、正念をもって生きることは、そんなに簡単ではないと分かります。同時に二つや三つのことを行うのは良い技量とは言えず、不器用なことです。一度に一つのことを行うのが本当の技量であり本当の達成です。
 正念を発達させるには、決意が必要です。単純な訓練をこつこつと実践していくと、次第に進歩していきます。特に、内面的なものに気づいていることが必要です。ほとんどの人は外面的なものに注意を向けますが、幸福を得たければ心の内側を見るべきです。

 内面的なものとは、次のものを意味します。
 (1)身体に気づく(身)
 (2)感覚に気づく(受)
 (3)心の状態に気づく(心)
 (4)心の内容に気づく(法)

 これらは、気づきにおける四つの基礎です。気づきながら生きる人が頼りとする四つの領域です。これらの能力を入念に発達させ続けると、自分を護る大きな力の源となります。
 正念を十分に発達させると、人は何をすべきかすべきでないか、あるいは、話すべきか話すべきでないかを知るようになります。話す時は、何を話し何を話すべきでないかが分かってきます。正念は、知識と智慧と満足を得て最上の幸福へと向かわせます。それは八正道を成長させるための基礎です。

(8)正定
 正精進と正念という要素は、八正道の八番目にある正定(正しい集中)の成長を目的としています。正定は、心を一つの対象に向け、心を統一することと定義されます。集中力を高めるためには、普通一つの対象物から始め、心が他のものに揺れ動くことがないようその対象物にしっかりとつなぎ止める訓練をします。
 正精進によって心を対象物に集中し続け、正念によって集中の障害となるものに気づきます。そして障害を除去することに努め、集中力が強くなるのを助けます。繰り返しの訓練により、心は次第に静かに穏やかになります。さらに訓練を重ねることにより、禅定と呼ばれる深い専心状態に至ります。

静止した心 ―智慧の入り口
 心が静止して落ち着いている時、洞察力が発達します。正定が成長し心が洞察のための強力な道具を得ると、静止した心の中に、気づきの四つの基礎である身体と感覚、心の状態と心の対象が熟視されます。

 心が身体と、心に起こっている過程の流れを調べていくにつれ、瞬間瞬間の流れに同調していきます。そして少しずつ段階的に洞察が生まれます。洞察は、発達して成熟し、深まって智慧へと変容します。それは、解脱をもたらす智慧、四聖諦を洞察する智慧です。
 発達の最高点にあっては、四聖諦を直接に即時に経験することになります。それは、煩悩の消滅、心の浄化、束縛からの心の解放をもたらします。
 その名が示すように、聖なる八正道は八つの要素により構成されています。八つの要素は、順に連続して行う必要はありません。それらは同時に働く八つの要素から構成されています。それぞれの要素は独自の働きにより、その独特の方法をもって苦の終焉を達成することに貢献しています。
※訳注:マインドフル(mindful)はパーリ語、「サティ(sati)」の英訳です。一般的には「気づき」と訳されますが、次の三つの意味を含んでいます。
 (1)気づき
 (2)注意深さ
 (3)熱心さ
 これらすべてを一つで表せる訳語が見当たらないので、「マインドフル」のままにしておきます。
 比丘ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(完)(文責:編集部)