通知表はほとんど5、稀に4。
児童会長をやったりしちゃう。
友達も不自由しない程度にいてくれる。
勉強もそこそこにできて、有名な大学に入る。
名の通った企業に勤める。
私のこれまでの人生を振り返ると、大船に乗って順風満帆な人生を送っているように見えるかもしれません。しかしその実態は、形ばかり取り繕った外装で、中にはゆらゆらカヌーで人力で漕いでいる不安定な生身の舵取りがいました。
みんなが幸せにしてくれていたらいい。それをただ見ているのが好きです。大人しくしている人たちから、感情を全部出してはしゃいでいる人たちまで。
それなのに、本当は「勝手に好きなようにしていたい」というわがままな自分がいることを知っていました。それを出すとみんなハッピーでいられないかもしれない。それが怖かったのです。
例えば、悪口が嫌い・噂話や流行りのテレビの話が苦手だったので、周りの友人がちょっと嫌な先生の話や最近盛り上がっているドラマの話をしているなかで、「そんなことより...」と自分の話をするのは、既に繰り広げられているみんなの楽しい時間を奪ってしまいます。
だからこそ自分に自信がもてず、自分が積極的に関わるとその幸せを壊してしまうかもしれないから、距離をとり、一匹狼になり、人が好きなのに人が苦手という不器用な自分に、酷く悩まされてきました。
自分がやることをある程度ちゃんとやって、体裁や笑顔を整えておけさえすれば、誰も悲しみません。余計な心配もかけません。完璧な自分の出来上がりです。
テストは100点じゃないと褒められない、習い事や学校を休んではいけない。
仲良くしていたお友達からの急な「本当に自分勝手だよね」という怒りの乗った言葉と別れ。
昨日まで一緒にお昼を食べていたグループが突然いなくなり、孤立。
言葉と力の暴力をふるうパートナー。
その綺麗な外装は、教育熱心な母の教えと、順風満帆”風”な学生時代の中に起きた出来事によってどんどん強固に塗り固められていきました。
自分が素直に動くと、誰かが傷つく。
どうしたら周りが傷つかないか?求められている役回りはなんなのか?人の目を気にして、私の船の舵は見えない誰かがいつも取っていました。というより、見えない誰かに委ねた方が、自分がもっと傷つかないで済むから、そうさせていたんだと思います。
見かけだけは豪華客船のまま、社会人も4年目になった頃、そんな脆い自己像のバランスを ”壊してくれた” 出来事が立て続けに起りました。
その時はもちろん知る由もありませんが、これが私の人生を大きく変えてくれる、瞑想と出会う入り口でした。そして、当時は壊してくれたなんてもちろん思っていません。辛くて仕方なかったですから。瞑想に出会って変わることができた今だから、そう言えるようになっています。
……
「最近、気をつけてたんだけど太っちゃったんだよね。触ってみてよ、このお腹」
母にそう言われ手を触れてみると、明らかに、「太ったお腹」ではありませんでした。
パンパンに皮まで張った、私の知らないお腹。得体の知れない感覚に、わずかに戦慄が走ったのを覚えています。
「これ、太ってるお腹じゃない。怖いから、早く病院行って」
母は、ステージ4の腹膜がんを患っていました。これまで病気一つしたことのない母の突然の闘病生活が始まりました。
その最中、私の心が折れる出来事が起きます。代表を務める社会人サークルである出来事が起きてメンバーの1人を辞めさせるという、私にとってはこの上ない苦渋の決断をしなければいけなくなりました。大好きなメンバーでした。「みんな一人一人が幸せでいてくれればいい」という気持ちがベースにある中で、自分から苦しみを与えなければならなかったことをきっかけに、これまで責任感で繋ぎ止めていた自分の心を保つ糸がプツンと切れた音がしました。チーム運営で悩んでいたり、多忙な仕事で心身疲弊していたところに、トドメを刺された形となりました。
それ以来、酷い自己嫌悪に苛まれ、対人恐怖症になり、睡眠障害などで苦しめられました。「ごめんなさい」が口癖で、寝床から起き上がれないことがあったり、人と目を合わせるのが怖かったです。
とはいえ、母が頑張っていますから心配はかけられません。
どうにかして自分を救えないかと、貪るように自分の心のケアに走り始めます。心理学や脳科学などを自己流に学びながら、ここで初めて瞑想に出会います。
その時出会った瞑想は、イメージ瞑想でした。それは、なりたい理想になっている自分を想像し、暗示をかけるように自分に肯定的な言葉を繰り返し投げかけて叶えていこうとする、アファメーションに近いものです。ある程度、効果がありました。頭の中の妄想から解放されて、どっしりと安心感と安定感を持ちながら、自分軸で生きていく。自己嫌悪の声もおさまり、人の目を見て落ち着いて話せるようになりました。悪夢も見なくなりました。ただ、その瞑想は自分の嫌な出来事や思い出、嫌な感覚を消すイメージをするもので、そういったネガティブな感覚にダメ出しをされているようで、自分の全てをゆるして上げられない、どこか空虚でまだ苦しい感覚が残り、いつしか遠のいていきました。
立ち直る自分とは裏腹に、母の病状は悪化していきます。もともと気丈な母は、すぐに治してまた普通の日常を送る、仕事に戻ることを目標に明るく必死に闘っていましたが、治りかけたところでの2度の再発、腸穿孔、脳転移、リンパ浮腫、蜂窩織炎、交通事故など、ことごとく母の前向きな気持ちを無情にもへし折り続ける出来事ばかり起きました。
次第に、母と家族との関係も悪化していきました。助けたい父と私は、わからないながらに手を差し伸べますが、「病人扱いしないで、自分でやりたい」と、その思いを尊重して見守ろうとすると「なんで手伝ってくれないんだ」と言われたり、支える側の、分かってあげられない中なんとかしてあげたい気持ちと、母の頼りたくないけど頼らざるを得ない無力感、自分でできることがどんどん減っていく辛さが噛み合わなくなります。それぞれの気持ちがすれ違っていて、家庭崩壊です。
母は毎日鏡を見ては、病気になって変わってしまった自分の姿に涙をしたり、怒りをぶつけてきたり、自分を受け入れることができなくなっていきました。(つづく)