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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

ラベリング論 第1回 「ラベリングは必要か……」

 ★ヴィパッサナー瞑想を進ませるには、いくつかのポイントがある。サティの精度を上げる。集中力を強化する。妄想の対処を厳密にする。反応系の修行を徹底する。五戒を厳守する。ラベリングの質的向上を目指す。洞察の智慧の仕込みをする、等々。
 ヴィパッサナー瞑想は総合的システムなので、瞑想を進ませるには、瞑想を構成しているファクターをパーツに分けて修行し改善することが重要である。今回から、瞑想会で質問されることが多いラベリングについて考えてみたい。

*ラベリングの是非


 適切なラベリングが浮かばずに立ち往生することは誰にでもある。一瞬一瞬の現実を鋭く観察せずに、使い古したラベリングを惰性で使っているうちに、真実の経験と認識にギャップが生じてくることもよくある。
 正確なラベリングを模索しながらいつの間にか妄想していたり、違和感のある言葉でやむなく妥協するのが心残りだという人も少なくない。
 それやこれやでラベリングを煩わしいと感じる人も多く、「集中の邪魔になる」「妄想を排除する瞑想なのに、妄想と同じ概念のラベリングを使うのは変ではないか」と批判する人もいる。
 しかし、初心者がラベリングなしで歩く瞑想をやりなさいと言われると、訳がわからなくなって瞑想にならない人が続出する。ラベリングに頼らないと、サティが維持できず自己客観視が崩れてしまうのだ。正確なラベリングは本質洞察の智慧に通じており、発想の転換やリフレーミング(再解釈・再評価)、引いては人生の生き方系の変化にも影響をおよぼすだろう。
 ラベリングを使わず身体感覚のみに集中する方法もあるが、それでは心随観も法随観も至難の業となり、ヴィパッサナー瞑想としては限定的なものになっていく。もし瞑想によって考え方や人生の流れを良い方向に変えていきたいのであれば、ラベリングは最も重要な修行ポイントの一つであり、洗練させ深めていかなければならない。

*法と概念


 人生が苦しくなる原因は渇愛であり、渇愛は無明に由来する、と仏教は考えている。無明とは真実が見えない心の状態であり、勘違いするのも、錯覚するのも、誤認するのも、脳内に妄想が充満しているからだと考えられる。人の話を聞かず、自分の見たいものだけを見るのが人間である。思い込みや先入観、欲や怒りや嫉妬の妄想があるがままの事実に投影され、法と概念がゴッチャになった状態が無明だといえる。
 事実と妄想の混同が諸悪の根源なのだから、サティの第一義的な役割は法と概念を厳密に仕分けることである。どうすればよいだろうか。方法は2つある。
 一つは、中心対象である腹部や歩行の感覚に集中し、集中が高まる度合いに比例して妄想が滅していくのを実感的に検証する。妄想が入ればそれまで感じていた感覚が消えるし、実感がしっかり取れていれば妄想が侵入していない証左だとわかるだろう。  もう一つは、思考が浮かんだ瞬間に厳しくサティを入れ、思念を次の思念に接続させないで、一つひとつ直接知覚の状態でサティを入れ続ければ法と概念はきれいに識別されている。
 思考は概念と概念の連鎖であると定義されるので、見た瞬間、聞いた瞬間、匂った瞬間にサティを入れて中心対象にもどることができれば、眼識、耳識、鼻識の対象が直接知覚の状態で法として確認されている。同様に、味わった瞬間も、感じた瞬間も、思った瞬間も、ダイレクトに気づかれていれば法なのである。つまり、純粋にヴィパッサナー瞑想が実行されていると考えてよい。

*法の世界に生きる


 瞑想修行をしていなければ、眼耳鼻舌身の対象が意識に触れた瞬間、概念でまとめ上げられた認知ワールドが自動的に形成されていく。人間の認知のプロセスの宿命である。自分だけの認知ワールドを事実そのものと誤認し錯覚する瞬間から人間の苦しみが始まっていく。対象認識の歪みに気づかず、いわば妄想に反応して「行(サンカーラ)」を動かし不善業を形成するからである。
 眼耳鼻舌身の対象を「見た」「聞いた」「匂った」「感じた」……と直接知覚で認知する野生生物はどうだろう。概念化されていない法としての存在だけを対象に生きているので、人間のように妄想で苦しむことはない。いや、もっと正確にいえば、動物の脳内にもイメージは形成されるが、記憶イメージを自在にコントロールする言語を持たないので妄想が暴発してノイローゼ状態になったりはしないということだろう。

*犬の群れ


 昔、タイの海辺の寺で長く修行していたとき、寺に住み着いて比丘の残飯などで暮らす10数頭の犬たちの中に、ちょっと可愛げのある柴犬ぐらいの黒い犬がいた。ビザ延長の目的でマレーシアに一泊し、翌日の夕方寺に戻ると、3、4匹の犬たちがこちらを見ていた。私は裸眼でいまだに1.2の視力があり、犬たちよりも目は良いはずだ。
 風下から近づいて来る私を凝視していた犬たちは、怪しい者か寺の瞑想者か判断がつかず、小さく唸りながら警戒モードだった。やがて視認したのか、嗅覚で認知したのか、長期に滞在している私だと判明したらしい。黒い犬は、『あ!』と気づいて嬉しそうに尻尾を激しく振り始めたが、恥ずかしそうに『なんだ、ボク、間違っちゃった……』と照れ隠しのような笑い顔をして(と、私には見えたのだが)、お帰りなさいの歓迎ムードになった。
 犬たちと別れて自分のクーティに向かって歩きながら、あの黒い犬が何度も脳裏をよぎり、しばしサティを入れずに妄想してしまった。私を覚えてくれていて仲間として歓迎してくれた嬉しさ。昔、知人が飼っていた異常なまでに賢い柴犬が連想され、あの犬の前世は何者だったのか……と、およそタイの寺の現実からかけ離れた妄想だった。
 一方の犬たちはどうだろうか。
 犬の脳内にもさまざまな記憶イメージが保存されている。寺の門を抜け、ゆっくりと近づいてくる私の姿が認知された瞬間、黒い犬の記憶野からゆくりなくも私のイメージが浮上したのだろう。人影が近づいてくる現実と犬の記憶イメージが正確に対応していて、法と概念の混同がない。誤つことなく現状を把握し、寺の犬としての正しい反応行動がなされていたといえる。
 のみならず、犬たちは私が立ち去るや、直ちに犬の現実にもどって一瞬一瞬に集中し、残りわずかとなった夕暮れを真剣に生きていたことだろう。何かやりながら、『あの日本人帰っちゃったのかと思ったけど、戻ってきてくれてよかったよ。……いつまで居るんやろ。エサくれるかもしれないから、今度クーティに行ってみようかな……』などとバカな妄想に耽ることはない。

*ボーッとしている暇はない……


 なぜ人間は現実から遊離した妄想の世界にのめり込み、動物たちは余計な妄想をせず、今の瞬間に完全燃焼するかのように生きることができるのだろう。理由は2つ考えられる。
 まず、食うか食われるかの厳しい現実を生き抜くために、動物たちは一瞬たりともボーッとしてはいられないからだ。死と隣り合わせの日々である。海辺の寺の犬の群れには、狼同然の掟と秩序があり、アルファ雄を中心に役割分担されたピラミッド状の階層社会が形成されており、毎日どの犬も真剣に生きていた。
 人間だって、リング上の格闘家たちには余計な妄想をしている暇はない。野生動物のように、一瞬に命を懸けている。小人閑居して不善をなすのは、暇を持て余して妄想に耽ることが発端なのだ。
 2つ目は、言語脳が搭載されていないからだろう。犬たちも豊かなイメージ記憶を保存しているからこそ、獲物を見定め、正確に狩場の現状を把握し、敵を見分け、仲間の個体識別と絆の維持が可能なのだ。
 しかし、記憶イメージが喚起されるのは現実の一瞬に具体的に対応したものだけであり、刺激がなければ関係のないイメージを呼び起こすことはできない構造だと思われる。つまり、人間のようにイメージに紐づいた言葉を自在に操作しながら、妄想の団子状態を長々と続けることはできないだろうと考えられる。妄想できないから妄想しないだけなのだろうが、常に現在の瞬間に生きている犬や狼たちの生きざまは、悟りを開いた禅僧のように潔く見える。

*言語の光と闇


 人類が言語を持ったメリットは量り知れないものがある。
 言語の情報伝達力は凄まじく、経験や考えや知識を他者と共有する能力が飛躍的に進化し、狩猟も採集も道具の使用も住環境も、生活全般を画期的に向上させ、さらにその知識を次世代に伝承し、文化の発展と多様性をもたらす決定的な礎となった。
 お互いの感情や意図や心の内面を明確に伝えられるようになり、家族や仲間や同胞との絆が深まり、社会的結束が揺るぎないものになったのも、言語の力に負うところが大である。
 人類が集団で複雑な共同作業を協力的に行なうことができたのも、高度な文明を築きインターネットや生成AIや宇宙開発まで可能にしてきたのも言語なくしてはあり得なかっただろう。
 対人関係の画期的なツールとしてだけではない。個人の心の内面に光を照射したのも言語だった。自分の考えを分析し、客観的に整理しながら論理を明確にし、抽象的な思考を高度なものにし、哲学や宗教思想を完成させ、人類の知恵を増大させた立役者でもあった。  言葉がなければ、繊細な感情を自覚することも、豊かな心の世界を深めていくことも至難の業となっていたにちがいない。サリバン女史に救われる以前の幼いヘレン・ケラーが、家族との意思疎通もままならず、混沌とした暗黒の内面を持て余して荒れ狂っていた事実は、言葉の奇跡的なまでの表現力がいかばかりかを暗示しているだろう。

 ……このように言語の価値はいくらでも列挙していくことができるが、同時に言語は人類最大の苦しみの元凶にもなったのである。知恵の果実を食して楽園を追放された男女のように、言語の出現と同時に人類は永遠に妄想で苦しむ羽目になったのだ。明日を思い煩い、悲惨な過去にいつまでも縛られ、疑心暗鬼に駆られ、ネガティブ思考に鬱々と蝕まれ、自己欺瞞や自己否定感覚に苦悩する日々が始まった……。  言語が元凶となって誤解や勘違いが日常茶飯事となり、嘘や偽情報があふれ返り、挙句の果てに真実とフェイクが完全に見分けられなくなるまで悪化の一途をたどったと言えるだろう。
 さらに、現実から乖離した言語による脳内の区別化や差別化は、鋭いカミソリのように自他を分別し、対立を激化させる要因にもなった。
 叩かれて頭に瘤ができても死のうとは思わないが、心を折られた者は自ら命を絶つかもしれない。体を傷つける暴力よりも、罵倒され、見下され、侮蔑され、心をズタズタにされて生きる気力を奪い取られてしまう言葉の暴力のほうが、邪悪さも凶暴さも凄まじいだろう。  社会的に優位な強者の言語は、弱者の言語を使う者を差別し排除し、富裕層や貧困層の階層社会を激化させる一因にもなっている。言葉の力で邪悪な権力者が自己正当化をし、カースト制を押しつけて弱者の貧困層を無力化させる時にも言葉が威力を発揮する。言葉は、毒をまき散らしてもきたのだ……。
 人類にとって、言語の価値が量り知れないように、言葉のマイナス要因も量り知れないのである。
 人は妄想で苦しみ、野生動物は事実で苦しむ。いや、人は事実でも苦しみ、妄想でも苦しむ……。

*言語野のOnとOff


 哺乳類のクジラは海に戻っていったが、肺呼吸をエラ呼吸に先祖帰りさせることはなかった。進化に後戻りはないのである。たとえどれほどマイナス要因があっても、今さら妄想と言葉をセットで手放し、狼たちのように瞬間に生きることを選ぶことはできないだろう。  どうすればよいのだろうか……。
 汲めども尽きぬ知恵の源である言語の価値から、弊害となったマイナス要因を排除すればよい。言語は記号であり、実体のない概念である。概念の連鎖が妄想であり、その妄想が正確な対象認知を妨げているのだから、妄想を止め、野生動物のように空っぽの心で対象をありのままに知覚すればよいということになる。
 だが、考える時には考え、思考を止めるべき時には止められるだろうか。人の頭の中では、微細なものを含めれば四六時中妄想や連想が流れていて、止まることがない。「ああ、ダメだ、こんな嫌なことばかり考えていてはダメになる!妄想はオシマイ!」と言い聞かせてピタリと止められる人がいるだろうか……。
 そんな人は滅多にいないし、できないからこそ、人類にとってヴィパッサナー瞑想が無くてはならないものになったのだと私は考える。複雑で高度に進化した人類の脳の正しい使い方を示すために、ヴィパッサナー瞑想が提示されたという理解である。いかんともしがたいことには、理論と技術がなければならないのだ。
 智慧は得るが、妄想は止めなければならない。妄想を止めるのは正確な対象認知のためだ、と言ってもよい。先入観や思い込みなど妄想の弊害を除去する技法として、ブッダによってサティの瞑想が開示されたのだ。言葉を持たない野生動物のように、知覚した瞬間にサティを入れ、その経験の意味がラベリングによって認識確定される……。
 サティを入れるとは気づくことであり、「気づく」とは一瞬の経験がいかなるものだったかを明瞭に知ることである。いや、こう言うべきだろう。たんなる気づきだけのサティは、理解力のともなったサティへと成長していく。ただのサティがあり、智慧のともなったサティがある。後者を「正知(サンパジャニャー)」と呼ぶこともできるし、「正念・正知」とセットで理解されるのが通常である。
 2つのサティが存在するように見えるが、サティの精度にはグラデーションがあるということだ。妄想や外乱と戦いながら、かろうじてサティを維持しているレベルのサティは、ただ気づくだけで精一杯である。しかるに、定力が高まり集中力のともなった精度の良いサティは、知覚対象から一瞬にして読み出される情報量が増えるので、対象(経験)への理解が増大し、智慧のともなったサティと称されるということだ。
 この、いわば高度なサティの現場では、ラベリング(言葉確認)が不可欠なものとなる。言葉を完全に遮断して認識する瞬間は、野生動物と大差がないだろう。分析力や抽象能力が本質の言葉で認識確定をくり返しながら、洞察のサティへと成長していくことが修行である。
 言語野のスイッチをOffにして、野生動物のようにありのままに知覚し、次の瞬間、言語野のスイッチをOnにしたラベリングで認識確定し、次の瞬間またスイッチをOffにする……。一瞬一瞬こんな複雑なことをしなければ、弊害を排除しながら言語の恩恵を享受することができなくなったのだ。異常に脳を進化させた人類の宿命である。
 瞑想修行としては、言葉脳のスイッチを切ったまま集中したほうがやりやすいし、そのまま集中が極まれば対象と合一するサマーディが成立する。これがサマタ瞑想である。
 だが、対象と一つに融け合ったまま蛸壺にいくらハマっていても、気持ちがよいだけで智慧が閃くことはないし、現実逃避の瞑想と非難されかねない。サマーディ瞑想は刃がこぼれて鈍化した刀剣を砥石でとぐことに譬えられ、解脱の智慧は、その鋭い刃で煩悩の根源である無明を切り裂き、闇に光を照射させることである。
 言葉も概念も駆逐された空っぽの心で対象を知覚し、それがどのような経験として認識されていくのかは、聖者と凡夫、智慧のある人と無い人、霊長類とトカゲや虫によって千差万別となる。言葉の正確な使用を心得ている人の認識は、言葉を持たない動物よりも高度な智慧の世界に通じているだろう。
 私の瞑想理論では、ヴィパッサナー瞑想の智慧が深まっていくプロセスは、ラベリングの進化に対応しているのである。ラベリング論をさらに続けていきたい。(この項続く)
Web会だより

『まさかの瞑想』(後) 匿名希望(50代男性)

私はもともと熱心な仏教徒ではありませんでしたが、たまたま実家が浄土真宗の檀家だったため、小さい頃からお経や浄土真宗の教えには親しみがありました。ですので、原始仏教の考えにはまったく抵抗感はありませんでした。ただ、原始仏教を知れば知るほど大乗仏教とのギャップに気づくようになり、これにはちょっとしたカルチャーショックを受けました。
  とにかく乗りかかった船ですし、やってみるかと思い、毎日10分間だけ歩く瞑想と座る瞑想を実践してみました。ところがいざやってみると、妄想や思考が出るわ出るわ、まともに体の感覚に集中できるのは30秒も持ちません。中学受験をさせない方がよかったのだろうかとか、子どもは将来ちゃんとした職業につけるのだろうかなど、過去の後悔や将来を憂える不安など、次から次へと余計なことが頭に舞い降りてきて10分がとても長く感じました。まるで心は暴れ馬のようでした。
 しかし、曲がりなりにも数か月間続けていると、少しずつ妄想や思考が出てくるまでの時間が長くなってきました。変な例えですが、スキーも最初はだれでも転びまくりますので、嫌になってやらなくなる人もいますが、それを乗り超え、少しうまくなってくると楽しくなってくるということがあります。何となくこれに似ている気もしました。
 この瞑想を数か月間続けると、すぐに私の苦悩がなくなったというわけではありません。ですが、思わぬ副産物が出てきました。それは仕事に集中できるようになり、タイピングなどが早くなったということです。
 それから以前よりは怒りの気持ちが出てこなくなり、いわゆる「ぶち切れる」というようなことはほとんどなくなりました。ただ、私はもともと負けん気が強い性格で、嫌いな人を毛嫌いする傾向が人一倍強かったのです。この気持ちはこれまでも私の人生でマイナス方向にばかり足を引っ張り、プラスになったことはありませんでした。でもこれは心の反応ですから、どうしようもありません。
 それが仏教に関する本を読む中で、四苦八苦の中に怨憎会苦というのがあり、2500年も前に仏陀が8つの苦しみの1つに定義していたことを知りなぜだかほっとしました。また、地橋先生から事実にだけ目を向け、反応の妄想を膨らませないということを教わりました。これまではそういう人と出会ったら、「なんでこんなところで会ってしまうんだ?今日は運が悪いな」などと、嫌悪の気持ちを自分で増幅させていましたが、「まだ自分の心の中に嫌う気持ちが残っているんだな」などと客観的に見るように心がけるようにしました。
 極めつけは慈悲の瞑想です。自分の嫌いな人が幸せになることや悩みや苦しみがなくなることを祈ることは至難の業でした。今でも心底できているかというと、若干疑問ですが、少なくとも嫌悪が自らをも苦しめることになるということを理解し、その心の氷ともいえる恨みの塊を溶かしていこうと努力しています。

 肝心の子どもの不登校に関する心の変化についてです。まず、原始仏教の経典に財産も子どもも自分の持ち物ではないと書かれていました。親としては子どもの幸せを願うばかりにレールを引いてその上を歩いていってもらいたいと思っていました。これが渇愛であり、執着だったということです。教育論的には、過干渉とか過保護ということかと思います。
 また、姉が教えてくれた「手放す」ということは、煩悩を捨てるということにも通じていることに気づかされました。比較する気持ちを仏教的には「慢」というそうですが、これも瞑想修行で手放すべき煩悩の一つに挙げられているそうです。比較して苦しむくらいなら比較しない方がいい、人を嫌って苦しむくらいなら嫌わなければよい。
 地橋先生からは、事実が変わらない限り、認知を変えるしかない。「<捨て育て>という言葉もある。決して見捨てるということではなく、黙って見守りながら、子どものやりたいことをやらせてあげる。お金は出すが、親の押し付けや干渉は一切しない。子供が失敗することを恐れず、仮に行き詰ったとしても、愛情のある眼差しで見守られているかぎり、人にはそれを乗り超えていく力が内在している。人間が本当に成長できるのは人生のどん底まで落ちた時である」というインストラクションをいただきました。
 確かに学歴がなくても立派に人生を切り開いていっている人はたくさんいます。「どうあがいても変わらないものは変わらない。それなら子どもが後悔しないように、好きなことをやらせてあげればいい。もし人生に行き詰まったらその時に考えればいい」。少しずつではありますが、最近はこのように考えられるようになってきました。人の人生は1度きりですし、明日死ぬかもしれないわけです。この心の変化も私にとっては、「まさか」でした。
 地橋先生の本の中に、「自分を苦しめるものは菩薩である」というフレーズがありました。これを私に当てはめると、子どもが不登校にならなければ私は瞑想とも原始仏教とも出会っていなかったということになります。私の子育てもあと数年ですし、決して永遠に続くわけではありません。子育ては親育てと思い、子どもがめぐり合わせてくれたまさかの瞑想を続け、自分の苦悩がどこまでなくなるのか、挑戦してみたいと思います。(完)

今日のひと言

2024年5月号

(1)心は多層構造である。
 表面意識が無思考状態に入れても、意識下で通奏低音のように鳴り響いているものがある。
 トラウマや劣等感などが多いが、それだけではない。
 慈悲の瞑想に集中してからサティの瞑想を開始すると、暗黙の慈悲の波動が放たれる。
 優しい空間が出現する所以である。

(2)瞑想は、孤独な営みである。
 外界の人や環境との関わりを一時的に中断するからである。
 腐った内面を浄化し整えるためには、まず独りになって情報の乱入を拒み、思考や判断を停止しなければならない。
 瞑想者は内閉的な世界に自らを閉ざすがゆえに、ワガママになり独善的になる危険がある。

(3)余計な妄想を駆逐するサティの持続と、互いに思いやりさりげなく配慮し合う慈悲の瞑想の波動が絶妙にハーモニーを奏で、瞑想道場は優しい沈黙に包まれていく……。

(4)それだけではない。
 人にも情報にも環境にも恵まれなければならない。
 外的な条件は、これまでに作ってきた善業と不善業によって決まる。
 徳がなければ瞑想が進まない所以である。
 そして全てが整っても、心に傷がありわだかまるものがあれば、瞑想は破綻する。
 反応系の心を組み換えていかなければならない。

(5)苦楽中道の原始仏教では、断食は苦行と見なされるのが常識である。
 しかし2日程度の断食は苦行ではなく、体の毒素を排除するデトックスであり、瞑想を深める技法である。
 秀逸な瞑想は意識の透明度に比例し、意識は体調、体調は食事の調整によって決まる……。

(6)自分に対する怒りであれ、他人への憤りであれ、怒りは対象を打ち消し、拒み、否定し、破壊するエネルギーである。
 怒りを発すれば、その被害を最も深く、強力に受けるのは、自分自身である。
 病む。怪我をする。心が傷つく。関係が壊れ、情況が悪くなる……。
 愚か者は、よく怒る……。

サンガの言葉

『四聖諦』 (4) 比丘ボーディ

四聖諦(四)
(3)正語
 正語は4つの面を持っています。
 1)偽りの話しをしないこと。つまり嘘をつかないこと。その代わりに真実を話す努力をします。
 2)悪意のある話しをしないこと。人々の間を分かつ言葉や、敵意を生じさせる話しをやめます。その代わりに、道に従う人は常に人々の間に友情や調和を作り出すような言葉を話します。
 3)租野な話しをしないこと。すなわち、怒りから出た言葉や、とげのある言葉をやめ、他人の心にナイフで切りつけるようを言葉をやめることです。その代わりに、柔らかく、優しく、慈愛ある話しをします。
 4)むだ話、うわさ話をしないこと。その代わりに意味のある話、重要な、目的を持った話をします。

 これらのことは、話すという能力にとても大きな力が秘められていることを表しています。舌は身体に比べればとても小さを器官ですが、この小さな器官は、それをいかに使うかによって大きな利益や大きな害を作り出す結果となります。もちろん私たちが実際に習熟しなければならないのは、舌ではなく舌を使う心の方です。

(4)正業
 この要素は身体的を行為に関係しており、三つの面を含んでいます。
 1)生命の破壊をしないこと。つまり他の生命を殺さないことです。その中には動物や他の、感覚を持つ生き物すべてが含まれています。狩猟や釣り等もやめることです。
 2)与えられていないものを取らないこと。つまり、盗みや騙し、他人からの搾取、不正直、不法な手段による富の獲得をしないことです。
 3)性的な不道徳をしないこと。つまり不倫や誘惑や強姦のような不法な性的関係を持たないことです。そして出家した僧にとっては独身を守ることです。

 正語と正業の原則は否定的な表現で言い表されていますが、少し振り返ってみると、積極的な心の要素は、自制することと共に大きな力を伴い一緒に進むことを示しています。たとえば、
 1)命を取らないことは他の生命の苦しみへの共感を持ち、尊重することへの誓約です。
 2)盗まないことは正直さと他者の所有権を尊重することへの誓約です。
 3)嘘をつかないことは真実を語ることへの誓約です。

(5)正命
 ブッダは弟子たちに、生命を害し苦しめるような職業や仕事、あるいは、自分の精神が堕落するような仕事を避けるようにと説いています。正直に、害のない平和な方法で生計を立てるべきです。
 ブッダは五つの具体的を避けるべき職業を述べています。
 1)生きた肉を扱う仕事
 2)毒を扱う仕事
 3)武器や兵器を扱う仕事
 4)奴隷取引や売春を扱う仕事
 5)人を酔わせる酒や麻薬を扱う仕事
 ブッダはまた、人を騙したり、嘘をついたり、押し売りをしたり、ごまかしたりして収入を増やそうとするどんな不正直な行いも避けるべきであると説いています。
 これまで述べてきた三つの要素、正語・正業・正命は、生きる上での行動の指針に関することでした。次の三つの要素は、心を訓練することに関するものです。

(6)正精進
 ブッダは正しい努力によって心の訓練を始めます。道を実践するには、労力と活力と努力が必要なため特にこの正精進を強調しています。
 ブッダは救世主ではありません。彼は、「目覚めた人は道を示す。弟子たちは自ら励み努めなさい」と述べ、さらに続けます。「目的地は、励む者のためにあり、怠け者のためにあるのではない」。
 ここに仏教の大いなる楽観主義があります。この楽観主義によって、仏教は悲観主義であるという非難はすべて論破されます。
 ブッダは、「正しい努力を通して、私たちは人生の全構造を変えることができる」と述べています。私たちは、過去の条件によって作られてしまった希望のない犠牲者ではありません。遺伝子や環境の犠牲者でもありません。精神的訓練によって、心を智慧と悟りと解放の高みへと引き上げることができます。
 正精進は、四つの局面に分けることができます。心に生じる状態を観察してみると、善い心の状態(善心所)と、不善な心の状態(不善心所)という、二つの基本的状態に行き着くことがわかります。不善心所は煩悩、すなわち貪欲、嫌悪、迷妄と、それらの派生物を根源とする心の状態です。
 善心所の方は、八正道や四念処や七覚支のような、育て高めて行くべき徳の資質から構成されています。これら善心所と不善心所のそれぞれを見てみると、私たちがなすべき仕事が二つずつあります。合わせて四つになる正精進は、次のとおりです。

 1)未だ生じていない不善心所が生じるのを防ぐ努力
 心が穏やかな時に、煩悩が生じるきっかけになる何かが起こることがあります。例えば、快いものに対する執着、不快なものに対する嫌悪などです。この感覚を見守り続けていると、煩悩が生じるのを防ぐことができます。貪欲や嫌悪で対象に反応することなく、単に対象に気づきを入れているだけで良いのです。

 2)すでに生じた不善心所を手放すための努力
 すでに不善心所が生じていたら、生じた煩悩を消し去ることです。煩悩が生じているのを見つけたら、それを消し去ることに努力を傾けます。これにはいろいろな方法があります。
 3)未だ育っていない善心所を育てる努力
 私たちには心の中にしまってある、たくさんの美しい潜在的素質があります。これらを心の表に出すようにしなければなりません。例えば、慈しみや他者の苦に対する共感などです。
 4)現に存在する善心所をさらに強化し育成する努力
 私たちは、自己満足に陥ることを避けなければなりません。そして、善心所を保つ努力と、それらを充分に育て完成させるために発達させる努力をしなければなりません。

 正精進についてはさらに注意すべきことがあります。心とはとても精密を器械であり、それを発達させるには、さまざまを精神的要因の正確な調和を必要とします。どのような種類の心所(心の状態)が現れたかを理解する鋭い気づきが必要ですし、極端な方向に脱線することを避け、心の調和を保つためにある程度の智慧も必要です。それが中道を歩むということです。
 精進においては、心を疲れさせないようにすることと、もう一方で停滞することのないよう、調和をとることが必要です。「リュートで美しい音楽を奏でるためには、弦を強すぎず、ゆるすぎず張らなくてはならない」とブッダは述べています。
 道の実践も同じようなものです。修行の道は、精進(努力)と静寂(定)とを調和させて、中道を行くものです。(続く) (
 比丘 ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(文責:編集部)