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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『瞑想と俳句』 榎本憲男

*本会においてヴィパッサナー瞑想の修行に取り組んでいる作家・榎本憲男氏からの投稿です。職種の上からは他の媒体への登載も考えられるところですが、会からの謝意、ならびにあえてご本人が本会へ投稿された意向を踏まえ、ここに「Web会だより・特別編」として掲載する運びになりました。(編集部)


 いつの間にか散文(小説)を書くのを稼業にしてしまいましたが、僕の祖父は韻文の専門家でした。俳人、つまり俳句を詠む者だったのです。
 私の祖父が取り組んでいたのは、江戸時代の俳諧を源流として、正岡子規が創始し、高浜虚子が完成させ、高野素十らに受け継がれた“写生俳句”でした。現実をありのままに写しとり、そこに詩情を詠み込むという姿勢が特徴です。写生、つまり観察という点で、ヴィパッサナー(よく観察する)と共通点を持っていると思います。
 俳句は、私の感情というものをダイレクトには吐露しません。「寒し」と詠むことは稀で「寒さかな」と詠むのが一般です。「寒し」は私が寒いと感じているわけですが、「寒さ」は「寒さがある」という観察です。冬に喫茶の瞑想をしているときに、ポットの金属部に触れて「冷たさ」と入れるサティと同じですね。

 易水にねぶか流るる寒さかな 与謝蕪村
 易水は中国の河北省西部にある川です。ねぶかは葱です。冬の川に葱が流れてくる、そのひんやりとした情景をスケッチしたものです。もうひとつ見てみましょう。

 叱られて次の間へ出る寒さかな 各務支考
 御談義を頂戴して、しょんぼりした心を抱えて部屋を出たときに寒さが身に染みたよという句ですが、やはり「寒し」とは詠わない。

 このようなメタ認知的な観察と「私」の縮減はヴィパッサナーと相通ずるところがある気がいたします。

 仏教は、我欲を捨て、〝私〟の解体を通して真理に到達せよ、と説きます。そして、そのための、長い修行の重要なカリキュラムが瞑想です。瞑想にはいくつかの種類があり(詩にさまざまな形態があるように)、その中で観察(≒写生)を重んじるのが、ヴィパッサナー瞑想だ、などということは、『月刊サティ』の読者には言うまでもないことではありますが、いちおう確認させてください。
 ところで、「観察する」ということは、「観察している人」がいるということですね。それは誰でしょう? もちろん「私」です。

 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
 この句において、「柿」を「食」んでいるのは詠み手である「私」であり、法隆寺の「鐘」の音を聞いているのも「私」です。
 つまり「私」はいるわけです。

 空をゆく ひとかたまりの 花吹雪 高野素十
 この句も同様で、空を見上げているのはまさしく「私」でしょう。

 歩行瞑想の時、マハーシ式のヴィパッサナー瞑想では、歩行のアクションに、それぞれ「離れた」「進んだ」「着いた」「圧」とサティを差し挟みます。このとき、足先が床から「離れた」と感じているのも「私」です。
 つまり、ヴィパッサナー瞑想をはじめて1年未満の現状では、「私」は完全には消えてはいない。僕は、これを清潔でプレーンな概念(離・進・着・圧)によって、汚れた概念まみれになっている「私」を洗浄している途上だと理解しています。そして、どこまでいけるのはわかりませんが、このまま瞑想修行を続けて、無我という境地に至ったときに、自分の肉体の感覚と「私」の関係がどうなっているのか、それは皆目見当がつきません。

 チベット仏教の研究者今枝由郎に『ブッダが説いた幸せな生き方』(岩波新書)という本があり、この第1章のタイトルは「仏教徒は幸せ」となっています。何気ないタイトルですが、実は過激です。なぜなら、仏教の教説を多少聞きかじったことのある者は、仏教は「生きることは苦だ」という認識から出発している、と知っています。しかし、主にチベットブータン仏教の研究者である著者は、「仏教は人としての幸せを追求する、合理的、科学的、ユマニスト的、慈しみのある実践体系、すなわちブッダの『幸福論』、幸せのレシピにほかなりません。レシピはおいしい料理のガイドブックであり、仏教は幸せな人生の指南書です」と説いている。つまり、今枝由郎の言葉をそのまま信じれば、仏教徒は、苦を出発点としながらも、修行を通じて我執を捨てれば、最高レベルの幸せに到達できる、ということになります。これはなかなか魅惑的な導入でしょう。大乗仏教ならではの希望に満ちあふれた提言です。ただ、原始仏教の教えはもっともっと厳しい。この厳しさをどう受け止めるのかが、軟弱な私の目下の課題でもあります。

 俳句はこの世でもっとも短いスタイルを持った詩です。つまり極限まで言葉(概念)を捨てることによって詩情を獲得しています。仏教も捨てることを推薦し、捨てることによって無我に到達せよと説きます。こう考えると似てますね。

 空をゆく ひとかたまりの 花吹雪 高野素十
 この句について、「空を見上げているのはまさしく『私』でしょう」と僕は上に書きましたが、ひょっとしたら修正する必要があるのかもしれません。確かに作者は空を見上げたにちがいないけれど、そのときの彼からは「私」が消えて、風景と合一していたのかも。「私」を捨てたからこそ詠めた句とも言えるし、もっと言うならばなにか巨大なものに「詠ませてもらった」のかもしれません。このように考えると、僕の瞑想に飛躍的な発展が見られないことと、俳句が苦手なことには関係があるのでは、とさえ思えてきました。

 さて、難しい話はこのくらいにしましょう。僕の祖父は7人の子供を持ち、僕の母を含めて子の全員、そして妻(僕にとっての祖母)も俳句を嗜みました。物好きな一族ですね。ただ、三代目、つまり僕や従兄弟らの代になると、俳句などという古めかしいものに興味を示すものはいなくなって、ギターを弾いたりバイクを乗り回したり野球をやったりしはじめます。
 ただ、特に俳句に熱を入れていて、なおかつある俳句誌の編集にも関わっている叔母は、このことに我慢ならなかったらしく、「やらせるなら憲男だな」と僕に白羽の矢を立て、「毎月八句ほど発句し、雑誌に投句しろ」と迫ってきたのです。もちろん原稿料など出ません。おまけに僕は、この方面にはあまり才能がないらしく、ろくなものを作れない。嫌でたまらないわけですが、とはいえ、大学受験の際に和歌山から上京した僕を宿泊させてくれたり、学生の頃にどうにもこうにも金が尽きて無心しに行った折には、救済してくれた叔母がそう言うのですから、断ることなどできないのです。覚悟を決めて、喜捨のつもりで毎月駄句を渡しております。すこし暖かくなった五月、1Day合宿のことを詠んでみました。

 畳踏む 足裏に春 おとずれて 榎本憲男
 道場の 畳あたため 春きたり 榎本憲男
 両句ともに、歩く瞑想についての句です。僕が通う谷中初四町会会館は修行の場であるので「道場」と詠みました。足裏の感覚を鋭敏に感じたいという理由で、靴下はなるべく脱いで歩くのですが、冬は当然寒い。けれど、それも春の到来とともに、すこし暖かく感じられるようになったよ、と詠んだわけです。たいした句ではありません。が、二番目が、「今週の特選」らしきもののひとつに選ばれて、選者の先生に高評していただきました。
 ただし、「作者はおそらく柔道などの武道をたしなんでいるのだろう」などと書かれていたのには笑いました。(完)

今日のひと言

2024年3月号

(1)眼鏡の汚れを拭けば拭くほど、顕微鏡の倍率を上げれば上げるほど、微細なものまで鮮明に見えてくる。
 心がきれいになればなるほど、自分の心の汚さ、未熟さが見えてくる。
 心が真っ黒な人ほど、自惚れる……。

(2)煩悩に汚れた心を自覚しても、浄らかになりたいと願っても、怒ってしまうし、妬んでしまうし、貪ってしまう……。
 溜め息をつきたくなるが、心の成長というものは、ゆるやかに、しずしずと進行していくものだ。
 上手くいかないから練習があり、修行がある。
 心は、必ず変わっていく……。

(3)完全に不要になったゴミを捨てる瞬間に、怒りはない。
 執着が何もない「手放し」の感覚が、仏教の引き算だ。
 獲得すれば獲得するほど、束縛と苦しみとエゴ感覚が肥大していくことに気づかない無明。
 足し算の貧しさ、引き算の豊かさ……。

(4)「よーし、いいこと聞いた、やってみよう」と、猿真似をすると上手くいかないものだ。
 期待と欲でワクワク、ギラギラしている人には、無心に行なった人の「捨」の心がない。
 ビギナーズラックが起きるときの要因の一つだろう。
 余計なことは何も考えず、「一所懸命、淡々と」できますか?

(5)ヴィパッサナー瞑想を実践して2ヶ月だが、3つの効果があったという。
 ①仕事が速くなった。
 ②クレーマーに怒鳴られる業種なのに、自分だけ激減。
 ③苦手な上司と理解し合えるようになった。
 ①はサティの効果。②は慈悲の瞑想。③は①②の相乗効果で自己中心的な見方が変化したから、と解釈される。

(6)壊れた水道のように、四六時中思考が止まらないのが人の基本設定だ。
 集中し、サティを入れ、思考の止まった静かさを味わう。
  さらに、後悔を、自責の念を、恨みを、抑圧された闇を手放すと、心はいちだんと静かになる。
 雑念のない清潔、深層の心も浄らかにした自信と安息、深められる瞑想……。

サンガの言葉

『四聖諦』 (2) 比丘ボーディ

四聖諦(二)
―ブッダは悲観主義者だろうか―
 第一の真理においてブッダが説かれた教えは、往々にして感情的レベルで反感を買います。それによって、ブッダは悲観主義者であるとか否定主義者であるというような誤った非難が起きるのです。
 第一の真理の教えでブッダが意図したことを理解する必要があります。ブッダの究極の目的は私たちをこの苦から解放することにありました。
 苦から解放されるためには努力が必要です。そのためある種の内的葛藤が生じます。
 私たちは自分のまわりに感情という幕を張っています。そうすることによって、自分の望む方法で物事を見たり理解したりしているのです。
 しかしダンマは私たちのこのようを意向に反します。ダンマは真理なのですから、私たちは物事をあるがままに見るしかありません。正しく見ることによってのみ私たちは自由を得ることができます。ですから、私たちは自分が見たいように見ることを止め、客観的に物事を見るようにしなければなりません。
 ブッダは物事を完全に見るためには三つの角度から観なければならないと言われます。
 1)楽しみ、満足という角度から観る
 2)危険性、不満足という角度から観る
 3)解放、脱出という角度から観る
 人生には楽しみや快楽があるとブッダは指摘します。もし、この世に楽しみや快楽や所有物や人間関係などがなければ、人はこの世に執着しないだろうとおっしゃっています。まったくそのとおりです。
 快楽があるから人はこの世に執着しますし、快楽全部が不健全というわけではありません。良い家庭、真の愛、上品な楽しみ、宗教的な生活から得られる幸福は本当に満足を与えてくれます。
 しかし第二の角度から観ると、これらすべては一時的なものであり、それゆえに不満足が生じることが分かるでしょう。それゆえ私たちは、執着や欲望を捨て、これらの楽しみが完璧な満足を与えてくれるものかどうかを調べなくてはなりません。
 ブッダの教えに照らし合わせて人生を観てみると、「生まれ、死んでゆく世界」の中には真の幸福は見いだせないことが明らかになります。そこでブッダはこの苦から抜け出す方法も示しています。それが涅槃であり、涅槃に到る道です。ブッダご自身が到達された所に誰でも行けることを保障されています。ですからブッダが示された道は、最も楽観的で希望に満ちたものであると言えるのです。
 しかし苦から解放されるには、束縛の原因を見つけなくてはなりません。それが第二の真理に示されているのです。

Ⅱ.第二の聖なる真理 ―苦(ドゥッカ)の原因―
 〔あなたの苦は全能の神の意思でしょうか〕
 第二の聖なる真理は、私たちに苦の原因を示すことを目的としています。
 「なぜ私たちが苦しむようになるのか」という疑問に対する答えは、哲学や宗教によって異なります。苦は単に偶然や運命や宿命によって生じると言うものもあれば、苦は全能の神によるものだと言うものもあります。
 ブッダはこれらを信仰と想像の産物として退けます。こういう見方はすべて二つの結果に行き着きます。すなわち、苦を受動的に受け入れることを促すか、苦の症状を治していくことに熱中するかのどちらかです。
 一方、ブッダの方法では問題をその原因、根源にまで辿ります。ブッダは、苦の原因は渇愛(タンハー)だと明言しています。
 渇愛には三つの種類があるとブッダは認識していました。
 欲求には、ダンマの修行をしたいとか、布施をしたいなどの健全なものがあります。また、散歩をしたいとか眠りたいなどの、健全でも不健全でもない欲求があります。そして不健全な欲求があります。渇愛とはこの不健全な欲求、無知に根ざした欲求、個人的な満足を求める衝動のことです。
 欲求は苦(ドゥッカ)の原因として挙げられますが、苦の生起を惹き起こす唯一の要因ではありません。確かに欲求は苦の主要な要因であることは確かですが、渇愛は常にさまざまな要因が重なり合うことによって作用します。渇愛は無知と心理的・肉体的有機体によって条件付けられており、その対象を必要とします。

―三種類の渇愛―
 1.感覚への渇愛(欲愛) カーマ・タンハー
 感覚の喜びに対する渇愛。快い光景、音、匂い、味、触覚、楽しい考えに対する渇愛。
 2.存在に対する掲愛(有愛) バヴァ・タンハー
 生存の存続に対する渇愛。存在し続けたい、特別な姿形になりたい、目立ちたい、有名で金持ちになりたい、不死になりたいなどの衝動。
 3.破滅に対する渇愛(非有愛) ヴイバヴァ・タンハー
 非存在に対する渇愛。自己の破滅を望むこと。最も明白な例は自殺ですが、他の自己破壊行為も含まれます。

Ⅲ.第三の聖なる真理 ―苦(ドゥッカ)の消滅―
 〔苦は完全に克服することができる。ブッダの偉大なる言葉〕
 「この生起の過程を際限無く続ける必要はない」とブッダは言います。
 ブッダは苦(ドゥッカ)の消滅の真理を語ります。この真理によって仏教は悲観主義だという非難は粉砕されます。この真理によって、ブッダの偉大な言葉、「苦は完全に克服することができ、完全な平安の境地が開かれており、渇愛を取り除くことによってその境地に達することができる」という言葉の意味が明らかにされます。
 渇愛の終わりとともにやって来る苦(ドゥッカ)の消滅は二つのレベルで理解することができます。それは心理学的なレベルと哲学的なレベルです。
 心理学的なレベルでは、渇愛が断ち切られると心の不幸はすべて終りを迎えます。心は悲しみ、悩み、恐れ、深い悲しみと苦悩から解放されます。苦(ドゥッカ)の終焉とともに、大いなる平安、至福、完全なる喜びが訪れます。解放された方である阿羅漢は、完全な平安な状態で生きています。常に満足しており、常に落ち着いていて幸福です。肉体の苦痛、老い、痛い、その他の人生の栄枯盛衰があったとしても、阿羅漢の心には乱れが生じません。なぜなら、あらゆる執着から解き放たれているからです。
 死の瞬間に生起の過程は終了します。渇愛が無いので、新たな生存への種子は存在しません。阿羅漢の肉体の崩壊とともに輪廻(サンサーラ)は終焉を迎えます。阿羅漢は生起の世界から知覚することも量ることもできない境地に渡ります。その境地は言葉や概念の範囲を超えています。それは涅槃(ニッバーナ)と呼ばれる実在です。(続く)
 比丘 ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(文責:編集部)