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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『私は、私を解き放った』(後) 柿崎 竜太

(前回より)
 「いける!……ここでなら自分が秘め隠していた事を打ち明けることができる」そう私は思った。
 私はここ数年、いっそのこと誰かに私の嘘を洗いざらい全部打ち明けたいと思っていた。これ以上、誰かに嘘をつき続けるのが辛かった。
 私は、口調にプライドをまといながら、重々しく、遠回しな表現で今までの私の経緯を参加者の前で話した。みんな黙って私の話を聞いてくれていた。
 話し終わり、参加者の方たちから優しい言葉をかけていただいた。中には、自分では思いもしなかった視点で前向きな発想を言ってくださった方もいた。私はとても救われた。何より大勢の前で今まで秘め隠していたことを打ち明けることができ、私はとってもスッキリした。最後に地橋先生から、「今日はぐっすり眠れますね」と言っていただいた。先生がおっしゃる通り、その日はぐっすり眠れた。
 帰り道、一人の合宿の参加者と意気投合し、その方とは後に親友(法友)になった。

 その後、1day合宿の参加は数ヶ月空いてしまったが、法友の導きにより再度参加することになり、現在は、朝カルの地橋先生の講座にも参加している。初回の1day合宿から私は心身ともにみるみる調子が向上している。最初の1day合宿が大きな転機となり、その後の1day合宿、地橋先生との面接、まとめの会、朝カルの法話などで、私の心にコペルニクス的転回が起きた。

 私がここ最近驚いているのは、私の心の変化だ。私は今の自分自身をダメなところを含め、好きだと思えるようになった。幼少期から今に至るまで、私は自分自身の弱みをちゃんと直視した上で、自分で自分に「好きだ」と言ってあげられたことは無かったと思う。
 私は今、人生が楽しい。合宿でみんなで瞑想をやるのが楽しい。地橋先生の法話を聞くのが楽しい。趣味も増えた。仲間も増えた。かけがえのない親友(法友)ができた。
 おそらく今まで生きてきた中で一番、自分が成長する喜び、気付きの喜び、瞬間を味わい、今を生きている喜びを感じているような気がする。私は今まで大した苦労をしてきた訳では無いが、去年のような苦しい思いは懲り懲りだ。今後は60点ぐらいの人生でいいから、少しの幸せを感じながら生きていきたい。

 ちょっとネガティブな表現だが、私はこんなに幸せでいいのだろうかと思ってしまうくらい、何かが以前と違う。実生活の問題は山積みで、日々私の目前には由々しき事態がどんどん舞い込んでくる。けれども冷静に対処できそうな気がするし、それらも1週間ほど経つと過去のいい思い出になり、人生の深い喜びになっている。
 それはこれまでの自分の人生では無かったような不思議な感覚で、ここ最近はこの深い喜びが頻発しているような気さえする。これが何なのか、果たしてこの感覚は正しいのか今の自分にはまだわからない。

 ありがたいことに「月刊サティ!」の寄稿を地橋先生から頼まれたのだが、締め切りはとっくに過ぎ、しかも原稿はまだ半分くらいしか書けていなかった。私の完璧主義はまだ治っていない。
 私:「もう少し時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
 先生:「あまり書きたくないことは無理に書かない方がいいですよ。この原稿の執筆は、飽くまでも執筆者の心が整理され、さらなる修行の進歩に資するところがあるからです。無理し過ぎないでくださいね。難渋しているようでしたら、現状のままでお送りいただいてアドバイスを求められてはいかがでしょうか?」
 私は期日を延ばしてもらい、半分まで書いた原稿をメールに載せた。
 先生:「前半部はこれでよいでしょう。さあ、ここからオセロの黒が全て白に一転するように、1Day合宿を契機に新しい人生が始まっていく流れですね。
 ヴィパッサナー瞑想のセオリーどおり、秘め隠していた鬱屈をありのままに自己開示できたこと、それが理解され、共感され、自分自身を解き放つことができ、法友が得られ、生き方が変わり、人生の流れが変わっていったのですから、この欄のお手本のような原稿ができるでしょう。自信をもって執筆してください。お待ちしております」

 私は先生からのメールを読んでいる途中で涙が溢れてきた。自分でもビックリするくらい声を荒らげて泣いた。内から溢れ出るように、大きな声と大量の涙が出てきた。自分でも、自分に何が起きたのかと不思議だった。大人になってこんなに泣いたのははじめてだった。
 アンケートを覚えていてくれた。私の心の変化に気付いてくれた。私の成長を見守ってくれていたと思うと、とても嬉しかった。地橋先生の優しさに涙が溢れた。
 そして、初めて自分自身に対して「今まで頑張ってきたね」と優しい言葉をかけてあげられた気がした。心から自分のことが許せたのかもしれない。
 いっぱい泣いてスッキリした。

 その後、キッチンの流し台で手を洗っているとき、妙な感覚を覚えた。
 いつもと変わらない見飽きた流し台に、前日の洗い物がまだ残っている。ただ、そのいつもと変わらない流し台がとても鮮明に、かつ輝いて見えた。生まれて初めて蛇口のシャワーヘッド、シンクを見たかのように新鮮で美しかった。実際は水垢だらけなのに。いつもと同じものでも、心が変われば全てのものは美しいのかもしれない。
 私はどん底の中、地橋先生、グリーンヒルの皆さんに救っていただいた。本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

 とにかく今は心身ともに健康になり、他に与える余裕が多少出てきたようにも感じられる。きっと世の中には、私と同じような悩みを抱えている人がたくさんいる。私もその人たちの力になりたい。そしてこれからも悪を避け、善を成し、驕り高ぶることなく、謙虚な気持ちで毎日修行に励みたい。
 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。みなさんが幸せでありますように。(完)

今日のひと言

2024年2月号

(1)夜道を歩いていたら、角の暗がりから突然「福は内!」と大きな声がした。
 そして、「鬼は外!」のタイミングでこちらに向かってパラパラと豆が飛んできた。
 幸福は我が家だけに、災いの元凶は他所に……という訳か。
 嫌いな人や敵対する人にすら「幸せであれ」と祈る瞑想との落差を感じた。

(2)晴れた日は楽しく、風の日は全てがクッキリ明晰だ。
 雨の日は肌も潤い、葉群の緑も樹皮も美しい。
 淡い曇りの日は心が落ち着き大好きだ。
 雪が降る。現実が詩的になる。
 冒険好きなので嵐が来るとワクワクする……。
 全てを肯定できれば、現象世界が達観される。
 執着がなくなると、苦が激減する……。

(3)狼がきたぞ!という誤情報からでも、現実の反応が起き、大騒ぎになってしまう。
 そのように、実体のない幻のような「エゴ」であっても、傷ついたという印象を受ければ、ホルモン系に一連の反応が起き、愛着障害のような問題も発生してしまう。
 「自我」を確立してから「無我」を悟る順番……。

(4)「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない」とブッダは言う。
 「安全基地」を体験した者は、「安全基地」を手放すことができる。
 万物と繋がり合い万物に支えられていると知り、無我を体得した者は、独り犀の角のように歩む……。

(5)自信がなく、自己嫌悪や自己否定感覚との葛藤で苦しんでいる人たち。
 そんな自分を丸ごと受け容れてくれる揺るぎない絆に支えられれば、安心してのびのびと実力を発揮できるだろう。
 だが、その支えを失えば、絶望的な悲しみの中に失速する。
 何ものにも依存しない自己完結を目指す……。

(6)歩く瞑想のやり方が間違っていたわけではなかった。
 だが、インストラクションを受け、ひとつ一つの動作に溜めを作ってから感覚を取り、余韻を感じてからラベリングをするように微調整した。
 すると、頭の中が異様なほどクリアーになったという。
 自覚されない妄想の微塵まで一掃された世界……。

サンガの言葉

『四聖諦』 (1) 比丘ボーディ

四聖諦(一)
 ―象の足跡―
 ブッダの教えの記録は膨大にあります。しかしこれらの教えはすべて一つの枠組み、すなわち四聖諦の教えに入れることができます。ブッダは四聖諦を“象の足跡”に例えています。象の足跡に他の動物の足跡、例えば虎、ライオン、犬、猫などの足跡が入ってしまうように、ブッダのさまざまな教えはすべて四聖諦という一つの枠組みに組み込まれてしまいます。
 ブッダは、「四聖諦を理解することは悟りを得ることと同じである」と明言しています。「ブッダが世に現れるときは、四聖諦の教えもそこにある」ともおっしゃられます。ダンマ(真理)は四聖諦を世に知らしめるためにあり、悟りへの道を歩む人たちが目標とすべきことは四聖諦を自分自身で理解することです。
 四聖諦とは以下のものです。
 1.苦の真理
 2.苦の原因に関する真理
 3.苦の消滅に関する真理
 4.苦から解脱への道に関する真理

 「苦」(ドゥッカ)という言葉はしばしば苦難、苦痛、不幸というふうに解釈されます。しかしブッダの言われる「苦」にはもっと広くて深い意味があり、すべての存在、命を持ったものすべてに根ざしている根源的な不満足感を示しています。その不満足感は、命を持つものはすべて変化し、無常であり、内に核となるものや本質的なものを持っていないために生じます。「苦」という言葉は完全さの欠如、つまり理想や期待にかなわない状態を表しているのです。
 「四聖諦」のそれぞれが深い意味を持っています。それは医者の処方箋のようなものです。

Ⅰ.第一の聖なる真理 ―苦(ドゥッカ)―
 ブッダはさまざまな苦の実態を示すことによりこの真理を説明しておられます。
 1)誕生
 誕生とは、一般的には妊娠から子宮から出てくるまでの期間全体を意味しています。誕生する時にはそれ自体が苦痛の経験となります。選択の余地なく、何も分からずに子宮から押し出されこの世に投げ出されることはトラウマ的な体験です。以後、生涯続く苦の始まりですから、誕生は苦です。誕生後に成長が始まりますが、それもまた苦を内包しています。

 2)老い
 成長が頂点に達すると老化が始まります。肌はしわが寄り、歯は抜け始め、感覚器官は鈍くなり、髪には白いものが混じり始め、記憶力は衰え、活気が失われます。

 3)病気
 肉体的なものであっても精神的なものであっても、病気は苦痛です。

 4)死
 最後には死がやって来ます。肉体が壊れ生命力が消滅することは苦痛です。

 5)悲しみ・悲嘆・苦痛・悲痛・絶望
 悲しみとは何かの喪失に伴う激しい苦悩、悲嘆は涙を流して泣くこと、苦痛とは肉体的な痛み、悲痛とは精神的に不幸なことすべて、絶望とはすべての望みを諦め、精神的苦痛が極限に達した状態です。

 6)不愉快なこととの出会い
 さまざまな不愉快な状況や本来なら会いたくない不愉快な人たちとの遭遇は、自分の意志に反して起こると苦になります。

 7)心地よいものとの別れ
 喜びを感じる心地よい状況があり、会いたい人々もいます。私たちは、会いたい、それがずっと続けばよい、ずっとつかんでいたい、関係を持続させたいと思っています。その喜びを感じる、心地よい状況や人々との別れに直面することは苦です。

 8)望むものが得られないこと
 通常私たちは喜び、富、名声、賞賛を望みますが、苦痛、貧困、不名誉、非難を得ることがあります。若さを保ちたいと思っても年老いてゆき、健康でいたいと思っても病気になります。これらすべてが苦です。
 ですからブッダは簡潔におっしゃっています。「つまり、執着を作る五つの集まり(五蘊)は苦である」と。
 ブッダはこの言葉で、私たちが経験するすべてのことに苦が含まれることを示しておられます。五つの集まり(五蘊)とは私たちの経験を作り出している基礎的な構成要素で、五種類あります。それは物質的な形をもったもの、感覚、知覚、心の形成力、意識です。(色・受・想・行・識)
 「形をもったもの」とは感覚器官を備えた肉体をも含み、他の四つは心の作用に関するものです。
 なぜこれらすべてに苦が含まれるかというと、すべてが無常であり、瞬間瞬間、変化するからです。事実これらはすべて一瞬の出来事であり、内なる核がありません。「私自身」と言っているものは瞬間、瞬間変化している要素の組み合わせにすぎないのです。要素の組み合わさったものが誕生し、老化し、やがて死ぬのです。

 ―深い部分での苦―
 苦とは一般的に言われている苦難以上の意味があることを明確にするために、ブッダは苦をその深さの程度に応じて三種類に分けておられます。
 1)一般的に言われている苦
 身体的、精神的な苦痛。

 2)変化(無常)という苦
 これは感覚による苦から一歩深い段階にあるものです。この段階では、心地よい経験もすべて苦であると理解されます。なぜかと言うと、それらも変化を免れ得ないからです。
 ただし、苦は心地よいものが変化することで生ずるという意味ではありません。心地よい経験自体、喜びを与えるものは、たとえ今それを楽しんでいたとしてもすでに苦なのだという意味です。
 健康は病気に蝕まれます。よって今健康であったとしても、健康という状態は苦なのです。若さは老いにとって代わらざるを得ないために、若さは苦であり、不満足が内在しているのです。

 3)条件付けられた心の形成力(サンカーラ)という苦
 これは、ブッダが「執着を作る五つの集まり(五蘊)は苦である」と言われた時に語ろうとしていたことです。私たちの個別性とは、条件によって左右される現象の組み合わせにすぎません。条件によって左右される現象はすべて無常であり、常に変化の過程にあります。その結果、それを支配したり制御したりする力は私たちにはなく、現象は勝手に変化していきます。知恵ある人にはそれが苦として経験されます。(続く)
 比丘 ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(文責:編集部)