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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『私は、私を解き放った』(前) 柿崎 竜太

  特殊な劣等感と完璧主義が子供の時から今に至るまで徐々に増していき、私は私自身の人生を自らハードモード、生
地獄にしていた気がする。
 私は今年で39歳になる派遣労働者だ。数年前から母と同居するようになり、母との人間関係で大きなストレスがかかり、反芻思考やうつ症状が長引き半年間ほど働けない状態になっていた。
 その時期、たまたま教育系のYouTuberが地橋先生の本を動画内で紹介し、歩行瞑想を実演していたのを見て、直感的にこれは苦痛を和らげるかもしれないと思い地橋先生の本をアマゾンで購入した。これがヴィパッサナー瞑想と出会ったきっかけである。

 瞑想に出会うまでの私の人生をおおざっぱに振り返ると、私の人生は、子供の頃からこれと決めたことが続かず、なので極めて成功体験が少なく、さらに自分が何をしたいのかわからず周りに流されてばかりの人生だったように思う。
 さらに私の心に影を落とした主な出来事は、幼少期の両親の離婚。
 家庭に父がいなくなり、当たり前が当たり前じゃなくなり、心にポッカリ穴が空いた。
 母は昼は仕事で夜は飲み歩き、深夜3時まで帰ってこなかった。幼かった私は怖くて眠れず、テレビにカラーバーが出てくるまで、面白くもない深夜テレビを付けていた。家庭に大人が不在になり、より寂しさが強くなった。 
 小学校低学年から大学に入るまで、私は、私にとって安心のできる心の安全基地を見つけることができなかった。

 20代の頃は若さもあり、辛いことも乗り越えてきたし、仕事や人間関係でもそれなりに幸せだったと思う。
 30代前半に教育関係の仕事に転職したのだが、全く仕事ができず、そんな自分が許せず仕事を辞めてしまった。さらに彼女にも振られ、完全に塞ぎ込んでしまったのを覚えている。今は、仕事を辞める時にこんな私を引き止めてくれた上司や、私を選んでくれたその時の彼女に対し、本当に申し訳なく思っている。
 そこからは、新しいことに挑戦するのを極度に恐れてしまい、アルバイトを転々とし、わずかな収入で食いつなぐような生活を何年もしていた。この時の私は正直少し腐っていたと思う。意固地になり、周りからの意見を聞かず、プライドばかりが高くなっていった。

 30代半ばで、気づけば、良い大学に入り、良い会社に入り、結婚して良い家庭を作るという、いわゆる普通のレールからは完全に脱線し、フリーターで食いつないでいた私は世間に負い目を感じ、恥のような感覚も次第に強くなっていった。
 たまに会う同級生や昔の職場仲間、親戚に職業を偽ったり、低い自尊心からなのか否定されるのを恐れて、自分の好きなことや熱中していることは身近な人にほど語れなくなっていた。同級生との飲み会や親戚の集まりに参加するのが煩わしくなり、次第に友達からの連絡も来なくなっていた。
 そういう状況の中、母と実家で暮らすことになり、母が経営しているスナックバーを手伝うことになった。
 コロナ禍の時短営業の要請で長期間スナックを開店することができず、家に引きこもりがちになり、傷心していた母を助けなければと手伝い始めたのだが、私の心の未熟さゆえ母の嫌なところ、許せない言動ばかりが目につくようになり母と喧嘩ばかりするようになった。
 母といると何故か私は感情が制御できなくなり、怒ってばかりいた。そんな幼稚な自分の心がとても嫌だった。
 それに加え、私は母と暮らしていることやスナックで働いていることを虚栄心から人に話したくなく嘘をついていた。
 私は、周りの人間に嘘をつくため脳の多くのリソースを使い、疲れ、怒りや自己嫌悪でどんどん精神が衰弱していった。

 こういった事情で、私は心のケアと自己変革したいという思いから、去年の6月に初心者講習に参加した。私はヨガにも興味があり、その後ヨガを習いに行ったのだが、根本的な治療にはならなかった。
 12月に入り、症状は悪化していった。反芻思考とうつ症状が強くなり、猜疑心、被害者意識も強くなり、母だけでなく全ての人間関係で不協和を起こしていた。頻繁に悪夢を見るようになり、朝起きるのが非常に辛かった。もう自分一人の力では、この状況から抜け出すのが困難になっていた。私は、藁にもすがる思いで1day合宿に初参加した。
 合宿では歩行の瞑想も心のケアに良かったのだが、私が感銘を受けたのは、合宿中に参加者全員に向かって慈悲の瞑想をやったことだ。
 コミュニティーの中でみんなの幸せを願い、みんなからも幸せを願ってもらえることなんて、私の日常には存在しなかったが、私は心のどこかでそれを求めていた。みんなでみんなの幸せを願う空間。私はそれがとっても嬉しかった。
 合宿中に参加者全員から「ここにいてもいいんだよ」というような温かいメッセージをもらったような気がした。私も参加者全員に慈悲の瞑想とともに、同じような温かいメッセージを送った。

 合宿の最後にある「まとめの会」が私の人生の転機になった。
 参加者全員が車座になり、今日の感想や参加のきっかけなどを一人ずつ語っていく。
 最初の順番の方が赤裸々にこれまでの経緯を話していた。それに対し、他の参加者やボランティアスタッフの方たちは、温かい言葉をかけていた。その場の雰囲気は少し深刻でもありつつ、弱みを話せる安心できる場になっていた……。(続く)

今日のひと言

2024年1月号

(1)外国で一度だけ出会った僧の言葉が、その後の人生の指針となったこともある。
 20年以上瞑想会を続けてきたが、事実上、一期一会となる方が多い。
 それゆえに、なんとかヴィパッサナー瞑想の本質を伝えたいと、その一瞬に集中してきた……。

(2)夜道を歩いていたら、角の暗がりから突然「福は内!」と大きな声がした。
 そして、「鬼は外!」のタイミングでこちらに向かってパラパラと豆が飛んできた。
 幸福は我が家だけに、災いの元凶は他所に……という訳か。
 嫌いな人や敵対する人にすら「幸せであれ」と祈る瞑想との落差を感じた。

(3)自らを拠りどころとし法を拠りどころとするには、どうしたらよいのだろうか。
 ブッダは言う。
 「よく気をつけて身を随観し、受を随観し、心を随観し、諸々の事象を随観して、貪欲と憂いとを除け」
 つまり、ダンマが自らに顕わになるとは、サティの瞑想をしている一瞬一瞬だということ。

(4)「自らを頼りとし、他人を頼りとするな。法(ダンマ)を拠りどころとし、他のものを拠りどころとするな」とブッダは言う。
 本能の命じる声ではなく、なんの根拠もない自己肯定感でもなく、ダンマが顕わになった自分を信じる力が本当の「自信」だということ……。

(5)ギラギラしたエゴ感覚と煩悩に満ち満ちた自分を信じるのが「自信」なのだろうか。
 それは愚か者の我執に過ぎない。
 理法(ダンマ)に基づいて生きていく覚悟が定まった自分に揺るぎない信頼を定めていく。
 「自信」とはそういうことである。

(6)持てる力を全てやるべきタスクに投入できたら、素晴らしい結果が花開くだろう。
 自信がない人の心の中では、「やれるだろうか」「大丈夫だろうか」と不安との戦いや、内面の葛藤にムダなエネルギーが費されヘトヘトになっていく。
 「信(サッダー)」のない人は、自滅していく……。

サンガの言葉

『無我か非我か』 タニッサロ比丘

西洋人が仏教について学ぶ時によく出合う最初の障害の一つは、アナッタ(よく「無我」と訳されます)についての教えです。この教えは二つの理由で障害となります。
 第一に、自我が無いという考えはカルマや輪廻など他の仏教教義とうまく合致しません。自我が無いとしたら、何がカルマの果報を受け、何が転生するのでしょうか。
 第二に、西洋のユダヤ・キリスト教的な背景にうまく合致しません。ユダヤ・キリスト教では基本前提として、永遠の魂または自我の存在を想定しているからです。
 ですから、自我が無いとしたら、精神生活の目的とは何なのでしょうか。多くの本がこうした疑問に答えようとしていますが、ブッダの教えを記録する最初期の文書であるパーリ経典を見てみても、それについては言及されていません。
 事実、自我があるのかどうかを単刀直入に尋ねられたところ、ブッダは答えることを拒否しました。後に、なぜ答えなかったのかと尋ねられたとき、ブッダは、「自我があると考えても無いと考えても、仏教修行の道で歩みを困難にする、両極端な邪見に陥ってしまうから」と語りました。
 ですから、このような質問は横に置いておき、放置すべきものなのです。
 この質問に対するブッダの沈黙が何を意味するのか、そしてそれは無我について何を語っているのかを理解するには、なによりも「どのように質問を発し、答えるべきなのか」「ブッダによる(上のような)答えはどう解釈するか」についてブッダ自身の教えを見てみなければなりません。

 ブッダはすべての質問を四つの種類に分類しました。
 (1)断定的な回答(率直なイエス・ノー)で答えるべきもの(答えに値するもの)
 (2)質問の言葉の意味を明確にしたり修正したりというように、分析的に答えるべきもの
 (3)ボールを質問者のコートに打ち返すように、問い返すべきもの
 (4)放置すべきもの
 です。

 (4)の放置すべき質問とは、苦の滅尽に至らない質問のことです。質問された教師の最初の仕事は、その質問がどの種類に属すのかを判別し、それから適切に答えることです。
 例えば、放置すべき質問にイエスかノーでは答えません。あなたが質問して答えを得たなら、その答えをどの程度まで解釈すべきかを決めなければなりません。ブッダはこう言いました。
 「私を誤解する人には二種類ある。結論を下すべきでない言葉から結論を下す人と、結論を下すべき言葉から結論を下さない人である」と。

 以上がブッダの教えを解釈するための基本原則ですが、のちのほとんどの著作者における無我の教義の扱い方を見てみると、こうした基本原則が無視されていることに気づきます。ブッダは永遠の自我または独立した自我の存在を否定したと言って、無我の解釈を限定しようとする著作者もいますが、これはブッダが放置すべきだとした質問に対し分析的な回答をしてしまうことになります。
 自我は無いと示唆しているように思われる経典中のわずかな言葉から結論を下そうとする著作者もいます。そのように、放置しておくべき疑問に対して無理やり回答を求めるなら、結論を下すべきでないところで結論を下している、と考えた方が良いでしょう。
 ですから、自我は在るのか無いのか(相互に関連したものであれ独立したものであれ、永遠のものであれ、そうでないものであれ)という質問に「ノー」と答える以前に、ブッダはそもそもこの質問が見当違いのものだと感じたのです。
 それはなぜでしょうか。

 「自」と「他」の線引きをどのようにしたとしても、自我という考えには自己の同一化と執着の要素、つまり苦の要素が伴うからです。これは分離した自我にも、相互関連した自我(すなわち、「他」の分離を認識しない自我)にも等しく当てはまります。
 もし人が自然のすべてと同一化してしまうとすれば、その人は、切り倒されたすべての木の痛みを感じます。これは完全に他の宇宙についても当てはまります。そこでは、幸福(自分自身の幸福であれ他の幸福であれ)の追求が不可能になるほど、疎外感と虚しさによる衰弱がもたらされるでしょう。
 こうした理由で、ブッダは「私は存在するのだろうか」とか「私は存在しないのだろうか」などの問いには注意を払わないように助言したのです。というのは、どのように答えても苦を避けることことは出来ないからで、単にあるがままに認識すべきだということです。なぜなら、そうすることで直接に体験され、それぞれに適切な対応が行えるからです。
 「自」と「他」の疑問に内在する苦を避けるために、ブッダは経験を、「苦、苦の原因、苦の滅尽、苦の滅尽に至る道」という聖なる四つの真理に分類するという代案を提供しました。ブッダは、この四つの真理を「自や他」に関連付けて見るのでなく、それを直接経験したままの、単に四つの真理そのものとして認識し、それぞれの真理にふさわしい、なすべき事をなすよう語りました。

 すなわち苦は理解すべきであり、苦の原因は捨て去るべきであり、苦の滅尽は実現すべきであり、苦の滅尽に至る道は培うべきものです。これら、なすべきことをすることによって、無我の教義を最も良く理解できる状況が形成されます。
 寂静の幸福状態に至る「戒、定、慧」の道を培い、そしてその寂静の状態を使って聖なる真理の観点から経験を見れば、心に生じる疑問は、「自我は存在するのだろうか。私の自我とは何だろうか」というものではなく、「私が苦しんでいるのは、この特定の現象に執着しているからだろうか。それは本当に私や私のものなのだろうか。もしもそれが苦であるにもかかわらず、本当は私や私のものでないとしたら、なぜ執着するのだろうか」となります。

 この最後の疑問に対しては率直に答えるべきです。この疑問によって苦を理解し、苦の原因である執着(自己という感覚の残留)を摘み取ることができ、やがて最後には自己という感覚の残留がすべて無くなり、残されたものは無限の自由だけになります。
 この意味で、「アナッタ」の教えは「無我(我がない)」の教義ではなく、苦の原因を手放すことによって苦から脱却し、その結果、最高の不滅の幸福に至る「非我の戦略(我でない)」(※訳注)なのです。その幸福に至った時点で、自我か無我か非我かという疑問は解消します。そのような完全な自由の経験が生じれば、何がそれを経験しているのかとか、それは自我か自我でないのかということに関する関心は生じないでしょう。
 
 ※訳注:我があるか無いかを論じるのでなく、我という感覚の基にある執着を取り去ることにより、我という感覚も無くなり、苦から解放されるという意味でしょう。
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感興の言葉
 人間のうちにある諸の欲望は、常住に存在しているのではない。欲望の主体は無常なるものとして存在している。束縛されているところのものを捨て去ったならば、死の領域は迫ってこないし、さらには次の生存の迷いを受けることもない、と、われは説く。
 「わたしには子がいる。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかし、すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
 世間における種々の美麗なるものが欲望なのではない。欲望は、人間の思いと欲情なのである。世間における種々の美麗なるものはそのままいつも存続している。しかし思慮ある人々はそれらに対する欲望を制してみちびくのである。(「真理の言葉・感興の言葉」(岩波文庫 中村元訳)より)(文責:編集部)