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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『ニュー・ニューシネマパラダイス(脳内映画館からの脱出)』 ― シーズン 2 ― (3) by セス・プレート

(承前)
・どう生きるか ー Reality Bites(俗世間はツライ?)
 肩の痛みは無くなり、医者通いは止まった。でも、相変わらず会社には行きたくない。まだ何か向き合っていないこと、気づいていないことがあるに違いない。このまま少しでも瞑想とサティのある生活を続けていこう、そうすれば、何億劫年後には阿羅漢さんになっているかもしれない。もう、今世は今までみたいじゃなくて、刺激と欲のない生活を慎ましく生きよう。でも、本当?本当にそれが望むこと?
 迷っている頃、地橋先生がある本を紹介してくれた。この本を読んでうまくいくと瞑想に戻って来ない可能性もあり、諸刃の剣らしい。その本は、『自動的に夢が叶っていく ブレイン・プログラミング』で、著者はあの世界的超ベストセラー『話を聞かない男、地図が読めない女』で有名なアラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ夫妻である。端的に説明すれば、この本は願望実現の本だ。叶えたいことを欲望順、時系列にリストアップする。達成期限を付けて、紙に書いて目に付くところに貼って置き、それを頻繁に見る。決して、具体的な方法を「考えてはいけない」。

 やらない手はない。私は瞑想自体は続けるだろう。叶った先から失うことが約束されているこの俗世間で、瞑想は役にたつと思うからだ。すぐに本を買って読んで書いた。毎日必ず目に入るように一番叶えたいことが書かれた紙を時計の上にセットした。リストアップに使ったノートはA4版で、これも時々自分のノートなのにチラ見する。「考えすぎない」ためだ。

 期限11/30/2022、願いごとランクA、『自分をゆるす』
 これが一番期限の近い願いごとだった。この諸刃の剣本の威力は凄い。いや、意図(チェータナー)の威力は凄い。必要なモノ(本や動画)・ことが急速に立ち現れてくる。
 何が起きたのかと言えば、前述の同僚Aさんに対する悪口を言ってしまったのである。なんだ、単なる悪口か、ではないのだ。ずーっと言うまい、言うまいとブレーキをかけてきたのに。同僚Bさんは堂々とAさんが嫌いで、そんなBさんがAさんの悪口を怒涛のごとく私に訴えかけてきたのだ。
 「ああ、そうか、釣られて悪口を言わないテストかな?言わないよ。」と心の中で流した。しかし、Bさんからの悪口はヒートアップ。耐えて、耐えて、耐えたのに、今度はチャットでテレワーク中にBさんからAさんの悪口が来た。自宅で、しかもチャットに向かって書くものだから人目のバリアも緩んで、ついに堤防が崩れた。ザザザーザーっと書くわ、書くわ、いままで貯まってきた我慢を。慈悲はどこへ行ったのか。

 地橋先生に、「慈悲の瞑想をしても懺悔しても、なかなか許せない同僚(=Aさん)がいるのです、昔の自分より悪いというか、そっくりだから気持ちは分かるのに許せません」と朝カルで相談すると、「それは(私の)プライド(高慢)の問題ですね。傲慢さを無くすには、下座の修行がイチ押しですね。世間から低く見られている下賤な仕事を敢えてやるんです。公衆便所のような一番汚いところの掃除なんかがいいですね。身を低めてゴミを拾ったり、人がやりたくないことを率先してやる修行です」とのことだった。
 なるほど、Aさんはとてもプライドが高いのである。それが私を刺激して、怒りの元になっていたのは確かだった。つまり、私の抑圧しているプライド(高慢)が怒りになって爆発したくて、今か今かとチャンスを窺っていたのである。まんまと感情に乗っ取られたのであった。Aさんは会計士なのに、まだ私は合格していないことがずっと悔しかったのだ。私を含めた、資格を持っていいない人達へのバカにした態度がとても嫌で、でも、有資格者でない私は、引け目を感じていた。
 その二日後、急に発熱が始まった。コロナかなと思いPCRを受けに病院へ行く。コロナでもインフルエンザでもない、と薬を処方される。熱が下がって働くとすぐにまた高熱が出て、の繰り返しが2週間ずっと続いた。うすうす、あの悪口が原因かなあ、と思っていたが認めたくなく、単純に風邪をこじらせたんだろうということに帰結した。

 地橋先生に2週間風邪だった旨をいうと、「私(地橋先生)は何十年も風邪をひかないんですよ。正確に言うと、風邪をひきそうになると瞑想で治してしまうのです。体調が少し悪いなあと思うと、懺悔モードになるんです。直近の1週間ぐらいを振り返って、何か過ちがなかったか、思いちがい心得ちがいをしていなかったか、と自問すると必ず反省すべき点が見つかります。それを懺悔しているうちにみるみる鼻水が引いていき、瞑想が終わる頃には良くなっているのです。……体調が悪くなる前に、何かありませんでしたか?」。あああ、やっぱり。そうですよね。「同僚の悪口をかなりワルく書きました」。

 しかしとても有難いことに、ここで、寝込んで仕事してを繰り返しながら腑に落ちたのである。自分の外側に悪口の対象が登場してくる理由は、内面でまだその悪者(自分)を責めているからなのだ。自分をゆるさない限り、ずーっと外側の世界(俗世間)に投影し、悪役が現れ続けるのだ。先生、ありがとう。アラン・ピーズ夫妻ありがとう、チェータナーよ、ありがとう。ようやく、自分をゆるすということの意味がわかった。
 言葉に惑わされて分からなかったけど、ここの精神的な文脈でのゆるすは、「悪い自分が存在していてもいいよ、それを責めないよ」だったのだ。悪い自分を責めている限り、その投影は必ず外の世界(俗世間)に現れる。そして、私が有資格者でないという負い目は、恰好の餌食になる。
 ランクAの願いごと『自分をゆるす』の期限11/30に間に合ったのかと言えば、間に合っていない。11/30以降に会った人達に対して慈悲喜捨の状態でいられたのかといえばそんなわけない。相変わらずイラっとしたり、全然聖者みたいに崇高な生活を送ってはいない。でも、これを書いているいまの気分は幸せなのだ。なぜなら、私は、そういうダメな自分がいてもよくて、そんな自分を切り捨てなくていいと思えるようになったからである。
 この短期間のうちに奇跡のように現れてくれた沢山の情報のうち、特に学びがあった三冊の本を紹介する。自分を責める癖のある方、怒りの発散方法が自虐に向かう方、生きることに悩んでいる方にお勧めである。働く女性目線で書かれている体験本はとても参考になる。
 * 『女性のための「逆ギレ」のすすめ』(斎藤一人、舛岡はなゑ著、マキノ出版 2016年)
 * 『喜びから人生を生きる!-臨死体験が教えてくれたこと-』(アニータ・ムアジャーニ著、ナチュラルスピリット 2013年)
 * 『もしここが天国だったら?-あなたを制限する信念から自由になり、本当の自分を生きる-』 - アニータ・ムアジャーニ著、ナチュラルスピリット 2016年)

 テーラワーダ仏教とヴィパッサナー瞑想だけでラクになれたら瞑想者冥利につきるのかもしれない。けれども、出家しているわけでもなく、普通に俗世間で生活している私に出来ることは、サティを保ち、毎瞬浮かんでくる悪い感情、思考を『私のせい』にして『悪い私』を独立させないことだ。いい自分と悪い自分の両方があってOKで、いつでも私にはその両方を選ぶ自由がある。そしてもし、悪いほうを選ぶことがあったなら、その時こそ、ゆるしの練習にもってこいである。『私は、私をゆるします』と、事実なのだから、ありのままに認める。認めるが、開き直って居直ることはしない。

 最後に。映画好きの方は気づいておられると思いますが、この連載の章タイトルはseason1の最初から全て、実際にある映画名と同じです。意図的に各章の内容と映画の内容を紐づけてあります。
 私の人生は意図から紡がれたストーリーの連続であり、いつでも私にはストーリーを変更する自由があります。人間であれば、その点は他の方も共通しているかと存じます。ブッタの法の六徳の一つにある、Ehipassiko(「来たれ、見よ」と、何人も試して、自分で確かめてみよ、といえる確かな教え)がありますが、瞑想は「自分で実践して確かめる」ことができる素晴らしいツールです。自分が苦しくなる考え方の癖を客観的に観て手放せる手法であると確認できましたので、こちらに記載させていただきました。ご縁があってお読みいただいた方の瞑想が順調に進み、幸せになり、悩み苦しみから解放され、願い事が叶い、知慧が現れますよう心からご祈念申し上げます。皆様がそれぞれの場所で最高に幸せでありますように。 (完)

今日のひと言

2023年7月号

(1)劣等感が強い人ほど、人の恩を忘れていくものだ。
 お世話になり、導いていただき、やっとここまで来られたのに、何もかも自分ひとりの力で成し遂げてきたかのように認知が変わってしまう。
 屈辱の過去に復讐するかのように、傲慢な上から目線になっているのに気づかない……。

(2)言われたとおり丁寧に、セオリー通り修行するビギナーの初々しい姿に、タジタジとなる古参。
 解ったつもりになったダンマは、何回耳にしても、ああ、あの話か……と同じ理解が右から左に素通りだ。
 ボロボロになった座右の書から、果てしなく新たな意味を汲み取る智慧の人もいるのだが……。

(3)ハカライというものは、必ず破れていくものであり、いつか行き詰まっていくものだ。
 仮に最後まで、人に知られることがなくても、作られていった業が噴き出て来る日がやって来る……。

(4)ああ、自分はひどいことをしている……と自覚しながら悪いことをする人は少ない。
 これは良いことだ、当然のことだ、と思いながら、好きなこと、やりたいこと、信じていることをやっているのだ。
 ……こうして誰も、毎日、嫌な人に出会い、不快な出来事に苦しむ人生になっていく……。

(5)地獄の極悪人にすら、蜘蛛の糸が垂らされてきた。
 本当は誰にでも、チャンスは訪れているのだ。
 ぼんやり見送ってしまう人。
 自ら断ち切ってしまう人。
 紙一重で救い出される人……。
 カルマが現象化するのを助ける支持業があり、邪魔をする妨害業がある……。

サンガの言葉

『段階的に進めるブッダの修行法』(8)

8.決定
 私たちが育てる必要のある次の資質は、決定(決意)です。決意なしには、私たちは何も成し遂げることができません。朝、起きることにすら、決意がいるではありませんか。
 他のものよりも多くの決意が必要なものもあります、たとえば、瞑想です。初めのうち、瞑想することはほとんどの人々にとって、何ら興味を引くものでもなく、快適なものでもありません。あまりワクワクするようなものでもないし、すぐためになるようにも思えません。
 私たちは、即座に結果を求める社会に生きています。ボタンを押すだけで、買い物リストの合計が出ます。別のボタンを押せば、フアンが回って、空気を冷やします。また、別のボタンを押せば、電灯が消えたり点いたりします。あらゆることの結果がすぐに出ます。私達の社会は以前にも増して、早急な結果の出ることを期待しています。それで、効果が現れるのに時間のかかる漢方療法よりも、鎮痛薬のほうがはるかに好まれるのです。
 瞑想は、ゆっくりですが確実に効果の出る治療法です。瞑想を実践するには、決意、言い換えれば、気骨ある性質が必要です。揺れ動く、ゼリーみたいな心では、たいした決意はできません。強敵で断固とした心にこそ、十分な決意を備えることができます。私達は坐るたびに、そこに留まる決意をしなければなりません。うろついたりせずに、心をその場所に留め、自分がしていることに注意を払い続けなければなりません。
 決意は日常生活でも必要です。物事が起こるのを待つという姿勢でいては、起こる見込みはまずありません。起こるように、何らかの行動を起こさなければなりません。瞑想コースに来るにも決意がいります。家にいるほうが快適でしょうからね。
 私たちは、いままでお話してきたような波羅蜜の資質を、自分の中にすべて持っています。「戒を守る」という道徳的な資質も確かに持っています。もし、ほとんどの人が持戒の資質を持っていなければ、世界はいま以上に大きな混乱に陥っているでしょう。私たちは「決意」という波羅蜜も確かに持っていますが、これらの波羅蜜が私たちにとって最良の友なのだという智慧が、心に深く根づいていません。
 私たちは、もろもろの波羅蜜に親しみ、それらが常に自分と共にありつつ、はぐくまれるよう努力しなければなりません。それらは、幸福で平和な人生に必要な要素であり、精神の向上に欠かすことができません。
 実際のところ、人生が私たちにもたらすことのできるものは、精神の向上だけなのです。それ以外には、つかの間の快楽しかありません。つかの間の快楽は、私達を自己満足に陥らせるので危険です。このことをはっきりと理解するなら、精神の向上を第一にしようという決意が生じるはずです。
 そのために僧院や洞穴に住む必要はありません。どこにいようと、私たちは向上することができるし、また堕落することもあり得ます。すべての出来事は、自分自身の教材として利用できます。例えば、病いや死、悪意、所有物の喪失、身体の不調や痛み、愛と名声などです。他者への執着や、他者についての心配も、教材です。何ごともありがちなこととして軽視せず、すべての出来事を成長への糧として役立てましょう。
 精神的成長と最終的な解脱以外に、人生が私たちにもたらす、価値あるものは何もないと気づくとき、決意が生じます。私たちは、ライフ・スタイルを変える必要はありませんが、自分自身の周囲や内部で起こっていることに対するアプローチ、反応、理解を変える必要があります。そのような決意をすると、正しい道を歩む喜びが生じ、幸福がもたらされます。そうした決意は、自己再生していきます。
 普通の決意は生じては滅してしまい、復活させるには奮闘努力が必要です。しかし、「精神的な道」への決意である場合には、幾度も呼び起こす必要はありません。精神的道への決意は、喜びをつくり出すのでそこに留まるのです。

9.10.「慈悲」と「捨」
 最後の二つの波羅蜜については、これまでに何度か触れてきました。すなわち「慈悲」と「捨」です。「捨」はすべての感情の中でも、最高の栄誉を与えられているものです。
 「捨」という波羅蜜は、エゴの創り出す幻想を無くすことを必要とします。エゴがすべての騒ぎや混乱を作っているという事実に、私たちがうすうすでも気づかないならば、本当に「捨」をはぐくむことはできません。不安や落ち着きのなさを抑圧しても、心の平安を感じることはできないのです。「捨」の根底には、洞察と智慧がなければなりません。
 これら十の波羅密は、一つの生から次の生へと何生にもわたって、培われていきます。やがてそれらが,「聖なる道」に至る解脱をもたらすほど強くなった時、私たちは、ダンマという法輪の中心にある四聖諦を、自らの内なる洞察となし得るのです。(完)
 (アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)