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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『ニュー・ニューシネマパラダイス(脳内映画館からの脱出)』 ― シーズン 2 ― (2) by セス・プレート

(承前)
 あの父の態度はわざとじゃなくて、本人にはどうしようもないことだったのかもしれないと思うと、語弊はあるが、うれしくなった。そして、私は『ありのままの父を受け入れていなかった』ことが問題らしいと気がついた。
 よい方向へ変わる気がして、喜び勇んで家へ帰った。希望が見えたのだから、瞑想してゆっくり寝ようと思っていたのに、この期に及んで信じられないが、Amazon Prime Videoを立ち上げて、映画を観始めたのである。トムクルーズ主演の『ザ・エージェント』である。昔観たことがあったのに、どうしてもそれが観たいと思った。そして、どうしてこの映画を急に観たのか、またしても記憶の力を思い知らされる。主役のトム・クルーズは仕事も結婚もうまく行っていない。頑張っているし、家族を愛しているのに伝わらない。
 情けないトム・クルーズのルックス以外が父と重なって、号泣した。意図と行動がマッチしないために起こるトラブル。泣きすぎて上歯が痛くなった。これだけ泣いたのだから、いい加減泣き疲れて眠るだろうと思ったら、今度は深夜から朝の5時半まで小説を読んだ。どう向き合っていいのが分からず、逃避しているらしい。そのあとようやく寝落ちし、起きたら昼の14時半だった。こんなに熟睡したのは久しぶりだった。
 翌日、会社へ行く。いつも以上にイライラに気づく。父についてのわだかまりに気づいたから平穏な日々が始まるかと思いきや、ドラマみたいな激変はない。相変わらず、朝は会社に行きたくないし、瞑想はやりたくない。だけど、父親を本当にそのまま受け入れられるようになったら、何かが変わるかもしれないという望みが漠然と生まれた。
 そして、The Agent(触媒作用)が働き、確実に浄化を起こし始めており、それを裏付けることが起きた。全く仲の良くない同僚Aさんが、脈絡もなく、Aさんの父親がいかに嫌な奴で、そのせいで進学のことでもめ、いろいろ苦労した、と告白してきた。ここまでなら、最近やっている慈悲の瞑想効果でAさんが心を開いたのかな、くらいの展開であるが、私はこのAさんのことがとても苦手で、極力かかわりたくないため、仕事以外の会話を避けてきたのである。心理学の教科書のような展開だった。ああ、このAさんは私が持ってる怒りと似たようなものを持っているから、投影されていた部分があって苦手なのだなと思った。

・感情の逆襲 3 ー Boys Town(少年の町)
 浄化の触媒体験があってから2週間後。相変わらず肩が痛く、週末に整形外科に注射を打ちに行くことは続いていた。仕事はデスクワーク、昼休みと退社後は勉強。全く動かない運動不足の生活の上に、おまけに動画を観まくるので、身体が悲鳴を上げ続けていた。
 午前中に注射をし、その夜の朝カル講座に参加した。地橋先生に「瞑想中に肩に痛みが出るが、痛みを観察していると悲しくなってきて、それ以上は観ることができないので、悲しみに飲みこまれる。だからその時は肩を動かして、その動きにサティを入れているのですが、そのやり方ではだめでしょうか」と相談をした。

先生
 「例えば、鍼治療だから鍼の痛みは我慢できるけど、いきなり別のシチュエーションで針を刺されたら痛いでしょう?だから、注射だって本当は痛いものなんです。だから、毎週注射をするってよっぽどですよ。そこまでして、肩で必死に抑えているものは何ですか?」

 実はこの先生への質問が始まるとすぐに、あのイットが光速以上のスピードでやって来ていた。喉に圧を感じて、感情の卵が今にも飛び出しそうになる。喉を押さえつけるから、肩が力みに力んでいる。ああ、だからだったのか。悲しみを必死に抑えていたから、肩が痛いのか。ずっと坐っている生活習慣だけの問題ではなかったようだ。

 瞑想中の悲しみに伴って出てくるのは、いつも同じ記憶だった。父が、お前なんかうちの子じゃないと私に言ったシーン。ここだけをみたら、父親が冗談でいった会話だが、前述したように普段から父とのコミュニケーションは難しい。言葉と態度が噛み合わないのだ。当時私はまだ5才くらいだと思う。悲しくて、私はすぐに家を出ていったが、幼い私に行く当てもない。
 「ばか!絶対に家に帰らない!」と怒りながら、10分くらい先の親戚の叔父さんの家に行った。叔母さんは「どうして突然来たの?」と不思議そうだったが、私は何も言わなかった。お菓子をご馳走になって、帰らないわけにもいかないので家に戻った。父は、急にいなくなった私に「何処に行ってたんだ?」と尋ねたけれど、「おじちゃんち」と答える私に対してもちろん謝罪はない。この日から私にとって、一人で生き抜く(=家に帰らない、そのためには稼ぐ)ということと、父に甘えたい欲との板挟みを経験しながら、イットとともに成長することになる。

 父は、ここには詳しく書かないが、父の父(私の祖父)に問題があり、大変な家庭環境で子供時代を過ごした。私は父がその酷い時代を過ごしたことを家族の他のメンバーから聞いて知っていたので、父を可哀想だと思う気持ちと、父が普通の大人のように行動しないことに対する我慢を同時に持っていた。父のジキルとハイドのような態度は、家族なのに理解がむずかしい。
 こうやって、子供のころの出来事を思い出しているうちに、新たに気づけたことがある。どうして私が映画や動画依存を止められなかったのか。それは、小学校の頃、父と並んでTVで『少年の町』という古いアメリカ映画を観たことにあった。とても感動して、隣で観ていた父にいい話だといい、父も同意した。父と意見が合うということは大変稀で、この父と感動を共有したという記憶は、私にとっては一回きりの経験で、とてつもなく貴重なことだった。おそらくではあるが、この大切な感覚が欲しくて、映画に依存していたのである。
 また、この映画の内容をすっかり忘れていたので調べたところ、アメリカのある神父が、非行に走る少年少女や身寄りのない子供たちを預かって自立を促す児童自立支援施設<Girls and Boys Town>を作る話であった。父も私も、素敵な家族が欲しいという共通点があったのかもしれない。私も父もずっと『理想の父親』が欲しかったのかもしれない、と思った。
 勉強を一時ストップした。翌週の土曜には、もう注射を打ちに行かなかった。完治はしていないが、あんなに痛かったのがウソのように消えた。少し、自分に優しくして休憩することにした。(つづく)

今日のひと言

2023年6月号

(1)苦しい人生が劇的に変化する感動に支えられてもきたが、全てがバラ色の幸福の絵に塗り替わって永遠に続く……などということがあろう筈はない。
 業があれば、苦の現実は苦のままである。
 それゆえに、どんなドゥッカ(苦)も受け入れれば終わっていく…というダンマの確認が繰り返されていった。
 苦楽も失敗も成功も、一切の事象を等価に観て、淡々と無差別平等にサティを入れていく瞑想を続けていくうちに、こんなことを述懐するようになっていた。
 「何もうまくやる必要もなく、苦を避ける必要すらなく、ただ今という目の前にある物事に気づいて、力を出すことを惜しまずに、淡々となすべきことを成していくだけなのだと、美しい春の朝の道を歩きながら実感していました……」

(2)人は、今の瞬間の事実に苦しんでいるのではない。
 消え去ってしまった現実は、もはや「過去」という名の妄想に過ぎない。
 苦しみは、その「過去」にしがみつき、囚われ、執着する精神から発生してくる……。
 それゆえに、聖者たちは、今のことだけで暮らしている……。

(3)瞑想を始めればすぐに華々しい成果が得られると勘違いするのは、多くの初心者の通弊と言えるだろう。
 初めて瞑想会に来て、「上手くいきませんでした。どうしてですか?」と真顔で訊かれる方も珍しくない。
 一度も触ったことのないピアノやヴァイオリンを初めて習った日に、「どうして上手くできないんですか?」と訊く人がいるだろうか?
 何事も修練を繰り返すことによって、新しい脳回路が形成されていく。
 定着させるのも容易ではないが、維持するのも、さらに進化させるのも大変なことである。
 どんな技能もスポーツも演奏も瞑想も、同じなのだと心得る。

(4)だが、ヴィパッサナー瞑想に正しく着手しても、生来の資質や傾向が手のひらを返したように変わることはない。
 急激な変化には反動があり、一時的な決意や戒めや外圧によって抑え込まれていたものは、やがて形状記憶合金のように元通りになっていく。
 ヴィパッサナー瞑想に出会い、くらくらする程のカルチャーショックを受け、物の考え方も行動も生活も別人のように一変したのだが、1年経ち2年経ちするうちに次第に失速し、浮かない顔で惰性に従っていたある日、忽然と姿を消していくような人もいる。
 ゆるやかに、少しづつ変化していくのが人の心である……。

サンガの言葉

『段階的に進めるブッダの修行法』(7)

7.真諦
 さて、次は真諦(真理)です。これには多様な面があります。まず、言うまでもないことですが、真実を語る、ということが挙げられます。これは五戒の四番目、「嘘をつかない」という戒に当たります。しかし真諦はそれだけにとどまりません。私たちは、本当に心から正直になって、自らを発見する必要があります。これは大変困難なことです。自分以外の誰かのではなく、自らの不善を見抜くには、相当の智慧が必要です。他人のことなら、さほど難しくありません。かなり容易にわかります。けれども、自らの不善を見抜くのは難しいことであり、見抜くためには、真実への洞察と心底からの正直さが必要になります。
 それは、心の中を掘り進むように、自らに問いかけてゆくのです。最初の問いへの答えが得られたら、その答えをまた検討しなければなりません。「なぜ私はこんなことをしているのか」、「なぜこんな風に感じるのか」、「なぜこういう反応をするのか」というように。これらの問いを十分に深く掘り下げるならば、結局の所、答えはいつも「エゴ」であるはずです。「そう、それは私のエゴであり、自分ではどうすることもできないんだ」とか「それが私のカルマなんだ」と、軽々しい反応をしても役に立ちません。どちらの反応も非生産的です。なぜなら、私たちが自らの内側を何度も何度も掘り下げて、エゴの主張から来る結果を直視すれば、エゴの影響力を弱める、なんらかの方法を探し出したいと願うものだからです。
 他人が私たちを見るような目で、私たちが自らを見るのは大変難しいことです。私たちの前に鏡を置かなければなりません。姿形を映すのでなく、心や感情の成り立ちを映すのです。この鏡は、「気づき」と呼ばれます。時には、他人がどんな風に反応するかが鏡になってくれます。でも、それは全面的に真実とは言いがたいものです。その反応の中には彼らのエゴも入っていますから。ですから、主な仕事は、自らを問い直すということで進めて行かなくてはなりません。
 真理には他の面もあります。真理を知るということは、四聖諦を知ることであり、これが真実のダンマ(法)です。四聖諦がわかっているというのは、内なる洞察に依ってそれらを理解したということです。四聖諦とは、
 (1)「苦」についての聖なる真理、
 (2)「苦の原因」(すなわち褐変)についての聖なる真理、
 (3)「苦の原因の消滅」(すなわち解脱)についての聖なる真理、
 (4)「消滅に至る道」(すなわち八正道)についての聖なる真理、
の四つです。煎じつめれば、「真諦」(真理)という言葉の意味は、これだけのことに集約されます。

 すべての真理は結局の所、自由と解放へ導くものでなくてはなりません。人々は、あまたあるイデオロギーを通じ、いろいろな異なる方法によって真理を捜し求めています。それらのイデオロギーの中には、ある種の人々を抑圧する一方、別のある種の人々をもっぱら優遇しようとする、恐るべきものもあります。報復や支配につながるイデオロギーもあります。人間の心というものが、このようなイデオロギー、思考形式を創り出しているのです。悟っていなければ、人間は、エゴによる妄想の上に、自分たちのイデオロギーを創りあげます。したがって、どんなイデオロギーであれ、完全な満足をもたらすことはあり得ません。
 真理を追い求めることは善です。青年はぜひとも真理を問い続けるべきであり、年長者も追求を決して止めるべきではありません。しかし、不幸にも真理の追求は止まってしまいます。人々は、生き延びるための数多くの日常の責務で手一杯になり、すべての物事の下に隠されている真理を追求することなど、自分の能力を超えているように思うのです。そうなると、真理を求めるのに必要なエネルギーも興味ももはやありません。青年には、真理を見極めていこうとする分別がなく、年長者には、たとえ分別と経験があっても、真理を追求するだけのエネルギーがもはやない、というのは不幸なことです。まさにバーナード・ショーが言ったように、「若さが若者によって浪費されている」ことになります。
 真理を求めることは、一瞬たりとも止めるべきではありません。
 真理を求め続けるならば、最終的には、真理は人間が創り出せるものなどではないという認識に行き着くにちがいありません。真理は普遍的なものでなければなりません。それは、特定の人々、カテゴリー、性、国家、宗教にだけにあてはまるのでなく、万人にあてはまらなくてはなりません。真理は、人間の苦を取り除く道を示さなければなりません。しかも、一時的にではなく、特定のグループのためだけでもなく、完全に、元に戻らないように、苦を取り除くものでなければなりません。
 真理は絶対的なものであり、相対的なものであってはなりません。絶対的真理は、人々が抱えるさまざまな問題や私たちの日常的な問いかけを、はるかに超えたところにあります。それは、精神的な探求の世界に属しており、絶対的な真理を発見し得るのは、「精神的な道」の上においてです。私たちの住んでいる相対的な世界は、二元的な世界です。相対的な世界は、明日と昨日、善と悪、あなたと私、彼らと私達、「それが欲しい」と「それは欲しくない」といった、二元的なとらえ方で埋め尽くされています。そこには、「私の」人格と「私の」個性があり、「私が」主張し、「私が」成長したがっています。
 しかし、そのようなことは相対的なものであり、絶対的真理ではあり得ません。なぜなら、そうした状態では、すべての人を満足させることはできないからです。相対的なものは常に誰かの犠牲の上にあるものです。絶対的真理はこれらすべてを回避しなければなりません。絶対的真理を追求すれば、自己の人格や個性というものなどないという理解が徐々に生まれ、さらには、「私は」「私の」「私のもの」という考え方が誤りであり、「あなたは」「あなたの」「あなたのもの」というとらえ方が不幸な誤解であった、という認識が生じてくるでしょう。心配したり恐れたりすべき相手など、どこにもいないのです。すべては移り変わっており、堅固に見えるものは見せかけに過ぎません。絶対的真理は、特定の信仰を持ったグループや人々だけに当てはまるものではありません。
 絶対的真理は普遍的なものであり、八正道を実践することによって体験できます。波羅密の熟成によって内的な精神力が生じます。そして「絶対的な真実」へ向かって、「相対的な真実」を乗り越えていくには、多くの精神的な力が必要なのです。(つづく)
 (アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)