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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『ニュー・ニューシネマパラダイス(脳内映画館からの脱出)』 ― シーズン 2 ― (1) by セス・プレート

内容

・序
・感情の逆襲 1 ― イットIT(“それ”が観えたら、終わり)
・感情の逆襲 2 ?  The Agent (浄化の触媒)
・感情の逆襲 3 ?   Boys Town(少年の町)
・どう生きるか    Reality Bites(俗世間はツライ?) 

・序
 初の1day合宿でコツがつかめた。瞑想を続けて人の幸せを祈れる人間になろうと鼓舞し、軽い足どりで映画館の出口扉を抜けると、そこはまた映画館だった。シネコンだったのだ。電光石火で新しいストーリーが始まったが、いままでと唯一違う点は、今や私は、好きな時に席を立って違うストーリーを選ぶ自由がある、ということだった。

・感情の逆襲 1 - イット IT(<それ>が観えたら、終わり)
 毎朝出社前に瞑想できるようになっていたのに、いつの間にか、椅子で3分瞑想。これが出来ればいいほうで、朝の瞑想をしないまま出社することが増えた。それでも、朝の瞑想が出来ない負い目があって、通勤中の瞑想は欠かさない。
 家を出たら、歩きながら足を感じて右、左、右、左とサティを入れる。電車に乗ってからは、『この車両でご一緒した皆様が、それぞれの場所で最高に幸せでありますように……』と祈る。小さな劣善であっても善行為をする。
 退勤後は、怖い奥さんに会いたくないサラリーマンのように外食して帰宅までの時間を稼いだり、Amazon Prime Videoの中のいろいろな映画に没入し、これでもかというくらいに瞑想を避けようとする。数日間であっても毎朝毎晩瞑想が出来ていたのだから、習慣化という意味では元に戻ってしまっていた。
 この、動画を見ること等に逃げて瞑想を避けてしまうことを地橋先生に相談すると、「瞑想が進んでくると、世俗の刺激がくだらないと分かって来るし、自然と欲しなくなる」とのこと。そんな日が来るとは今はまだとても思えないが、やっぱり瞑想を続ける他ないようだ。
 瞑想合宿後に私なりに腑に落ちたことをまとめると;

 1.合宿後は、リバウンドのように感情の起伏が激しくなるが、それは、今まで気が付いていなかったことが観えるようになっているだけ。だから、気にせず淡々と瞑想を続ける。
 2.瞑想が出来ないことに焦点を当てて落ち込むのではなく、ただ、その落ち込んだ状態を認めて客観視する。
 3.サボり、怠けを敵とみなすのではなく、ただそういう状態として認めて客観視する。
 4.些細なことでも善行為を続けること。例えば、短い「幸あれ!」でもいいから他者の幸せを祈ることによって、その間は不善心を止めることができる。

 とぎれとぎれでもサティを入れた生活をしているうちに確信が持てたことがあった。私の中に【何か】がいる。それは、幸せになりたい気持ちに真っ向から反対し、不幸であり続けさせようとしている。ヴィパッサナー瞑想を始めてからというもの、この【何か】は、普段から私と一緒に行動していて、むしろ、その【何か】に乗っ取られている時間のほうが長いのではないかと気づいた。決してオカルト的なことではない。それは感情の塊のようなもので、それが私を突き動かし、行動させている。スティーブンキングよろしく、以下からはその【なにか】をイット(IT)と呼ぶことにする。
 イットの登場場所は様々であるが、一番出てくるのは、一人で居てサティを忘れている時である。仕事やご近所づきあい等、大人の役割を演じている時は出て来にくいようだ。そのため、会社にいる私と一人の時間の私はまるで別人である。
 イット登場について気づけているレベルでは、下記のようなプロセスがある。

 1.記憶のイメージが浮上する。たいてい自分が失敗した場面で、自分の評判についてマイナスなことが起きた(と思い込んでいる)場面。
 2.呼吸が浅くなり、肩と首が近くなる。または、下記 3。
 3.喉から、何か圧のあるものが出てきそうになる。エイリアンの卵が喉から出てきそうな感じ。これが感情の塊だと感じる。
 4. その圧を、気分を平静にするために喉で押し戻そうとする。大人の私が内的言語でなだめることもある。この時のイットのセリフはパターン化されており、たいていこの3つ。「死にそう」「イヤ!」「吐きそう」
 5.無理やり喉の奥底に押し戻して、今までやっていた作業に戻る。

 この1から5の流れはとても速いので、落ち着くまで4から5を何度も繰り返す。だから、喉に押し込めたものは、一時的には消えるが、無くなっていない。ヴィパッサナー瞑想者の端くれとしては、イットが出てきたらサティを入れてサッと消したいところだが、圧と気持ち悪さが凄まじくて、とてもサティが入らない。これに関しては淡々と今後も瞑想の積み重ねが必要だろう。
・感情の逆襲 2 ー The Agent (浄化の触媒)
 7月初めの朝カルで、ぽろっと私の父について話した。どうして父の話をしたのか全く理由が分からない。なぜなら、私の瞑想の目的は、仕事が辛く、何年も資格試験に受からない中年の危機を脱するためだったからだ。同年、後になってこれを書きながら振り返ってみると、瞑想のおかげで本当の悩みの原因の蓋が開き始めていたのかもしれない、と思う。
 私の父は珍しい性格をしているため、他者と適切なコミュニケーションが取れないことが多い。信じられないコメントを悪気無く言う。お酒を飲むと輪をかけて口が悪くなる。矛盾しているが、基本的には優しく私を可愛がって育ててくれた。でも、一般的な大人のようにはその優しさを表現することが出来ずに、言葉のDVになることがよくあった。私が××が嫌だと言えば、そうか悪かったな、と謝罪はするが、性格は珍しいままで変わらない。
 「(そんな父に対して、私が瞑想したって私は)ブッダみたいには変われません!」と、ぽろっと先生に言った。
 そうすると先生は、なかなか変わらない人の例を出してくださった。
 先生がある方に瞑想指導されていた時に、なかなか変わらないことに対して調べていくと、ひょっとしたらその方に大人の発達障害の可能性があると分かった。生まれ持った特徴であり、変えることができないと分かったときに視座が転換して、受け入れることができた、と。ここで大切なのは、本当に相手が発達障害かどうかは問題でなく、『自分の、相手に対する視座を変えることが鍵』で、父をそのまま、ありのままに受け入れることが大事なのだ。もし、本人に「あなた発達障害
じゃないですか」等といえば立派な差別になると思うので、注意が必要である。(つづく)

今日のひと言

2023年5月号

(1)苦しむだけの人生にも意味がある。
 苦受を感じる一瞬一瞬、消えていく不善業のエネルギーがあるからだ。

(2)イヤだ、嫌だ、と言いながら、本当は、そのドゥッカ(苦)が好きなのではないか……。

(3)後になれば夢のようだと得心がいくのに、その渦中にいる時は、本気モードで反応しながらしっかり業を作ってしまう。
 ……どうすれば良いのか。
 反応系の価値観や人生観が根底から変わるまでは、サティの技術に支えられていく……。

(4)苦受の多い日々であっても、楽受が多くても、この世のことはただそれだけのことであって、過ぎ去ってしまえば夢のようだ……。

(5)業の理論上、来るべきものは来るし、原因が組み込まれていないものは、発生しようがない。
 エゴの判断基軸を捨て、理法に一切を託し、悠々と流れに従っていけばよい。

(6)この世の一切を捨てていくのが原始仏教の究極の方向だが、ものごとを手放してい くのには順番がある。
 心が完全に納得了解した上で一つひとつトドメを刺していけば後戻りがない。
 それゆえに自分の現状にありのままに気づいて、在るものは在る、無いものは無 い、今は無いが再び現れるものは現れる……と正しく知らなければならない。

(7)世界最大の魚ジンベエザメとゴキブリの赤ちゃんでは、体の大きさも食べるものも 棲む場所も寿命も違っているので、優劣を競ったり、 見下したり、嫉妬し合うのは 滑稽だろう。
 そのように、人は誰も、長い輪廻の中で積み重ねてきたカルマと諸々の因縁因果が 異なるのだ。
 エゴ妄想で強引にまとめれば、苦が発生する……。

サンガの言葉

『段階的に進めるブッダの修行法』(6)

6.忍辱
 次は忍辱、すなわち忍耐です。日常生活で忍耐心のない人は、よく落ち着きがなくなったり、不安になったりします。計画したことの結果を早く出そうとして、かえって効果的でないことをしようとします。
 忍耐心がないとエゴがあらわになります。なぜなら、私たちは自分が計画したように物事が起こることを望むからです。また、物事が起こって欲しいときに起こることも望みます。自分自身の考えしか考慮しないのです。他の要因や他人が関与するということを忘れてしまっています。私たちはまた、自分がこの惑星の、40億人のうちの一人でしかなく、この惑星は銀河の中の、ほんの一点でしかなく、その銀河というものは無数に存在する、ということも忘れてしまっています。私たちはこうしたことを都合良く忘れ去っています。物事が「今」、自分の望み通りに動くことを望みます。前もって考えていた通りに物事が起こらないと、忍耐心のない人はたいてい怒り出します。これが忍耐心のなさと怒りの悪循環です。
 忍耐強さがあると洞察力がついてきます。計画というものは、立てることはできるが、何ものかによって妨げられる場合もあることを、忍耐力のある人は実感するようになります。計画どおり行かないことが、かえって良い結果になる場合もありますし、うまく行かないのは、カルマの結果かも知れないのです。忍耐力のある人は、もろもろの妨げを受け入れる心構えができています。人生で起こったことを受け入れられないと、二重の苦を受けます。誰でも一つの苦は経験します。しかし、その苦を受け入れないと、苦は少なくとも二重になります。なぜなら、抵抗が苦を生むからです。力を込めて何かを押すと、手が痛くなってきます。手をドアや壁にそっと当てるなら、痛みは起きません。抵抗することや求めることが、私たちのすべての苦の源なのです。
 忍耐強い人とは、できごとの全体を見ることができ、物事は変化し、動き、流転して行くということを理解できる人です。今日、たいへんな困難に思えることも、明日か、来月か、来年にはまったくすべて良し、と思えるようになるかも知れません。一年前に早急に必要とされたものが、今日ではまったくどうでもよくなっていたりします。こんな具合ですから、忍耐力のある人は、何が起きていても一方的な判断を性急に下さず、その出来事にただ注意を向けます。物事が、こうなって欲しいと望んでいたとおりにならなかったとしても、そのすべてを流転の一部でしかないと見なすのです。
 波羅蜜が大いに培われるのは、何らかの洞察が生じたときだけです。そして、洞察は、正しい方向に進むのに必要な智慧と精進を培うための源泉であり、自己本位の性向に対抗するのに必要な忍辱と離欲の源泉です。なぜなら、すべては変化し(無常)、不満足なものであり(苦)、実体を持たないもの(無我)だからです。
 仏教用語の「洞察」とは、この無常、苦、無我のどれか一つを透徹して見ることを常に意味します。無常・苦・無我は活動をやめません。活動をやめてしまうのは、それらに村する私たちの注意力のほうです。私たちは他の方向ばかり見ています。私たちはこの三つが好きではないので、抵抗し、拒絶します。その存在を否定し、さらにこの三つのものから逃れる方法について、ありとあらゆるアイデアを考え出します。無常、苦、無我から逃れるには、それらを受け入れ、理解し、それらに応じて行動するしかありません。この方法なら、完全に逃れられます。その他の方法は一時的な避難路でしかなく、結局は行き止まりになって振り出しに戻ってしまいます。
 私たちは自分に対して忍耐強くある必要があります。自分に対する忍耐心がないと、他人に対して忍耐強くなることができません。自分に対して忍耐強くないと、自分を適正に評価することができません。私たちは、自分の能力や価値に対して誇張した考えを持っており、現実が自分の考えに従わないことを嫌います。例えば、自分はもう解脱しているはずだとか、自分は動かずに2時間坐り続けることができるはずだとか、眠らなくてもやっていけるはずだなどです。あらゆる「はずだ」です。こうした考えは、次に他人に振り向けられ、他人の欠点にいら立つようになります。
 忍耐強さが無頓着に堕してはいけません。非常に忍耐強い人には、心が乱れないという素晴らしい性質があります。しかし、十分な洞察と智慧がないと、いわゆる忍耐強さは簡単に無頓着に堕してしまい、自分が何をしてもかまわないと考えてしまいますが、もちろん、これは正しくありません。健全であることと物事に熟達していることは重要なことです。忍辱を本当の波羅蜜にするには智慧を使わなければなりません。今起こっていることを受け入れ、それを生々流転するものだと見なす一方で、自分を成長させる方向へ向かう決意と精進を持たねばなりません。
 無頓着な人は自分の服を見て、「あれ、服が汚い。これはどうしようもない。どんな服でも汚くなるんだ」と言うかも知れません。これは行き過ぎです。また、ある人は自分の部屋を見て、「部屋が散らかっている。どんな部屋でも散らかるんだ」と言うかも知れません。また、ある人は自分の家を見て、「ペンキが剥げている。でも、どんなペンキも剥げるんだ」と言うかも知れません。これでは、内面と外面の向上成長に自分を向かわせるのに必要な決意と精進を持たずに、すべてを起きるがままにさせていることになります。ある人は自分の心の汚れを見ながら、「でも、これはしかたがない。誰にでも食欲と嫌悪はあるんだ」と言い、その汚れをそのままにしておくかも知れません。これではまだ望ましい姿勢とは言えません。
 他方で、食欲と嫌悪を自分の中に実際に見たなら、焦っても無駄です。時間がかかるのです。私たちは太古の昔から、この世で、繰り返し繰り返し、食欲と嫌悪を行動に移し続けてきました。食欲と嫌悪を取り除くには時間がかかります。必要なのは忍辱です。無頓着ではありません。(つづく)
 (アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)