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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『脳内映画館からの脱出(New New Chinema Paradise)』(6) by セス・プレート

(承前)
 次は食事の観察。先生からの宿題は、同じ食物を目を開けた状態と閉じた状態の両方で食べ比べてみてください、というものだった。目を閉じた瞬間に、噛むスピードが速くなった。普段こんなに速く噛んで食べてないので驚いた。おそらく視覚が閉ざされて、噛むことに集中したからだと推測。同じものを食べているのに、味も濃く強く感じられた。
 舌の働きにも驚いた。舌というのは、味と熱さを感じるためのものだと思っていたが、食べものを右の奥歯へ、左の奥歯へ、せっせと動かしていた。それから、頬の内側と歯茎の外側の間に食べ物が落ちるのが不快らしく、それを舌が取りに行こうと働いていた。あとは、いつまで噛むのかという判断。これは顎なのか、歯の下の神経なのか、それとも頬なのか、どこなのか場所は分からなかったが、これなら飲み込めるという柔らかさになるまで指令している箇所があることは分かった。こんなに面倒くさいことをえんえんとやり続けて太っていくんだから、食べることへの執着はすごいな、と思った。

 座る瞑想をする。一人で自室でするよりも仲間のいるほうが場の力が働くのか、集中が続く。妄想は出るがとにかく丁寧にラベリングをした。多少ラベリングの言葉が違ったとしても、不完全なサティを「怒り」で打ち消すのはやめようと努めた。「滅を視よう」とした。
 不意に、大嫌いな相手のことが浮かんだ。本当に嫌なことをされたので、思い出すと怒りが出るのが分かっていたため、普段は感情がエスカレートしないように即消す相手だった。でも、今回は違った。出てきたときに、幸せであるように即座に祈れた。そして、すぐに謝った。私が受けたことは相当に嫌な出来事で、その事実は変わらないのだけど、でも、相手にそれを実行させたのは紛れもなく私の欲と高慢が原因だった。それに、あんなひどいことを実行できたということは、あの人の作った悪業も相当なものだろうし、もしかすると他の人達にも同じことをやっているかもしれないと思うと、いたたまれなかった。

 そして、これは一瞬で起きた。無理やりあの人を赦そうとして考えたことではない。瞬間に立ち上がって、完了した。証拠なんてないけど、参加者の皆さんの慈悲のパワーだと思った。誰かがちょうど私に慈悲の瞑想をしてくれていたのかもしれない、そんな気がする。

★瞑想よ、こんにちは(3)  Return of the Jedi (始まりの終わり)
 合宿の面談で先生に確認してもらうため、ラベリングを声に出しながら歩行瞑想を行った。「この歩行瞑想をしている最中の妄想の出方はどうでしたか?」と聞かれ、ああ、そういえば妄想は出ていなかった、と気づいた……。安堵、安堵、安堵!ここまで、本当に長かった……。歓喜、歓喜、歓喜!!ようやく始まりが終わったのだ。
 合宿が終った当日の夜、驚いたことに、また家で瞑想をした。いつもなら、せっかく瞑想で落ち着いた心を乱すように、YouTubeか映画に走るのだが、全く見たいと思わなかった。信じられなかった。
 翌日会社に行くと、普段は「何それ? 宗教?」と言われるのを恐れ、決して瞑想の話をしないのだが、一番言うことがないだろうと思っていた同僚に、休憩中に話の流れで言ってしまい、意外にも、その同僚が「どうやるの?」と興味を持ったので、そのままそこで歩行瞑想の説明をした。
 ちょうど会社でクラブ活動が推奨されていた時期だったので、瞑想クラブのようなものを作り、社長と人事に相談してお昼休みに会議室を借りられるように頼んでみようと思いつき、プランを立てながら様子を見ている。
 それから、昼休みに歩行瞑想をする日と椅子で瞑想する日を分けて行うようにした。午後になんとなく落ち着いていられるし、怒りのキャッチが早くなって火消も早くなった。

 これで仕事中もずっと落ち着いていられると思った、その数日後。異常に私のボスが怒り出した。もともと、とても怒りっぽい人で私以外に対してもすぐよく怒る人だった。ただこのボスは、本人が転職をした後に私を呼び寄せたくらいなので信頼してもらっているのを知っているし、八つ当たりはあっても意地悪で怒ることがないというのは重々承知していた。それにしてもよく怒るようになった。よくある「お試し」というやつなのか?本当に私が怒りに対して気づいていられるようになったか試すテストなのか?そして、ボスが落ち着いたと思ったら、今度は同僚がよく怒るようになった。なんだこれは?またテストなのか?  
 そして、外部業者のいつも問題を起こす人がいつも以上にややこしい問題を起こした。これがお試しなら、いつまで続くんだろう。そして、次。そして、次。そして、次……。嫌だなと思うことはずっと起きた。
 でも、これは元々起きていたのだ。私の反応が変わっただけなのだ。ヴィッパサナー瞑想はうまく行ってないしサティもうまく入ってないけど、でも、客観性が上がってきたのだろう。「お試しなのか?」と受け止める余裕が出てきたのだから。
 そして、問題はたいがい自分のせいだと思われたし、エゴを脇において、相手の言っていることを丁寧に、正確に理解すれば、解決できるのだった。実際に自分の認識ミスが問題を起こしていることが多い。相手が敵だ、自分が攻撃されている、という捏造をして、本当はそんなことはないのに、怒りで私の客観性が曇っていただけなのだ。

 相変わらず家で一人で瞑想をしていると、集中は途切れるし、サティが入らないことのほうが多い。やっぱり、隙あらば瞑想サボりたいなあと思っているし、映画の誘惑に負けそうになることもある。でも、完璧に理想通りになることはあきらめた。だって、サボりたい気持ちがなくなる日はきっと来ないのだと思う。晴れて輪廻の輪から出られたら最高だが、誘惑に勝ち続けて聖者みたいに生きる日も来ない。承認欲も、高慢さも、稼ぎたい欲も、きっと無くならない。
 でも、第一歩は、そういう欲望まみれの自分を否定しないで、とにかく、ありのままに客観視できるようになること。懺悔する相手が一人もいなくなること。そして、みんなの幸せを心から祈れる優しい人間になりたい……と切に思う。

 最後に、これまで私に関わってくださった先生方、しごき役のトレーナーをしてくださった方、支えてくださった方々、皆々様に心から感謝申し上げます。皆様がどうかお幸せでありますように。皆様に心の平安が現れますように……。(fin)

今日のひと言

2023年4月号

(1)他人を意識する。
 不安を感じる。
 緊張する。
 ・・・現在の瞬間にすべての注意を注ぎきることができれば、無心になれるのだが・・・。

(2)[尊師いわく、―]
 「快く感ぜられる色かたち、音声、味、香り、触れられるもの、―これらに対するわたしの欲望は去ってしまった。そなたは打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ。」(サンユッタニカーヤ1-4ー1-4)

(3)そのとき悪魔・悪しき者は尊師に近づいてから、尊師に向かって、詩を以って語りかけた。
 ―「かけ廻るこのこころは、虚空のうちにかけられたわなである。
 そのわなによって、そなたを縛ってやろう。修行者よ。そなたはわたしから脱れることはできないであろう。」(サンユッタニカーヤ1-4ー1-3)

(4)六門に乱入してくる情報に刺激され、一瞬も止まることなく振動してしまう心・・・。
 その究極のドゥッカ(苦)に追いつめられた心は、寂滅した静けさを目指す・・・。

(5)瞑想をしなければ、騒がしい心が苦であるという認識も生じないだろう。
 想いが乱れ、心が乱れ、ネガティブな思考が心を駆けめぐって煩悩が生まれ、不善業が形成された結果、苦の現象に叩かれて苦受を感じる瞬間まで・・・。

(6)業の結果を受け取る心が一日中、落下する滝のように生滅を繰り返している・・・。
 その心とワンセットになって、眼耳鼻舌身意の情報に反応しながら、業を作る心がたたき出されていくのも止まるところがない・・・。
 「業の結果を受ける瞬間」→「業を作る瞬間」→「業の結果を受ける瞬間」→「業を作る瞬間」→・・・。
 震え続け、反応し続ける心のシステムに圧倒され、翻弄され、拘束され続ける状態には、一瞬の自由もない。
 安息もない。
 静けさもない・・・。

(7)自信がなく、自己肯定感の乏しかった母親が、子供の卒業式にひとり涙した。
 自分と同じ苦を受けないように、丁寧な愛情を注ぎ、全身全霊で子育てしてきた結果、 自己肯定感のある優しい子に成長し、一区切りが着いたのだ。
 瞑想に出会いダンマを指針とし、揺るぎない決意があれば、苦は乗り超えられていく・・・。

(8)苦しい経験をしてきたがゆえに、人はダンマ(理法)に出会う・・・。

サンガの言葉

『段階的に進めるブッダの修行法』(5)

5.精進
 次は精進です。それは、自動車を動かすための燃料に例えられます。人間の場合は、その燃料を自ら作り出さなくてはなりません。それはまた、悟りに至る七覚支(注)の一つでもあり、とても重要なものです。
 精進はいろいろな方向へ向けることができます。億万長者になるにも、建物を建てるにも、他の人より有利な立場に立つためにも、大いに精進しなければなりません。すべて私たちのすることには精進が必要です。

 精進はまた、私たちに落ち着きをなくさせます。それは、この行動からあの行動へ、この考えからあの考えへ、と私たちを駆り立て続けます。何かしら満たされるものを見出すために、世界のこちら側からあちら側へと私たちを運んで行きます。精進は正しく使われなければ、非生産的になってしまう資質です。それ自体では善なるものではありません。精進は燃料にすぎませんから、それにふさわしい種類の乗り物を用意することが肝腎です。

 ブッダは五つの精神的能力(五力)について語り、それを、先頭を一頭が引き、その後に二組の二頭が続く馬車に例えました。
 先頭の馬は「気づき」であり、望むだけ早く駆けることができます。進むにあたってバランスを取るべき相手はいません。「気づき」は先導であり、先頭であり、先駆けです。それなくして馬車はスタートすることができません。
 しかし、後の二組は互いにバランスを取らなくてはなりません。二組のうち、初めのものは「精進(エネルギー)」であり、「定(集中力)」とバランスを取らなくてはなりません。
 定(集中力)は心に落ち着きをもたらします。もし、定だけで精進がなければ、眠気を催します。無感動で無気力になります。「気づき」なしの定だけにもなり得ます。なぜならば、目覚め、気付くのに十分な精進がないからです。この種の定は役に立ちません。定は精進とバランスを取る必要があります。定(集中力)なしの精進もまた役に立ちません。なぜなら、それは心を落ち着きなくさせ、いつも何かをしなければならない様にするからです。

 精進は向かうべき方向を持つ必要があります。車に燃料を入れ、出発したとしても、どこへ行くかが分からなければ何の役にも立ちません。燃料の浪費ではないでしょうか。この地球上で次から次へとエネルギー危機が起こっているのですから、どんな燃料であれ、浪費するのは許されないことではないでしょうか。私たちは、自分の乗ったこの乗り物がどこへ進んでいるのか、はっきり知っている必要があります。それは、ただ一つの方向に向かうべきです。すなわち、より高い、段階の進んだ意識を得るための、成長へ向かう方向です。

 心が成長すると、視野が広がります。私たちが十分に成長すると、鳥瞰的な視野を得ることができます。そのような、心的、精神的成長が達成され、すべてを上から見下ろせるようになるとき、下で起こっていることは、もはや私たちに影響を与えません。宇宙空間に浮かぶ、この宇宙船「地球号」で、洪水や早魅、さらには地震があろうとも、私たちの意識は影響されることがありません。意識はそれらを、「鳥の目」で見ています。そのような視野を持つと、個々の出来事ではなく、全体像が目に入ります。もし私たちが空高く上がって行き、十分な高さまで来たなら、全地球を眼下に見ることもできます。とはいえ、物理的には私たちは、ここ、地上にいますので、見ることができるのは、今いる場所だけです。

 同様のことは、内なる視野についても言えます。私たちの狭い視野では、直接に目の前にあるものしか見ることができません。体の疼きや痛み、未来に対する怖れや心配、過去への後悔、好き嫌い、私たちを取り巻く人々、などです。広がった視野を持たないので、それらしか見ることができないのです。しかし心が成長すると、一切が苦であることがわかり、もはや心配や怖れに煩わされることがありません。なぜなら、未来も過去も、一時の存在でしかないことがわかるからです。過去にも未来にも、その時々の瞬間があるだけなのです。
 何らかの結果を得ようとするなら、精進にとっては、ひたむきに向かうための、一つに絞った方向が必要です。瞑想には、驚くべき量の精神的エネルギーが必要です。ところで、精神的エネルギーは、この世界に存在する唯一のエネルギーです。物質的なものはすべて精神的エネルギーの結果に過ぎません。瞑想に上達すると、精神的エネルギーが費やされることは、もはやつらいことではなくなります。それどころか、反対のことが起こります。瞑想を通じて、新たなエネルギーが自分の中に入ってくるのです。

 精進はとりわけ本能の克服のために必要です。本能的な生き方というのは動物のものです。私たちははるかに進化しているのですから、熟慮ということをしなくてはなりません。しかし、自分自身や他人による本能的な反応を、私たちは少なからず目にします。本能を克服するには多くの精進が必要です。なぜなら、本能的な反応は、私たちの本性の多くの部分を占めているからです。私たちにとってまったく自然なこと、いとも簡単にやってしまうこと、それこそまさに超越していかなければならないことです。凡夫であるということは、苦を味わうということです。凡夫であることを超越するとは、解脱への道を行く聖者になるということです。私たちの自然のままの生き方を克服し、凡夫としての反応を克服するには、多大な精進を必要とします。

 私たちは何をするにも精進が必要です。決意によって始めることはできますが、それを継続するのは精進です。私たちは行くべき方向を知っている時にのみ、たゆむことなく続行することができるのです。そのように進み続けられる人は、たいてい他の人よりずっと多くのことを達成し、大いに賞賛されます。これは驚くべきことではありません。これらの人々は、良く方向付けられた精進を持っているのです。(つづく)

 注:悟りの七覚支(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)