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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『脳内映画館からの脱出(New New Chinema Paradise)』(5)by セス・プレート

やっぱり全然わかってなかったんだ、と受講してよく分かった。というか、今まで、本気でやろうとしてなかったんだ、ということが分かった。
 地橋先生のウェブサイト【月刊サティ!】を読んで「懺悔の瞑想」を知った。自分が悪いことをした相手に真剣に謝罪して、今後は二度と過ちを犯さないで、五戒を守り精進していくと誓って赦しを請うのだ。朝カル受講を開始してから、毎日一人づつ、真剣に謝った。自分の身勝手さを思い出して、本当に詫びた。いったい何人いるんだよ、というぐらい、謝罪相手が途切れなかった。瞑想ができない訳である。本気で慈悲が出てこない訳である。あの毎朝私を苦しめてくる悪霊、なかなか死なない奴は、自分だった。
 20人を過ぎたあたりで、誰も出てこなくなった。でも、これは謝罪相手がいなくなったのではなくて、自分で「許される無礼」の度合いを決めているせいである。先生に質問すると、少しでも心に引っかかる相手は、謝罪して懺悔の瞑想をしたほうがいい、とのアドバイスだった。心に刺さった小さなトゲを放っておくと、いつの間にか魚の目がひどくなって、最後には痛い思いをして手術で切除することになるから、と。それからは、小さなことでも思いつけば懺悔の瞑想をするようになった。
 懺悔の瞑想は、日常生活で効果がとてもよくわかる。怒りを止めようと努力しなくても、怒れなくなることが増えた。なぜなら、自分がどれだけ極悪人か知ってるから。周りが私にかける迷惑なんて、迷惑とは言えない可愛いものだよねと思えるようになった。たまに怒ることがあっても、長年の仕事の癖で怒りが自動的に出ているということが分かるようになった。
 だから、怒った瞬間に「怒り」とサティを入れて消せるようになった、と言いたいところだが、今はまだ、「あ、いま怒った(内的言語化)」→ しばらく怒りを観察して、どうして怒ったかを分析する→「これは長年の癖だな(内的言語化)→身体に怒りが走った感じがしばらく続くので(肩が張った、肩をすくめた、息を殺した)などを観察する→怒りの完了。
 このように、今はまだ、一瞬にして怒りが消えるサティは入れられていない。これでいいのか悪いのか分からないが、今できる精いっぱいのことである。今後サティ一発で消えるようになればうれしい。
 懺悔の瞑想の効果は実感できていたが、ヴィッパサナー瞑想がうまくいっていなかった。「妄想、妄想、妄想」といって打ち消すと、またすぐに「怒り、怒り、怒り」と別のラベリングで、ラベリングの連続になってしまった。相当焦っていたのである。何しろ、今回出来なかったらもう瞑想は止めようと思っていたから。何としても結果を出さなければと焦っていた。
 朝カル開始から1日15分づつ座る瞑想をするが、やりたくない気持ちと戦うのが大変だった。『お前ほんとに幸せになる気あるのか!これでダメなら終わっちゃうんだよ……!』と言い聞かせたり、なだめたりして、なんとかやった。歩行瞑想は得意じゃなかった。グラグラするし、目が開いてるから簡単に集中が散った。だから歩行瞑想は、座る瞑想が嫌になった頃に行う、そんな感じだった。

★瞑想よ、こんにちは(2) One day camp (合宿に参加)
 なかなかヴィッパサナー瞑想がうまくいかない。できることは全てやろう。背水の陣。1Day合宿に申し込んだ。人数制限があるから今回は参加できないかもと思ったが、有難いことに参加することができた。実は朝カルのインストラクションで、先生から『瞑想修行が正しく導かれるように、三宝に守っていただく祈りを捧げると良い』とアドバイスいただいたので、それ以来、瞑想時間の前後どちらかで28過去仏のお経をあげていた。その効果だったのかどうかは誰にも分からない。でも、合宿後もずっと続けている。
 合宿で、もう一度歩行瞑想を習った。朝カルの時と違って、他の方々が行う歩行瞑想時に、実際にラベリングを声に出して、それをチェックしてもらうのを共有する時間があった。おかげで、やり方が吞み込めた。
 『(事象の)滅を感じ切ってから、ラベリングをすること。例えば、お寺の鐘がゴーンと鳴る。その音が完全に消え去る瞬間まで聞いて、「音」とラベリングする。滅の瞬間を味わうこと』という説明が腑に落ちた。これをきっかけにサティが入れやすくなった。滅まで待つと、心の中の焦りが落ちたのが体験として分かった。
 それから、動きのサティをカット(省く)したり、いくつかの動きをまとめて1つのサティにしたりしないよう注意を受けた。これは、まとめてしまうと曖昧になり、サティが成立しないということ。また、まとめるということは、一番最新の事象、目の前の一瞬を逃して本当のサティが入っていないということだった。
 この抽象化は普段からやっており、だから妄想しやすく、他者の話を聞くときも誤解したりするのだと思った。これはちょうど合宿前夜の朝カルで聞いた八正道の<正語>にならない、ということでもあった。目の前の動きに常に集中し、「正確な言葉」で表すというのは、ラベリングの正しさも意味しており、客観性がなければ出来ない。客観性がなければ当然サティは入らず、日常のコミュニケーションにおいてもロジカルに正確に伝えることはできない。正確に受け取ることもできない。だから人間関係でも誤解が生まれてしまう。非常に腑に落ちた。
 合宿の最初に参加者全員のフルネームリストが配られていた。瞑想の調子が崩れたら、参加者に対して慈悲の瞑想をして善心所を復活させて、それからまたヴィッパサナーに戻るのがいいですよ、とのアドバイス。疲れて調子が崩れてからやるほうがいいのだろうが、私は座る瞑想の一番最初に慈悲の瞑想から始めた。動機は自分でもよく分からないが、そうしたほうがいい気がした。自分だけうまく行くより、みんながうまく行くほうがいい気がした。
 それから、長期の合宿で集中力が落ちたときは積極的に作務をして善心所に切り換えると、また瞑想にスムーズ戻れるとも仰っていた。これは、日常で集中力が落ちたら掃除したりして、応用している。お勧めである。
 トイレのサティには本当に苦労した。引戸の建付けがよくなくて、戸を動かせる位置に手を移動させるのに苦労したが、その難しさのおかげですごく集中できた。また、開きづらい戸をあけるために使う動きの語彙がなくて苦労した。たかが一枚の板に格闘する自分がおもしろかった。実際、人生はこんなことの連続なのかもしれないし、どんなことでも面白がれたら、もう無駄に映画を観なくて済むだろう。(つづく)

今日のひと言

2023年3月号

(1)可愛い自分にも嫌な自分にも、法としての実体はなく、エゴ・イリュージョン(幻想)というか、「自我感」というただの印象に過ぎない。
 サマーディとサティが高度なレベルで連動したヴィパッサナー瞑想が、その実状を目の当たりにする。

(2)本当は、誰よりも自分が可愛いし、自分さえ良ければよいと思っているのに、激しく自分を否定し、嫌悪する日々……。

(3)エゴ意識があるので、他と比べてしまう。
 高慢になって、人を見くだす。
 卑下慢になって、落ち込む。
 劣等感を引きずれば、四六時中、何をしていてもネガティブ思考がチラチラと蒸し返され、意識の水底を引っかき回して濁らせる……。
 集中が悪い。
 サティが空振りする。
 修行が進まない……。

(4)他人を意識した瞬間、比べる心が働いていただろう。
 不安を感じた瞬間、心は未来に飛んでいたのだ。
 緊張した瞬間、成功へのこだわりがあったのではないか。
 余計なことを考えて集中が破れた分だけ、その瞬間のパフォーマンスが乱れる……。

(5)正しい技法と習得への情熱があれば、道を極めていくことができる。
 ブレることなく専念するには、なぜ、そうするのか、自分はどう生きるべきなのか を心得ておかなければならない。
 宿業や運命の押しやる力と自らの自由意志がきれいに重なった時、人は輝く。
 まず、現状に気づくサティ!

(6)どの分野でも、名人の域に達した人の脳活動を調べると、ごく一部の脳領域しか使われていないという。
 素人や初心者ほど、どこに、どう注意を注ぎ、何を、どうすればよいのかが分からず、力いっぱい余計なことをしてしまう。
 なすべきことを正しくなすには、どうしたらよいのか……。

サンガの言葉

『段階的に進めるブッダの修行法』(4)

 離欲のプロセスの一つとして、私たちは自分の所有物、自分はこういう者だという思い込み、何かになりたいという欲を捨てることができます。日常生活で手放さないと、瞑想中に手放しにくくなります。瞑想中には、思い、願望、判断、期待、欲求、楽しみを手放さなければなりません。瞑想したければ手放さなければならないのです。従って、他の時でも手放す作業を実践する必要があります。所有物や家族を捨てろと言っているのではありません。それらのものに依って自己像を作り上げることをやめるという意味です。

 離欲にはさまざまなやり方があります。それは自分自身の鍛練でもあるのです。いつもより早く起きたり、より心地よい状態を求める気持ちを捨てる等もそうです。食べたい時にいつも食べるのではなく、本当に空腹を感じるまで待つのも離欲です。人生の終わりが来たら、すべて捨てなければならないのです。「私のもの」と呼んでいる所有物や人々を一緒に持って行くことはできないし、「私のもの」と言っているこの体さえも持って行けません。死がやって来る前に、死について何らかの知識が入ってきます。そのせいで、人は往々にして死ぬ瞬間が苦痛になるのです。安らかに死ぬ人もいますが、たいていの人はそうではありません。すべてを手放す準備がまだできていないからです。それまで手放すことについて一度も考えなかったのですから。

 私たちが執着しているものは、すべて邪魔な障害物です。私たちはたいてい自分以外の人に執着していますが、手放す必要があります。これは他人を排除するという意味ではありません。自分の、他人に執着しようとする態度を手放すという意味なのです。執着しようとする態度は最大の障害物です。手放す方向にいくらかでも進まないと、瞑想も妨げられることになります。なぜなら私たちは、自分の考え、願望、希望に執着し続けようとするものですから。

 以前と同じ家に住み続け、同じ服を着、外見は変わらないままでも、一番強く執着していたものをいくつか捨てることができます。何も家族を愛さなくなるということではありません。執着心のない愛こそが恐怖心のない愛であり、それゆえ純粋な愛なのです。執着心のある愛は束縛になります。それは感情の波で出来ており、目には見えない鉄の手かせ足かせを作り出すのが常です。真の愛とは執着しない愛であり、見返りを期待しないで与え、寄りかかるのではなくそばにいてあげられるものなのです。

4.「智慧」
 人生で進むべき正しい方向を見つけるには、智慧が必要です。智慧の相棒は信です。信と智慧は共に働くことが必要です。
 ブッダは信のことを盲目の巨人に、また智慧のことを、よく見通すことのできる眼はもっているが、手足の不自由な人に例えました。二人は出会います。「信」は「智慧」に言いました。
 「私は頑丈な身体を持っていますが、自分がどこに向かっているのか分からないのです。あなたはとてもか弱そうですが、よく見通せる眼を持っています。さあ、私が肩車をしますから、一緒に遠くまで行きましょう」
 盲目の信は、山をも動かすほどの力持ちですが、残念ながらどの山を動かすべきかが分からないのです。智慧は、方角を指し示す際に必要不可欠です。智慧は、内なる洞察という鋭い目を持っています。
 智慧というのは興味深い要素です。それは学んで得ることができるものではなく、心の清らかきの中から生まれてくるものだからです。
 
 智慧には三つの段階があります。
 一つめは学ぶことです。それによって、知識を創り出します。学校や大学に行くこと、読書や、学識のある人々から話を聞くことによって、知識を得ることができます。そうして得た知識は、咀嚼して、私たちの心の一部にしなければなりません。私たちが食物を消化する時、不要なものは捨てられます。体にとって有用なものは取り入れられ、血液となりエネルギーになります。知識を取り入れる場合も全く同様です。知識を消化し、有用でないものは捨てられ、最良のものだけを血液の中に取り込みます。食物が消化されて身体を活動させるためのエネルギーになるのと同じように、知識は智慧に変容します。これは、心の中で起こる変化であり、そのために莫大な量の書物を読み消化しなければならない、ということではありません。量ではなく質が大切なのです。食物の場合と同じです。
 情報の場合も、消化する前に、よく噛み砕いて飲み込むことが大切です。食物が体内で適切に利用されることが、身体の成長に必要なのと同様、心の成長には、私たちの「内なる働き」、すなわち精神の働きが不可欠です。
 ブッダの教えについても、私たちの「内なる働き」が無ければ、その数えはブッダやサンガだけのものに留まり、何度繰り返し聞いたり読んだりしたところで、私たちの身には付かないでしょう。私たちが情報を噛み砕き、飲み込み、消化するということをしないならば、それは内なる智慧に変容することも無いのです。
 より多くの智慧があれば、浮き沈みの少ない、調和の取れた人生を送ることができます。智慧を欠いていると、抜け出すのが非常に困難な状況に陥ってしまいます。そこから脱出できなくなる場合もあるかもしれません。智慧があれば、そもそもそうした困難に陥ることがありません。
 もし智慧に、それを支える信が伴うならば、とても強力なものになります。巨人の信は大いなる自信に満ち、動揺することがありません。そこに智慧の、鋭い眼の働きが加われば、悟りへと導かれて行きます。
 信を伴わない智慧は、どっちつかずの性質を帯びることがあります。疑問や問題があると、智慧には、それらの表と真の両面が見えます。しかし、智慧それ自体は、信と違い、確固たる決意をするということがないのです。
 信は外のものに頼る必要がありません。外のものに依存してしまった信は、動揺しやすくなります。なぜならば、そうした信の場合、外のものの存在が証明できなければならず、その存在が疑いようのない形としてあることが必要になるからです。しかし、何であれ、人がその存在を信じているならば、誰もそれに対して疑いを投げかけることば許されません。
 最も効力のある信は、悟りの段階へ至る自らの能力に対する信です。その信に加えて、正しい道を見出したという信が生じることもあります。それは、智慧という鋭い眼で見出したダンマ(法)への、揺るぎない信なのです。(アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)