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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『脳内映画館からの脱出(New New Chinema Paradise)』(4) by セス・プレート

★瞑想に出会ったのに(3) Refugee from Asura's world (瞑想難民になる)
 インドのグル系の瞑想会に何度か行き、合宿にも行ってみたが、そこの方法は感情を爆発させて一時的にスッキリするものだったので、根本原因がそのままで問題を解決できる気がしなかった。感情を表現する練習、モダンダンスに似ている瞑想方法だと思った。
 地方に拠点があるミャンマーのお坊さんの所へ行く。
 せっかく合宿にいったのに仕事の都合で二日後に東京に戻ることになり、事務方に大変怒られた。全日参加できることが条件だったのに、世俗のことを優先したのだから怒られて当たり前である。とても反省した。自分の根底にまだ身勝手さがあるとよく分かった。仕事を優先すれば許される、という昭和のオヤジみたいな心理。嫌っていたはずなのに、自分もそうなっていたのが恥ずかしかった。
 マントラ系の瞑想にも行った。
 マントラをもらってそれを唱えるタイプのものだったが、主宰のコメントを聞いたらあまりに俗物的でゲンナリしてしまった。この瞑想の結果がこの程度ならやる意味がない、と思ってそれきりだった。
 海外で瞑想修行してきた方の瞑想会に2年通った。
 ここは誘導されたとおりに瞑想するので、瞑想会に出ているときは落ち着くのだが、日常に戻ると朝のあの不安感が復活してしまった。瞑想会で得た落ち着きを壊すかのように、反動でYouTubeやアマゾンプライムビデオで映画を見まくるようになってしまった。瞑想と世俗時間の相殺である。うすうす感づいてはいたが、私は映像刺激に依存している。英語と演技の勉強のためがきっかけだったが、ストーリーからくる感情、音、視覚の刺激に依存していた。次々に新しくて刺激的な作品が世に出るし、それらでビジネスをしている企業がたくさんあるのだから、まんまと引っかかり続けていたのである。
 また、この瞑想会場には毎週往復4時間かけて通っていて、丸一日時間を取られるため、実際疲れたのだった。「週末に長く座っているんだしいいじゃないか」が恰好の言い訳となり、日常の瞑想が疎かになっていた。
 瞑想を教える方はたくさんいて、メソッドも人種も言語も様々である。瞑想難民になることはおかしくないと思った。むしろ、納得のいかない先生のもとで不信を隠しながら何年も続けるより、納得のいく先生を探すのは必要だと思う。

★瞑想に出会ったのに(4) Die Hard (なかなか死なない奴)
 コロナ禍で瞑想会へ行かなくなると朝の辛さがより増してきたので、なんとか出口はないものかとインターネット上で必死に探した。オンラインヨガを始めて、体力は再び取り戻した。やはりヨガは効果がある。
 外に出られないから、YouTubeもオンラインでの映画の視聴時間も増加した。かなり依存していた。Podcastも聞くようになった。 オプラ・ウィンフリーとマイケル・シンガーの対談があった。彼の経歴が面白かった。学生時代からヨガと瞑想をし、森に住み、自分の道場の資金を作るために始めた建設会社がうまくいき、より大きなヨガ道場を作り、街で見つけたコンピューターに夢中になり、その流れでソフトを開発したらバカ売れしてビリオネア(億万長者)になったというのである。が、そこで一番すごいと思ったのは、彼は<金持ちになろうとしていなかった>のである。彼は、「自分に起きることはすべて受け入れる(Surrender)」という実験をしたら、最後にビリオネアになったのだ。
 これだけでは終わらない。大企業のCEOになった彼は、社員が起こした不正の濡れ衣を着せられて、何年も政府を相手に裁判で戦うことになった。<自分のエゴが根こそぎなくなるまで、問題を受け入れた>のである。何年も結果が出ず、最後は当局側が取り下げて終わった。
 すぐに著作を読んで彼のオンラインコースを受講した。マイケルの、アメリカの良いおじさんぶりに痺れた。スリランカの長老とは違う慈愛の感じがした。『会社ってのは、何かを取りに行くところじゃない。自分がServe(役務提供)しに行くところなんだ。嫌な仕事に行くだって?Good for you、 良かったじゃないか、それこそ精神的な修行でしょう』。
 マイケルの言う通り、仕事前には、I’m here to serve. I’m here to serve.(私はここに奉仕させていただきます)と言って始めた。「私は一個の細胞です」よりも効いた。みるみる仕事が楽しくなった。驚いた。うわお、仕事ってこんなに楽しかったのか!!そして、2021年のEmployee of the year(最優秀社員賞)を受賞した。もう、抜け出せたと思った。ようやくバラ色の人生と言える!
 しかしである。
 Not again,,, I’m with evil spirit to die hard.しばらくするとまた襲ってきたのである、あのなかなか死なない、朝の重苦しい猛獣が。だめだ、これはもう、「真剣に」瞑想をするしかない。そうしないと、ずっとエゴに喰われて、慈悲も出てこず、これ以上は変われないんだと思った。なによりも、この苦しい人生をなんとか終わりにしたい。本当に終わりにしたい……。

★瞑想よ、こんにちは(1) The Visit (訪問)
 こんな苦しい状態だったのに、スリランカの長老の本とYouTubeの法話は継続してずっと観ていた。だから、仏教の通り、自分の苦しみは自分が作っている自覚はあった。どっぷり脳内映画館で貪瞋痴を増やしながら暮らしているせいもある。そして、どうすればそれを終わりに出来るかという答え(=瞑想を実践する)も知っていたのに毎日瞑想せず、奇跡的に瞑想を数日続けられても、いまいち正しくやっているのかが分からなかった。
 ある先生はラベリングはするなというし、ある先生はラベリングをしろという。「どうしよう。いや、でも、現に瞑想をしても良くなっていないってことは、やっぱり何かやり方が間違っているに違いない」。もちろん、先生やメソッドが間違っているのではなく、私が瞑想者として間違っているのだと思った。
 もう一度、ゼロから、基礎からやり直そう。そして、これでうまくいかなかったら、もう瞑想は最後にしようと思った。金輪際、瞑想をやめて、仏教もやめて、ストレスがあろうが注射を打ち続けようが、お金を儲けることを全肯定して欲にまみれて生きよう。やりたいことを全部やって死ねばいい。輪廻も来世もあるなんて証拠はないんだし。やったもの勝ちでしょ、人生なんて。そして、それは最もやりたくないことだった。覚悟を決めた。
 瞑想本の中では、地橋先生の本が一番わかりやすいと人気YouTuberが勧めていた。地橋先生のことは瞑想仲間から名前だけは聞いたことがあった。さっそく著作を読んでYouTubeを観た。基礎からやり直すと決めていたので、本当に本当に初心に戻って朝カルを受講した。(つづく)

今日のひと言

2023年2月号

(1)望むままに、自由に、奔放に、生きていく人生もある。
 与えられた運命に、淡々と従いきっていく人生もある。
 さしたる違いはない……。

(2)自然に放置すれば、全てのものが散らばって、混沌とした無秩序に向かっていこうとするのが存在の世界だ。
 その基本的傾向に逆らい、有機的に結晶した秩序ある状態を維持しようとするのが生命活動である。
 壊れていこうとする力に逆らい、抑制をしなければ、生きていくことはできない……。

(3)過食をすれば体が濁り、眼も耳も鼻も味覚も身体感覚も鈍重になり、すべてが物憂く、どんより、ボンヤリ、どうでもよいと投げやりになって、眠気に引きずり込まれていくのに抗う気にもなれない……。
 坂道を転がり堕ち始めていく最初の無明……。

(4)食欲がきれいにコントロールできると、体がスッキリと整い、心も透明に澄みきって、瞑想のクオリティが格段によくなってくる。
 「ああ、この状態を保っていきたい……」と誰もが望むのだが、必ず気がゆるんで、節度を失う瞬間が訪れる。
 寄せては引き、引いては寄せながら徐々に潮が満ちてくるように、一直線の右肩上がりは、あり得ない。

(5)「膨らみ・縮み」とサティを入れ、「離れた→進んだ→着いた」とラベリングする。
 技術的にサティを入れることはできても、エゴを対象化し、どこまで自己客観視が できているかは千差万別、ピンからキリまでの個人差がある。
 心が本当に成熟し、人格が完成してくるのに比例して、エゴレス度が深まっていく……。

サンガの言葉

『段階的に進めるブッダの修行法』(3)

2.「持戒」
 十波羅蜜の中で「布施」に続くのが「持戒」です。これは五戒を守ることに係わってきます。嫌悪や貪欲を減らしていき、それらの最終克服を目指しています。嫌悪と貪欲は自我妄想が原因で発生するため、これらをなくしていくとは、エゴをなくしていくことのもうひとつの方法でもあります。
 すべてのブッダの教えは同じ方向性を持っています。ブッダが心の解脱に向けてあまりにも多くの、異なる教えを説いたので、人々は混乱することがあります。しかしながら、これは巨大なジグソーパズルのようなものです。数片が本来あるべき場所におさまれば、すべてが一枚の整った絵として完成するのです。ダンマが全体として目指しているのは、まずエゴを処理可能な大きさにまで減らしていき、最終的にエゴをすっかり取り除くことです。

 戒律に従いそれを守ることは、パズルの絵の一部なのです。生命を傷つけなければ、心の中の嫌悪も消滅します。嫌悪感を持つ時にのみ、傷つけたり殺したりするのです。与えられていないものを取らなければ、食欲を減らせます。貪欲が存在するときにのみ、私たちは自分の物でない物を取るのです。性的不品行にも同じことが言えます。悪語は貪欲か嫌悪のいずれかに原因します。薬物やアルコールに手を出すのは、たいていの場合、それらを使えば簡単に手に入りそうな快楽を求める食欲のせいなのです。(アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)

3.「離欲」
 離欲は、出離とも訳されます。英訳ではrenunciationになっていて、これは、放棄、断念、手放すということです。
 離欲というと、僧や尼僧や、どこかの洞窟にこもって修行している行者など特殊な人たちのためのものと思われがちですが、それだけでは離欲を正しく理解したことにはなりません。離欲とは自分のエゴから生ずる願望を捨てることで、多少でもそれをしない限り、瞑想がうまくいきません。
 エゴは楽しみを求めます。繰り返し求めます。エゴは、静かにさせられ、おもしろいと感じるようなことを何もさせてもらえないと、実に激しく抵抗し、自らを守るために何とかしてその状況を打破する抜け道を見つけようとします。例えば、おしゃべり、読書、空想など、自らの欲求を満足させるためなら、あらゆることをするのです。このような性癖から離れない限り、瞑想はうまくいきません。
 また徳を積むあらゆる行いが瞑想を支えます。そのような徳は、気骨のある人間を育てます。瞑想を進めるには、骨のある人間になることが必要です。それは、背筋をしっかり伸ばすためだけでなく、しっかりした考えを持つ上で役に立つのです。

 心の世界を成長させるなら、離欲は重要な要素です。離欲とは、自分はかくかくしかじかの者である、こういう人間になりたい、何々が欲しいといった考えを手放すことなのです。
 そのような考えがエゴであり、常に「私」を主張し、間違った方向に進むのです。私たちは、「私の」家、「私の」家具、「私の」夫、「私の」妻、「私の」子ども、「私の」親戚、「私の」車、「私の」仕事、「私の」職場、「私の」友達、といった風に「私のもの」と思うことで、「私」を安心させています。それが、「私」を支えている仕組みなのです。こうしてエゴは、安定を得たような錯覚に陥ります。しかし現実には、いかなる人も所有物も永遠に存在するわけではなく、あらゆるものは常に消えつつあるのです。

 上に述べたような安定が真実のものなら、家や車は大きければ大きいほど、友人や子どもは多ければ多いほど、夫や妻も多ければ多いほど、その人は安心できるということになるでしょう。しかし、これらすべての人や物を持つと、心配ごとややっかいごとが増えるばかりです。
 一人ではなく十人の夫がいることを想像してみてください。考えるだけでうんざりします。
 安心感を得られると私たちが思い込んでいる、誤った考えがまだあります。それは、私たちが、「私が」すること、「私のために」すること、「私のもの」などで自分自身を取り囲みたがることです。私たちは自分の概念でそう思っているだけであって、実際には誰をも自分のものにすることは出来ません。人は予期していない時に死ぬし、相性の悪い人と結婚するし、他人は私たちに「さよなら」さえ言わずに去って行ったりします。人はカルマを作っているにすぎないのです。
 しかし私たちはそれらを「私のもの」と言い、本当に自分が所有していると信じています。そう信じるが早いか、私たちはすぐに必死でそれらのものにしがみつきます。それらは「私のもの」であり続けないといけないのです。こんなふうにして、自分の家族や仕事、所有物に依って「私」という概念を作り上げるのです。私たちは、単なる一人の「私」であるだけでなく、長じるにつれ、さまざまな人々、仕事、家や身の回りのあらゆるものに囲まれて、自分との強い結びつきを感じていきます。それで自分自身が大きくなったように感じるのです。
 このような、外のものに依って作られた「私」という思いを捨てることは、大変重要なステップです。人は独り、自らの足で立ってはじめて修行が実践できるのです。これは自分の家から他の人を皆追い出してしまえという意味ではありません。しかし、他の人の言ったことや考えていること、したことに頼っていて、どうやって自由を得られるというのでしょうか。このような、外のものに依って作られた「私」という思いを離れると、エゴは正常な大きさに戻り、ただ一人の「私」になり、それ以上でもそれ以下でもなくなるのです。エゴは無くなりはしませんが、扱いやすい大きさになります。一つの体、一つの心になり、多くの人々や物を所有しようとしたり、それらに頼って、「私」という思いを抱くことは無くなります。

 何かになりたいということも、たとえその何かが優秀な瞑想者であってもエゴが主張することなのです。今どうなのか、今あることに注意を払わないで、人は将来何かになりたいと思います。将来について言えることが何かありますか。言えることは何もないのです。将来は完全に白紙です。しかし今この瞬間がどうであるかについては、私たちは完璧に気づきを入れることができます。
 優秀な瞑想者や上司になりたい、有名になりたい、金持ちになりたい、慕われたいなど、今の自分以上のものになりたいと思うこともまたエゴを大きくします。何かになりたいと思うのは有益なことではありません。今どうあるかに注意を向けることこそが有益なのです。そうすれば、エゴはまた扱いやすい大きさに戻ります。私たちは今の状態に気づくことができますが、将来どうなるかに気づくことはできません。それらは今はまだ存在しないのですから。それは空想や願望にすぎません。捨ててもいい余計なものなのです。(つづく)