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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『転職と瞑想』 永井 陽一朗

前回、2023年9月号では、工場で働き始めたところまでを書かせていただきました。今回はその続きです。
 工場では妄想でぼーっとしてしまい、仕事の説明をされているのに全く頭に入ってきませんでした。そんなわけだから、他のみんなは仕事を任されているのに私には全然仕事をもらえませんでした。作業らしい作業をしないままひと月が過ぎた頃、ほとんど立っているだけだった為に足が痛くなり、早退や欠勤を繰り返すようになってそのまま退職。

 入社して間もない頃に、同じ時期に入社した人のうちの二人に私の寮で鍋パーティーをやらないかと誘われ、鍋パーティーをやらされ、また次の予定としてタコ焼きパーティーも約束する羽目になってしまいました。
 私には二人の人間としての質は高いとは思えませんでした。で、そんな二人と関わりを持つのはどうなのかと思い地橋先生に相談したところ、先生は原始経典のブッダの言葉を引いておっしゃいました。
 「自分と同じかそれ以上の者と歩めないなら、ひとり犀の角のように歩め」
 先生のインストラクションを受けた私はその二人とは関わらないことにしました。

 瞑想はというと、一人暮らしなのだから結構出来そうなものですが、初めの頃は妄想多発の為にあまり集中が出来ませんでした。そこで断っていた薬を再び服薬し始めると妄想が和らいできて、少しは瞑想に集中することが出来るようになってきました。しかし、退職する1週間くらい前からは、工場で知り合った先ほどの二人とは別の方を毎日のように寮に呼んで鍋を食べていたので、瞑想する時間はほとんど取れませんでした。

 実家に帰ってから職探しを始めました。ある工場の仕事を見つけて1LDKの寮に入った時には、1LDKで一人暮らしが出来るようにとアラン・ピーズのブレイン・プログラミングを行っていて、願望実現が果たされました。

 ブレイン・プログラミングというのは「引き寄せの法則」を科学的に説明したもので、アラン・ピーズという人が書いた本のタイトルでもあります。「引き寄せの法則」とは、簡単に言えば願望を実現させるのに使える法則です。私はニート生活を続けていた為、生活基盤を整える必要がありました。生活が出来ないと瞑想も出来ません。ブレイン・プログラミングはあくまで、瞑想修行、ヴィパッサナーヴァーヴァナーを行うために使ったのでした。自分の欲を達成させるためにブレイン・プログラミングを使うことは、原始仏教の教えからすれば逸脱していますが、私の場合にはこのような理由から必要だろうと考えたのです。

 今回は、天職が見つかるようにブレイン・プログラミングを行いました。何が天職か分かりませんでしたが、希望のWeb制作やSNS関連の仕事を探しました。また、私は万年筆が好きなので、万年筆の仕事も探しました。なぜ私が万年筆が好きなのかというと、実はジャーナリングが関係しているからです。

 去年2022年の5月頃から、私はジャーナリングを行っていました。
 ジャーナリング(書く瞑想)というのは、ダンマトークでも以前に説明されていたことがあると思いますが、紙にペンで自分の思考を書き出して可視化するやりかたです。文字にするという段階を入れて可視化された思考を読み返すことで、客観的に観察することが出来、その結果、自分の思考の癖や思考パターンを明らかにしようということです。

 私のジャーナリング体験を少しお話ししましょう。
 ある時、私は瞑想中に妄想に囚われてしまいました。サティが入らなかったのです。ジャーナリングで書いたものを観察してみると、サティが入らない自分を情けないと思っていることが分かりました。
 「サティ入らなくても、まあいっかあ・・・」
 私はサティが入らないことを受け入れました。すると自分のことを情けないとジャッジしなくなったのです。自分を受容することが出来たのです。

 去年、2022年の6月頃に高級筆記具でジャーナリングがしたいと思い、Parkerというブランドのソネットいうボールペンを買ったのでした。その後、10月の誕生日に友達から万年筆のインクとコンバーターをいただきました。コンバーターとはインクを入れる機器で、万年筆に装着して使います。元々、万年筆を1本持っていたので、それ用に買っていただいたのでした。
 使ってみると、書き心地がそれまで使っていたカートリッジ式というものよりも格段に良くなり、そのことに私は驚きました。こうして私は万年筆に興味を持つようになります。万年筆専門店に試し書きが出来るよう、置いてあったグラフ・フォン・ファーバーカステルというブランドのアネロというシリーズの万年筆を使ってみると、そのあまりの書き心地の良さに驚き、感動し、私はそのシリーズの色違いの万年筆を購入したのです。以後、万年筆の沼にハマっていくことになりました。

 話をブレイン・プログラミングを使った職探しに戻します。万年筆やWeb制作の仕事を探していると、万年筆の通販サイトのデザイン、バナー制作、SNS発信の仕事の求人が見つかりました。好きな万年筆の仕事で、しかも希望のWeb制作とSNS発信の仕事だったので、すぐに応募しました。結果、その仕事に決まりました。退職してからひと月くらいのことでした。ブレイン・プログラミングによる願望実現だと思われます。まさに「引き寄せの法則」どおりでした。

 すぐに神奈川県から職場のある千葉県に引っ越し、一人暮らしを始めました。その頃、地橋先生から「会社、職場の人たちに慈悲の瞑想を行うように」とインストラクションを受けました。
 しかし2ヶ月経った頃、専務から社会人としての基本がなってないだとか、仕事の進みが遅いだとか、職場の人間に認められることが重要だが認められていない、といった指摘を受け、このままでは雇用の継続は難しいと言われてしまいました。直属の上司は入社当時から私に冷たかったのです。私は会社側はもう私を雇う気がないのだと踏んで、退職することにしました。コーディングの仕事は3日しかやりませんでしたが、バナー制作の仕事は3回くらいやりました。あとはPCを使った単純作業でした。

 この職場で働き始める前、地橋先生から慈悲の瞑想をやるように言われていましたが、私は慈悲の瞑想があまり上手く出来ない為、ほとんど慈悲の瞑想を行なっていませんでした。
 「慈悲の瞑想を行なっていれば、職場の人間から嫌われて退職することになどならないだろう。これは慈悲の瞑想を実践するように、という天の計らいかもしれない」というようなことも言われました。
 それを聞いた私は、慈悲の瞑想を行うことにしました。余計な妄想が湧いてきて、なかなか出来ない慈悲の瞑想でしたが、実践に努めました。スマナサーラ長老の慈悲の瞑想のフルバージョンをYoutubeで見ながら一緒に念じていると、心が暖かくなりました。

 退職する旨を会社に連絡した日、Web制作会社のオンライン面談があり、その日のうちに採用が決まりました。
 この万年筆の通販サイトの仕事の期間、瞑想はというとあまり集中できず、帰ってからは疲れてしまい、また妄想も多発しており、あと気概が足りない為、あまり質の高い瞑想を行うことは出来ませんでした。頻度も少なかったです。
 オンライン瞑想スタジオのMelonオンラインで週3回くらいはクラスを受けていたので、全く出来なかったというわけではありませんでしたが、坐る瞑想は週1時間かそれ以下、歩きの瞑想はほとんどやっていませんでした。Melonで行われている「動きの瞑想」という坐りながら、比較的ゆっくり上半身を動かしつつ、その感覚を観察するものは週1時間かそれ以下の頻度で行なっていました。
 ジャーナリングはほぼ毎日行っていたのですが、今年の春頃からは、ほとんど成果が感じられない日ばかりでした。ただ、この原稿を書いている直近では、ジャーナリングによる気づきが得られることが多くありました。書き留めたものがありますので、以下に紹介します。
 <いつも心のもやもやを解消しようとジャーナリングを行なっていた。だが、心のもやもやは晴れないことがほとんどだった。私はジャーナリングを行う動機が「心のもやもやを解消しようとしていること」だと気づいていなかった。だが、そのことに気づくと、心のもやもやが晴れた>
 無自覚だった自分の心を自覚することで上記のことが起こりました。

 妄想ですが、何ヶ月か前に、それまでは、妄想をジャッジして嫌悪し、排除しようとしていたことに気づきました。気づいてからは、妄想をジャッジせず(価値判断せず)、ありのままに見ることが数回出来ました。
 ありのままに見ると、数回とも妄想が1秒くらいで消えました。それは私にとってはかなりの進歩でした。妄想をジャッジして嫌悪していることに気づいたばかりか、妄想を価値判断せずありのままに見ることが出来たのです。

 瞑想を始めるようになってからの変化ですが、グリーンヒルに来ている皆様やマインドフルネスサロンMelonの皆様から「変わった」と言われるようになりました。「明るくなった」「人に接する時の表情が柔らかくなった」「大らかになった」「メタ認知しているようになった」「メタ認知が高まった」といったことを言われました。
 他には、ニート生活をやめ、再び働くようになったことや、一人暮らしをするようになったこと、瞑想ライフを送るようになったこと、法友が出来たこと、グリーンヒルやマインドフルネスサロンMelonの方たちとの良縁に恵まれたこと、地橋秀雄先生という尊敬する師が出来たことです。
 1day合宿には去年2022年の7月頃から毎月通っています。スタッフとしても3回参加させていただきました。瞑想を始める前は、生きがいや生きがいを感じる気持ちが少なかったのですが、今は瞑想が好きで、瞑想が楽しく、瞑想が生きがいです。

今日のひと言

2023年12月号

(1)これは、手のかかる、厄介な人だな、と溜息を吐きたくなるような修行者もいる。

 だが、例外なく、そんな苦労したインストラクションを通して、最も深い学びを得ることになる。

 善きにつけ悪しきにつけ、出力したエネルギーに比例した甘美な果実、もしくは苦い果実を刈り取らされる法則だ……。

(2)「なぜ私は、サティの瞑想が続かないのでしょうか?」

 「この世のことに囚われているからです」

 「私は、この世を捨てたいと思ってます」

 「それなら、思考にサティを入れ、見送りなさい。

 思考の中身は全てこの世のことです。

 概念の世界を世間と言います。

 あなたは、世間が大好きなのです」

(3)どのような苦しみも、脳内に固着した「渇愛」という名の執着が手放されれば、終わるだろう。

 望みのものが手に入り、報復に成功し、「夢が叶う」場合もある。

 諸般の事情と因縁の流れを見て、「妄執だった……」と静かに諦める場合もある……。

(4)嫌なものがイヤではなくなっていくプロセスが、心の成長である。

 お膳を引っくり返す。

 斬り捨てる。

 戦争を始める……。

 ストレートに怒りを露わにするのは、幼稚なことだ。

 環境ではなく、認知を変え、心を変え、生き方を変えていく……。

(5)「この世のことなんて、どうでもいい。私は悟りにしか興味がありません」

 「あなたが求めているのは、思考で考えた悟りです」

 「嘘です。 私は本当に悟りたいのです」

 「それなら概念の世界を一切捨てなさい。本気でこの世から出離する覚悟があれば、妄想は止まるでしょう……」

(6)諸法無我の対極にあるのは、我を張り、私が俺がと自慢し、差別し、人を見下す、エゴイズムの世界だ。

 駆け巡る思考、多発する妄想、荒ぶる心、昂り、暴れまわる心……。

 その興奮と混乱が静まり、心に沈黙が拡がっていくと、見えてくる存在の本質、この世界の真相……。

 瞑想しよう……

サンガの言葉

『四人の友(慈・悲・書・捨)』……5

(承前)

4.捨(平静さ)
 「四人の友」の最後は、すべての感情の中で一番すばらしいもの、すなわち、「平静さ」、「物事を公平に見る心」です。
 「平静さ」にとっての遠くの敵は「不安」や「落ち着きのなさ」、そして近くの敵は「無関心」です。
 ですが「平静」さとこの近くの敵の「無関心」は混同されがちです。無関心な心の状態とは、「問題が我が身や我が家族にふりかかるのでなければ構わない。知りたくない。わずらわされたくない」というものでず。無関心は冷たく拒否的な態度であり、その中に愛情や慈悲は見出せません。私たちはとにかく自分を守りたいと思い、そのため無関心な態度をとろうとするのです。

 しかし、公平に物事を見る心の基礎にあるのは、すべては変化するという智慧と洞察、そして、あらゆるものは永遠ではないという理解です。どんな出来事にも終わりがあります。
 いかなるものにも「本質的な重要性」はありません。不変でないものにもとづく「不死にいたる道」などは標識のない道であり、何の意義もありません。解脱以外に、全宇宙において真に意義あるものはないのです。
 「すべてのものは絶えず変化している。起きたことがよく思えようが悪く思えようが、それによって有頂天になったり落ち込んだりする必要はない」という洞察から、平静さが生まれます。物事はただ起きているだけです。
 私たちはこの宇宙に住む人間として、恐らく60年か70年か80年、ここに存在するだけです。どうして押し合いへし合いしているのでしょうか。何を得ようとしているのでしょうか。どこへ行こうとしているのでしょうか。すべてはただ起きているだけなのに。
 私たちに真の平静さが備わっていない原因はただ一つ、自我(エゴ)を守りたいからです。「私は何か危険にさらされるかもしれない。攻撃を受けるかもしれない。それによって私の命は安全でなくなるかもしれない」と、私たちは恐れています。しかし、皆が探し求めている安全は絵空事であり、妄想です。安全などあり得ません。人は皆、死を免れないし、持っているものもすべて必ず壊れるときが来ます。
 私たちが愛している人も皆、老・病・死を免れず、いなくなってしまうし心変わりもします。これらのものはどれも安全ではありません。
 自分にとって好ましくないことが起こったときに平静さがなくなるのは、妄想するからです。その妄想とは、自分の幸福にとって本当に大切なものを失ったと思うことです。これが自我防衛というものです。しかし幸福でさえも妄想です。なぜなら、私たちを本当に満足させ、永久に安全を保証してくれるものは何もないのですから。
 平静さを得るには、ただ平静な心でいようと決意するだけでは足りません。決意は役に立ちますが、その決意が抑圧とともに行なわれる場合があります。私たちは自分の激しい感情を抑圧しがちです。それはまったく私たちに利益をもたらしません。なぜなら、抑圧された感情はいつかは外に出てしまうからです。ある面で抑圧されたものは他に出口を見出そうとします。

 抑圧していると、病気になったり落ち込んだりすることがあります。抑圧されたものが、他の面で噴出してくることがあります。そうなると、私たちはある状況では動転しなくても、別の状況で混乱させられることになります。
 平静さには洞察力が必要です。完全な平静さが培われたならば、悟りを得るための七覚支の一つが培われたことになります。もっとも、完璧な平静さは、悟った人のみにもたらされる恩恵です。とはいえ、私たちがいま修行せずに、どうして進歩し成長することができるでしょうか。
 私たちは瞑想を通じて、変化と流転、すなわち、いかに私たちの心が絶えず変わっているかがようやく分かり始めます。自分が10分前に考えていたことを思い出せるでしょうか。一番最近の瞑想で考えていたこと、その前の瞑想で考えていたことを思い出せる人がいますか。誰もいません。私たちはいかなる思考、いかなることも留めおくことはできないのです。すべては一時的なものです。
 自分が30年にわたって家を持っていた、あるいは誰かと一緒にいたからと言って、その物や人をずっと持ち続けることはできないのです。物や人が長年自分とともにあると、それらが永久に存在するように思えるものです。しかし瞑想をすれば、自分の思考が現われては消え、決して自分の中にとどまっていないことに容易に気がつくでしょう。すべてが変化し消えてしまうのなら、何を心配することがあるでしょうか。すべては絶え間なく変化し、絶え間なく流転するのです。

 変化や流転が起きている間だけ、私たちは人間として存在します。呼吸し、血管が脈打ち、思考や感覚が変化している間、体内のすべての細胞が朽ち果てつつある間だけ、私たちは人間でいます。それらが止まった時、私たちは骸(むくろ)になるのです。変化と流転なくして、私たちは存在しません。ところが私たちは、変化し流転するものを、永久不変のものに変えることを望みます。私たちはそれらを固定したものにしたがるのです。「これが私だ。私は、これが私だということを皆に確実に知ってもらいたい。私には名前があり、私に属している人や物もある。私には私の見解があり、皆がそれらの見解を間違いなく知ってほしい」。
 このような考え方によって、「永久不変」という概念が人間のなかにしみこんで行きます。しかし、人は絶えず変化しているからこそ、人として存在しうるのであり、最後には骸に変わってしまうものなのです。そうして私たちはまた最初から繰り返します。
 平静さが芽生えるためには、ある程度の基本的な洞察力が備わる必要があります。受容も必要です。受容がなければ、苦が存在します。苦はかならず抵抗を伴っているからです。受容の反対は抵抗であり、抵抗は痛みをもたらします。何かに逆らって押そうとすると、手に痛みが生じます。逆らわずに協調すれば、痛みはまったく生じません。物事をあるがままに受け入れると、平静さが生まれ、平静さから安心が生まれるのです。

 これまで述べてきた、四つの心の状態―崇高な価値のある境地―は、心に安心をもたらしてくれます。この「四人の友」をある程度まで育めば、私たちは安心と平安が得られ、安らかになるでしょう。なぜなら、たとえ世間が自分を非難し傷つけようとしても、自分はそれに巻き込まれる必要はないということが理解できるようになるからです。ブッダはこう言っています。「私は世間と喧嘩しない。世間が私と喧嘩しているのだ」これが平静さという安心なのです。

慈悲の瞑想
 集中するためにほんの少しの間、呼吸に注意を向けてください。
 
 あなたの心を観察して、心配、恐れ、悲しみ、嫌悪、恨み、拒絶、不愉快、不安があるかどうかを見てみましょう。もしそのうちのどれかを見つけても、それらは暗雲と同様、流れ去るものですから、流れ去るがままにしてください。
 あなたの心の中に、自分自身に対する暖かさと友情を呼び起こしてください。あなたにとって自分自身が最良の友であることを思い起こしてください。慈しみの思いと自らが満たされた感覚で、あなた自身を包みましょう。
 部屋の中にいるあなたにもっとも近い人を慈しみの思いで包み、その人が平安で幸福でありますようにという願いでその人を満たしましょう。ここにいるすべての人々を慈しみの思いで包みましょう。
 平和の感情をここにいる皆に広げて、あなたが皆にとっての良き友であることを思いましょう。
 あなたの両親を思ってください。両親がまだ生きていてもいなくても、慈悲の思いで両親を包みましょう。両親があなたにしてくれたことへの感謝の念と平安さで両親を満たし、あなたが両親にとっての良き友であるようにしてください。
 あなたにとってもっとも身近で親しい人々のことを思ってください。見返りを期待せずに、彼らを慈悲の思いで包み、あなたからの贈り物として彼らを平安で満たしましょう。
 あなたの友達のことを思ってください。心を開いて、見返りを期待せずに、彼らにあなたの友情、思いやり、慈悲の思いを示しましょう。
 あなたの近くに住んでいる隣人のことを思ってください。仕事場や通りや店で会う人々をあなたの友達にしましょう。彼らが気兼ねなくあなたの心の中に入ってこられるようにしましょう。
 あなたが嫌っている人々、口論したことのあるような人々、あなたに困難をもたらした人々、あなたが友達とは考えていない人々のことを思ってください。あなた自身の反応について教えてくれる先生として、感謝をもってその人のことを思いましょう。彼らに心から同情を寄せてください。彼や彼女も困難をかかえているのです。許しましょう。そして忘れましょう。彼や彼女をあなたの友達にしましょう。
 私たちよりも生活がもっと困難である人々のことを思ってください。病気で入院している人々、刑務所に入っている人々、孤児院にいる人々、戦争で分裂された国々の人々、飢えた人々、障害を持った人々、目の見えぬ人々、友達や避難所を持たず、決してダンマを聞くことのできない人々のことです。その人々みんなにあなたの心を開きましょう。彼らをあなたの友達にして、慈悲の思いを示し、彼らの幸福を願いましょう。
 あなたの注意を自分自身に戻しましょう。正しい努力をすることで生じた満足と、慈悲の思いを示すことで生じた幸福と、与えることから生じた喜びを感じましょう。これらの感覚に気づくようになりましょう。これらの感覚があなたの中とあなたの周りに創造する暖かさを経験しましょう。

 生きとし生けるものが幸せでありますように。(完)
 アヤ・ケーマ尼『Behg Nobody,Goig Nowhere」を参考にまとめました。