★二十代から映画の仕事に従事してきましたが、50歳になったことを転機として、あてもなく会社を辞めました。辞めるきっかけとなったのは、すでに45歳ころから自分の頭の中はガラクタだらけだと自覚するようになっていて、さらに、売り上げを追い求める映画作りやマーケティングリサーチなどが嫌にもなり、すこし落ち着いて自分を見つめ直したい、もうすこし落ち着いて本を読み、映画を観たくなったからだ、といえばずいぶん格好をつけているようですが、そういう面がなかったとは言えないと思います。
辞めてからは、小さな映画を監督していましたが、鳴かず飛ばずで、このままだと餓死してしまうという危機感から、小説を書いて出版社に持ち込み、なんとか本にしてもらって、現在では小説家という肩書きで生活しています。
物書きとして手がけたのは、いわゆる「警察小説」とよばれるジャンルで(『巡査長 真行寺弘道』シリーズ、是非お読みください)、基本的にこの界隈では、非合理なものを物語に持ち込こまないほうがよいという不文律があります。しかし、この禁を破り、近代合理性の外側、言葉や記号の外を物語の中に取り入れることを選択しました。近代合理性の外側にあるものの代表は宗教でしょう。たとえば、私の新作『サイケデリック・マウンテン』では仏教が非常に重要な役割を果たします。また、『ブルーロータス-巡査長 真行寺弘道』ではヒンドゥー教が、『テロリストにも愛を』ではイスラム教が物語において重要な役割をはたしています。
頭の中はガラクタだらけだと悩んでいた私ですから、瞑想というものには以前から興味を抱いていました。ヨガや気功というものにトライしてみようかと思ったことがあります。結局、私が選んだのはヴィパッサナー瞑想法でした。ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で著者自身が実践している瞑想法として紹介されていたのを読んだことがきっかけでした、とひとまず説明できるのですが、ひょっとしたらもっと大きな力に導かれてのことだったのかもしれません、――と説明するのが近代合理性の外側の導入です。
哲学等の講座を受講したことがあった朝日カルチャーセンターで、地橋秀雄先生のお名前を見つけ、まずはオンライン講座を二度ほど受けてみることにいたしました。「1日7分、3回ほど椅子に座って瞑想しています」と報告し、「いくらなんでも少ないですね。10分はやりましょう。また、健常者が椅子に座って瞑想することは、どのお寺でも認められていません」と注意を受けたのは去年の11月です。
こうなったらきちんとやろうと思い立ち、『ブッダの瞑想法』を拝読し、またYouTubeで先生が指導されている動画なども見て、年が明けて初心者講習に参加しました。この時に、「歩きの瞑想が基本である。歩きの瞑想がきちんとできなければ始まらない」と教えていただきました。
正直に告白すると、自分はもっぱら座りの瞑想だけやればいいやと考えていたのです。そのほうが、いかにも瞑想しているという感じでかっこよく、たまたま実践しているところを見られても「ああ、瞑想しているんだな」と納得して見てもらえるでしょう。それに比べて、歩きの瞑想は、「げっ、なにやってるんだ」という感じで猜疑心が宿った目で見られてしまうのでは、というつまらない理由から、そんな方針を勝手に立てていたのでした。
また、「足の裏の感覚に興味を持ちなさい」などと言われても、足裏の感覚など「私の興味対象リスト ベスト100」の最下位にも位置していませんでした。いやはや、これは困ったぞと思ったものの、しかしここは言いつけに従おうと思い定め、2月に参加した1Day合宿は、歩きの瞑想一本槍で貫き通しました。以後、この方法で毎月参加しておりますが、朝から夕方までずっと歩き続け、終了を告げる鐘が鳴ったときには、軽くジョギングしたくらいの運動にもなっているのではないかと思います。
次第に、日課として瞑想する時間も長くなっていきました。15分から30分に、30分が1時間に、そして、現在は約1時間40分を瞑想に充てるようになっております。8月は1Day合宿がお休みだったので、先生に会いたくもあり、朝日カルチャーセンターの「ブッダの瞑想法とその理論」に参加しました。ダンマトークの後に設けられた瞑想の時間では、座りの時間も設けられていたので、実にひさしぶりに座ることになりました。すると、前とは違った感覚で座っていることに気づき、現在では、1時間40分のうちの20分を座りの瞑想に充てています。「まずは歩きの瞑想を徹底しなさい」と言われた先生に断りもなく勝手に座りだし、それを私がつい書いてしまったTwitterをスタッフの方が見て、先生に伝えられたらしく、先日やはり朝日カルチャーセンターでお会いした時に、「最近は座りの瞑想もやっているんですね」と言われ、「なぜバレている!?」と焦ったわけですが、「いい流れですよ」とつけ加えられたときには、ほっと胸を撫で下ろした次第です。
悩みといえば、瞑想の質がなかなか向上しないことです。とにかく妄想が雲のようにもくもく湧き出てきて、手なずけることが難しい。自分の心を自分でコントロールできないということを知ったことは、大いに落胆させられたと同時に、おかしなことに、新鮮で興味深い驚きでもありました。ということで、妄想とともに歩いているような状態が続いているのですが、心のデフォルト状態はすこし変化してきたように思われます。当初は、とにかく常に心が泡立ち、常に言葉が湧き出そうとしているような沸騰寸前の水面だったのが、以前よりも多少穏やかになりました。
私は、資本主義と仏教との関係を考えることがあります。我々は資本主義社会に住み、そして世界全体が資本主義で覆われようとしています。この資本主義は需要というものを拡大しながら、資本を増殖させていくシステムです。需要は英語ではdemand。demandを英英辞典で引くと、the need or desire that people have for particular goods and servicesと出ています。desire つまり欲です。資本主義というのは欲望を刺激しながら膨脹していくシステムだと言えるでしょう。それに対して仏教には我欲を(そして我さえも)解体していく修行のシステムです。そしてその修行の大きな部分を占めるのが瞑想です(瞑想がヘタクソなくせに、こういう御託だけは言えてしまうのは問題なのですが)。
ところが面白いことに、<我欲の解体>という資本主義ではタブーの行いにつながる瞑想を、巨大企業が、資本主義にドライブをかけるために推奨しているという現実があります。ヴィパッサナー瞑想法から宗教色を拭い去ったマインドフルネスを、Googleなどのプラットフォーム企業、ウォール街のビジネスエリートが活用していることは、どのように捉えればいいのでしょうか?
正当なヴィパッサナー瞑想はこれについても、回答を示してくれています。それは、慈悲の瞑想です。「すべての衆生が幸せでありますように」と祈る瞑想は、強欲な資本主義における<独り勝ち>を許しません。ヴィパッサナー瞑想のもっとも素晴らしいところはここにある、とさえ思います。私は、歩きの瞑想の前に、慈悲の瞑想をおこなうことを習慣としていますが、どうしても時間が取れないときにも、慈悲の瞑想だけはかかさずおこないたいと思っております。