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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『懺懺悔物語 ⑤ -業論からの解明- 』

*業論からの解釈


 ★なぜ懺悔をすると、惛沈睡眠や痛みの現象が消失するのか。設問①の因果関係を考察し、医学的解釈と暗示や偽薬効果の可能性を検討してきた。
 ここからは、懺悔と現象の関係を業論の側面から検討してみよう。 強い意志が出力する心のエネルギーによって、身体現象や事象そのものが新たに形成されていく。現象世界の有為転変は業の法則に司られている、という仏教の基本原理で解釈してみるのは当然だろう。
 そもそも私がこの問題に関心があるのは、瞑想合宿の道場主として、あまりにも多くの事例に接してきたからである。痛みと眠気は瞑想修行の妨害要因として誰もが必ず経験するものであり、それをどうクリアーさせるかは毎回必ず取り組まなければならない仕事だった。定員9名の参加者と24時間起居を共にしているので、瞑想が人間の心身にどのような変化を及ぼしていくのかも目の当たりにしてきた。
 オーソドックスなサティがきれいに入って、鮮やかに眠気が雲散霧消したというレポートは滅多に報告されない。しかるに聖者誹謗系の懺悔の瞑想を紹介すると、劇的に眠気が一掃されたレポートが頻発するのに驚いたのだ。
 成功率は軽く5割を超えていた。異常な眠気に悩まされていた半数以上の人が翌日の面接で、鮮やかに問題が解決したことを報告する。
 仮にその半数が暗示効果だったとしても、首を傾げたくなるような数値だった。しかも、この成功率はその後も変わらず一貫していたのである。


*過去世の不善業か……


 いやしくもヴィパッサナー瞑想のインストラクターをしてきた私が、瞑想者に対し意識的に暗示をかけることなどあり得ない。その正反対の瞑想を教えてきたのだ。暗示やマインドコントロール、自分勝手な思い込みの妄想、引いては概念世界そのものと法としての現実世界とを厳密に識別することがヴィパッサナー瞑想の基本である。
 モーガンの公準にのっとり、痛みなら脚の組み方や座布の高さ、姿勢保持の調整などから始め、惛沈睡眠なら食事の分量や補給の仕方などからアドバイスするのは言うまでもない。
 しかし諸々の対策を講じても効果がなければ、そのまま最悪の状態を放置しておけないので、万策尽きた段階でこのように前置きをする。
 「私は科学的な説明のつかないオカルト的なものを好まないのですが、スリランカの先生に指導された若干怪しげな方法があるので最後に試してみますか?
 説明のつかない異様な眠気は、過去世で聖者誹謗の悪業を犯した報いであるから、本気で謝罪して懺悔の瞑想をすると好転する場合があるというのです。
 例えば、あなたが過去世で仏教以外の異教徒として信仰心が篤く、勢力を競い合っていたテーラワーダ仏教のお坊さんが大嫌いで、罵詈雑言を浴びせたり瞑想の邪魔をしたり、迫害をしていたとします。
 しかるに、どういう訳か今世ではヴィパッサナー瞑想を修行することになっていたとしたら、すんなり瞑想修行が進まないのは当然でしょう。人として、まず冒瀆し罵倒した過去の所業を謝罪し、改めて教えや導きを乞うのが順序です。
 瞑想が進まないのは、いや妨害されるのは、妨害してきたからであり、邪魔をしてきたからだと考えるのがカルマ論の基本です。
 現に得体のしれない惛沈睡眠に襲われ、瞑想が著しく妨げられている状態です。だから、そのような不善業を懺悔するという発想ですね。記憶にもない過去世のことですから科学的検証は難しいのですが、劇的に妨害要因が除去された人が数多くいるのは確かです。
 事実を正確にあるがままに観る瞑想を教えている者として、真偽のほどを立証しづらい方法はあまり勧めたくないのですが、やりたいのであれば教えることはできます」
 必ずこのように断ってから具体的なやり方を伝えてきた。
 瞑想ができない人を出来るように導くのが私の役目と心得てきたので、マールンキャプッタの毒矢の喩えは一つの指標だった。毒矢に射たれて苦しんでいるのだから、射手はどの部族の誰か、そのカーストは、その身長や肌の色は、弓の弦は腱か麻か、矢毒の成分は何か、矢の尾羽はどの鳥のものか……などの事実が明確にならないなら、矢を抜くのは止めてくれ、と言い張るのは愚かであろう。煩悩の毒矢に射たれて苦しんでいるのだから、何はともあれまず毒矢を抜くのだという発想……。 
 わずか10日間の瞑想合宿なのだ。肝心の瞑想ができない状態から出来る状態になるのであれば、明快な科学的説明がつかなくてもよいだろう。瞑想マキャベリズムで構わないと思っていた。


*慢の煩悩


 また、こうも付け加えた。
「ヴィパッサナー瞑想というものは、ネガティブな現象を消すことが目的ではないのはご存知ですね。この懺悔の瞑想をしても、症状が消えるかどうかは分かりません。何も変わらないかもしれない。しかし、たとえ苦しい状態は何ひとつ変わらなくても、過去世で犯したかもしれない自分の過ちを詫び、懺悔の瞑想ができる精神は立派なものです。
 自分が今世で犯した悪行すら認めず、謝ろうとしない輩が多いのです。本当に自分がやった証拠など何もないのに、犯したであろうと想定し、その過去世の不善業をお詫びするんですよ。慢の煩悩が強い者にはできる訳がないのです。たとえサティの瞑想が芳しくなくても、もしこの懺悔の瞑想ができれば、心の清浄道として立派な修行になるでしょう……云々」
 瞑想が暗礁に乗り上げて苦しみ抜き、下山しようかどうしようかと藁をもすがる想いでいるのだから、こんな風に言われると大概の人は、ともかく試してみようかということになる。
 「ボク、そんな怪しいことやるんなら、このまま瞑想ができなくても、苦しいままでいいです」と答えた人はいなかった。誰も大変なスケジュール調整をして、ようやっと合宿入りを果たした方々なのだ。
 こうして、膨大な検証事例が積み重ねられていった。


*業の構造


 瞑想以外には何ひとつやることのないリトリートである。苦境を脱したいモチベーションも明確である。懺悔の内容にのめり込むのも自然な流れで、実感が盛り上がってくれば情動脳にもスイッチが入るだろう。つまり集中がよくなり、情緒的にも昂揚してくるのだ。当然、痛みが消えるかもしれない、眠気が一掃され るかもしれない……という期待も高まるだろう。
 かくして、暗示効果の起きやすい条件が整ってくる。同時に、心のエネルギーが強く出力されカルマが作られる条件も整ってくる……。
 <カルマはチェータナ(意志)である>とブッダが定義しているように、強い意志が集中すれば強力なカルマが作られる。痛みが消えた!と強く念じれば、あるいはドロドロの眠気が雲散霧消する!と強烈に願えば、痛みも眠気も消える可能性がある。
 「願うことはすでに叶ったと信じなさい。そうすればその通りになるであろう」と言ったのは2000年前のイエスだが、引き寄せやさまざまな願望実現法は全て同じ構造である。 
 強い意志が現象生起力となって、未来の事象を形成する。「サンカーラ(行)」=「カルマ(業)」のシステムである。
 今世で作ったカルマが、今世で実を結び結果をもたらす。これを「現法受業」というが、痛みや眠気が劇的に消えたのは、即席の現法受業とも考えられる。
 暗示効果と解釈した場合でも、構造はほぼ同じである。痛みが、眠気が、消えるかもしれない……と強く期待することは、強い意志(チェータナー)が出力されているのと酷似している。
 願望実現のように、明確に自覚的に望ましい状態を願っている場合もあれば、無自覚に、しかし強く願い欲している場合も、チェータナー(意志)が出力されれば業は形成されると心得ておかなければならない。
 カルマ論を知らない多くの人々が無自覚に善業を作り、悪業を作っている。自覚がないので、その結果なぜ苦楽の経験をさせられるのか理解できず、ただ反射的に苦受の経験に腹を立てて怒り狂い、楽受に対して貪り求める反応を重ねてしまう。かくして新たな業が作られているのに、そのことにも気づかない無明の構造こそ人生苦の根本原因なのだ。
 現状をあるがままに正しく認識する瞑想が、無明の闇に一条の智慧の光を投射し、ドゥッカ(苦)を構造的に乗り超えていく第一歩となる所以である。


*相殺の思想


 さて、懺悔の瞑想の現場では何が起きていたのか、さらに分け入ってみよう。
 まず、痛みや異様な眠気が業の結果であるならば、痛みの原因は動物や人間の身体に危害を加えたであろう殺生戒を犯したことが疑われる。
 ドロドロの眠気に襲われて瞑想ができなくなるのは、妨害し、混乱させ、意識朦朧となって修行ができない状態に追い込んだ不善業を犯したのではないかと推測される。現在の状態を業論に基づいて要因分析をすれば、その原因が概ね推測できるだろう。
 さらにもう一歩踏み込めば、正反対の業のエネルギーを出力することによって、悪しき現状を改善することも可能となる。「業の相殺」と呼ばれる考え方だ。殺したなら命を救う。奪ったなら与える。罵ったなら、愛語を以て賞賛する……等々。
 ネガティブなエネルギーを出力して悪しき現象を招来させてしまったのだ。今度は、正反対の善なるエネルギーを出力して相殺するのである。

*業は変滅する……


 懺悔の瞑想をしてお詫びする。謝罪する。同じ過ちを繰り返さないと誓う。これからはダンマに基づいて徹頭徹尾、善をなす。慈悲の瞑想をする。慈悲の人になる……。
 と、心から悔い改めるエネルギーを放出すれば、殺生戒や聖者冒瀆の不善業エネルギーが相殺され、悪しき状態が好転することもあり得るだろう。
 つまり、懺悔効果の真の原因は、懺悔の意味内容に集中したチェータナ(意志)である。殺生や聖者冒瀆を痛切に懺悔する瞬間の、その想念の一つ一つが、過去に放ったエネルギーの正反対の方向に向かって、新しいカルマを作っているのである。
 清浄道論では、聖者誹謗は地獄へ堕ちるほどの重業だが、懺悔をすれば償うことができる。「……誹謗業は宥恕せらるるなり」と明言されている。さしづめBさんの事例はその具体例になるのかもしれない。古い悪業を新しい善業で打ち消すことができる、というのは希望が持てる話である。


*輪廻転生


 本気で懺悔をすれば必ずなんらかの効果がある。たとえ情動脳にスイッチが入らなくても、どんなに微かであれ心が振動すれば、その瞬間に、地水火風の物質エネルギーが動いてそのバランスを変化させてしまうのだ。
 心が生まれた瞬間、例えばホルモンなどの物質に生化学的反応が生じ、色法(Rupa:ルーパ:物質と肉体の変化プロセス)の物理世界にも瞬時に変滅のプロセスが始まってしまうのだ。そして死の瞬間にも、同じメカニズムが働いて輪廻転生が繰り返されてしまう……。
 死が近づきいよいよ死ぬ瞬間、その直前に「死近心」と呼ばれる反応系の心が最期の業を作りながら出力されていく。次の瞬間の受容系&入力系の心が新たな色法に生起し「結生識」と呼ばれて再生が成立していく。
 涅槃の力で生存欲が完全に絶え果てない限り、1ミリでも残存すれば自動的に再生のメカニズムが働いて輪廻転生が繰り返されていくのだ。
 再生する時に持っていけるのは業だけだ、とブッダは明言しているが、次に、過去世の宿業と懺悔の瞑想の関係を観ていこう。(以下次号)

Web会だより

『苦を乗り超える瞑想の検証』(2) 佐藤剛

(承前)

*気づきの深まりが浮き彫りにする苦の正体


 瞑想だけでなく日々行なっているジャーナリング(頭の中にあることや感情をひたすら紙に書き出す「書く瞑想」)も大いに内面の気づきを深めてくれた。生活や仕事に追われる中で様々な悩み・不安・不満が巻き起こるが、何について苦しいのか、何を思っているのかは、案外すぐ分からなくなる。仕事のプレッシャーがきついのか、それとも家族や同僚・上司からの評価を気にしているのか、部下から良い上司と言われたいのか、あるいは将来や老いが不安なのか・・・。
 何はともあれペンを持って白紙に臨むと、ぼやっとしていた内面の悩み苦しみがつらつらと書き出されて自分の外側に移動する。すると心の内側の重荷が降りて落ち着くだけでなく、客観的に整理したり苦しんでいることを自覚し直したりできるのだ。
 かくしてジャーナリングと瞑想によって気づきを深める日々が、徐々に苦の輪郭をはっきりさせていった。かつては漠然と苦しく生きづらいと感じていたが、とうとう自分の苦の正体が、幼少の頃より優秀で良い人でなければならない人生を作り上げたことであったと明らかになった。さらには優秀で良い人でありたい、そうでないと恐ろしい、どうにか幸せになりたい、という煩悩に基づいた「自我」が根深く存在し、絶え間なく苦を産み出し続けていることが浮き彫りになっていった。そうか、だから自分は苦しかったのか、そういうことだったのか……!?


*内観に飛び込んでみる


 ところが、苦の存在と原因が分かっても次に待っていたのは「分かったところで解決できない、今日もやっぱり苦しい」という冷酷な苦の続きであった・・・。改めて人生の苦にぐったりさせられていたそんな頃、瞑想会に参加し地橋先生に自我の問題を解決するにはどうすれば良いかと相談したところ、先生は「それなら内観です」と即答なさった。
 内観というものは外部との連絡を絶った個室に1週間こもって父母にしてもらったことなどを内省する合宿、という程度のことは知っていたが、「え・・・内観?ほんとに意味あるんですか?」と正直疑問を感じた。いやそれより1週間休みを作ることが面倒なので行かない言い訳を作りたいのだ、とすかさずサティが入る。
 やれやれこの怠け心の素早さよ・・・。しかし先生があれだけズバッと言い切るのだからまず間違いはなかろうし、この際修行になる事は何でもやってみよう、むしろ今行かなかったら一生行かないだろう、と観念した。そして瞑想会の帰りの電車の中ですぐ内観をネット検索し、「仕事の工面は後で考える!ためらうなかれ、エイヤッ!」と申し込みメールを送ってしまった。送ってすぐ後悔もしたが、それでも内観に飛び込んだこの「エイヤッ!」は私の人生におけるファインプレーであり、一つの転機となった。


*父の苦しみ、母の苦しみに気づく


 内観合宿でも案の定、怠け心が生じたり居眠りしたりもしたが、それでも1週間も籠もって続けていると徐々に内観が深まっていった。そしてある時、父や母が必ずしも悪い面だけではなかったことに気づく。また冷静に振り返ると膨大な時間とお金を注いで自分を育てていたことにも気づく。  そうやって感謝の気持ちが生じてからもなお内観を続けると、ある瞬間、父も母も自分と同じように苦しんでいたのではないか?自分を苦しめながらも、自分と変わらぬほど深く苦しんでいたのではないか?という驚愕の気づきが生じた。  そうだ、間違いない。戦後の貧しさの中で育ち、学校や会社では人と比較され、経済発展に沸き立つ社会に飲み込まれ、子供と家を持ってお金持ちになるのが正とされた人生。祖父母や親戚からもそういう価値観で見られ、その視線に苦しんだことだろう。そんな状況下では、父はしゃかりきに頑張って仕事をして一家を養うことで存在を示し、母は教育によって父や親戚や近所に自分の存在を示す生き方しか出来なかったのではなかろうか?自分が苦しい生き方を余儀なく選んでいったように、母も父もそれぞれ苦しい生き方を選ばされていた。そしてうまくいかぬ人生にもがきながら父は妻や子に肉体的な暴力を振るい、母は我が子の心を無視して教育という形での暴力を振るってしまった。それでも心は何一つ安まらなかったはずだ。そんな過去をもって生きている今も、老いながら自分の犯した業に苦しみ続けているだろう・・・。


*父と母を赦す


 こうしてみると父母の苦は、もはや生きた環境や時代背景から必然的に生じた苦であり、因果の流れに沿った不可避なものではないか。別に父や母が悪いわけではないのだ、父も母も望んで自分を苦しめたわけではないのだ・・・!そう気づいた時、私の中に「これ以上父母が苦しむことを望まない」という強い思いが自然と湧き起こった。さんざん私を苦しめ、こんな人生の源流である父と母ではあるが、その二人もそれぞれもっと上流から来る苦の流れに呑まれてもがいていた哀れで小さな命だったのだ。  かくして私の中に、父を赦そう、母を赦そう、という心が生じた。こう思うに至ったのは、内観に意義を感じて望んだ2度目の内観合宿の終盤だった。


*因果の流れでできあがっている自分


 そして同時に知る。私もまた父と母から生じた苦の流れ、因果の流れでできあがっている。私の苦しい今の人生は全く必然の結果であった、と。私はいつも怯え優秀なふりをして体裁を守っているが、実際はそうするしかなかった哀れで小さな命だったのだ。


*自分を赦す、そして生じた諦観


 私は因果の流れに揉みくちゃにされながらもがいている哀れで小さな命。何ら自立してもいない。何ら優秀でもない。いつも心の中に欲や怒りや慢心といった不善心が生じていて、いつも苦が存在していて、感情も思考も思い通りにできない。私はそんな私の正体を赦すようになった。そして「なんだ、自分とは、人生とはこういうものか」という諦めにも似た心境で事実を受容するようになった。かつて地橋先生が「自分を知ってがっかりする」と仰っていたが、それがこれか。・・・「諦観」。いやそれは自分だけでなく人というもの全てに関する「諦観」だった。


*諦観から生じる安心


 しかしその諦観はどこか安心感もあった。自分が苦しんでいたことや原因がようやく分かったという安心、苦しかったのは至って自然であると理解された安心だ。そして今はこうやって不善心を抱え難渋しながらも瞑想を続けていけば、それで充分であり、人生はこれで良いのだ、生きているだけで充分なのだと分かって安心したのだ。


*安心から生じる慈悲


 また自分の苦と不善心の正体を知ると、人も同じように苦しんでいるのだ、皆辛いのだと理解され、慈悲の念も自然に湧いてくるのだった。私を苦しめた両親も、妻も友人も、会社の人や社長も、世の中も、みんな自分と同じように苦の中でもがいている。恐れ、焦り、貪りながら幸せになりたいともがいている。その様が見えるようになり「ああ苦しかろうに、さぞや苦しかろうに」と心が痛むようになった。
 幸い自分は瞑想とジャーナリングと内観によって気づきを深め、苦を知ることで、いくらか楽になることができた。今度は周囲の人達にも心の安らぎをもたらしてあげたい。しかし苦は人の内面深くに根付いていて、本人が苦に気づき手放していくのを見守るしかない。そういう新たな苦に向き合い、ただその人達の隣で「気づき」を深める生き方を示すのが、自分の慈悲の施だと思うようになった。


*そして安寧の始まり


 かつては我が身のための「利己的な利他」で狡猾に動いていたが、今は本質的な同機が違う。ただ淡々とニュートラルな感情を保ったまま、物事がうまくいき、皆が楽になりますように・・・と願いながら思考し行動するように変わってきた。物事がうまくいかなくても「ああそういうものか。仕方がない。では、次のことをやろう」と淡々と受け入れ手放すことができるようになってきた。多忙で暴風雨のような人々の中でも、ひとり無風地帯にいるような、あるいはガラス越しに眺めているような感覚でいられることが増えてきた。  体裁を取り繕ったり、優秀であることで自我を保とうとしていた自分は居なくなりつつある。良い生活や娯楽で憂さ晴らししていた日々は去りつつある。もはやどこかに行かなくても、何を得なくても、何を為さなくても、ただ生きて、ただ死んでいけばいい。そんな充足感が時折湧いてくるようになってきた。なるほど、このようにして生きることも死ぬことも苦ではなくなっていくのか・・・。  今なお忙しさや欲や不安に呑まれる日の方が多いが、それも日に日に薄れていくのだろう。そのことが分かってきたので焦らない。今はただブッダの教え、地橋先生のご指導に沿って淡々と瞑想実践を積むのみ。いつかこの苦がすっかり消え失せ、智慧と慈悲がこの心身から溢れ出し、その恩恵が私の周囲の人に及ぶ日まで。(完)

サンガの言葉

覚りの道への出発 2022年6月号

本年1月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話を掲載しています。今月はその第6回目です。

 覚りの道への出発

7.サマタ瞑想
 サマタ瞑想においては、例えば息の出入りを心を制御するための土台ないし方法として気づきの実践を確立します。息の流れに心を付き従わせることで心は安定し、落ち着き、静まります。心を落ち着かせるこの修行はサマタ瞑想と呼ばれます。心は多くの障害に満ちているのでこのような修行を数多く行う必要があります。心はとても混乱しているのです。計り知れない長い年月、多くの生涯に渡り、心は混乱した状態を続けてきたのです。坐って瞑想すれば、実に多くの事柄が平穏と冷静さかき乱し、混乱へと導くことがわかります。
 そのため、ブッダは私たちそれぞれの傾向に適した瞑想対象と、性格に見合った修行方法を探さなければならないと教えられました。たとえば身体の部分――頭髪、体毛、爪、歯、皮膚――を対象とし、くり返し瞑想することで落ち着くことが出来ます。この修行により心はとても安らかなものとなります。
 この五つの身体部分について瞑想することで落ち着くことができたなら、それは私たちの傾向に適った対象であったということになります。このようにして、適切であると感じたものは何であれ修行の対象と考えて、煩悩から遠ざかるための方法として修行に用いることができます。

 死を思い浮かべるやり方もあります。いまだ食欲、嫌悪、妄想がひどく、これらを押さえるのが困難な修行者には、自分の死を瞑想対象とすることが役立ちます。富めるものも貧しいものもすべての人間は死ななければならないとわかるようになります。良い人間も悪い人間も死ぬのだとわかるようになるのです。人間は誰でも必ず死にます。この修行が進むと、感情に動かされることがなくなります。修行すればするほど坐禅で容易に平静さを得ることができるようになります。なぜならそれがこの瞑想者にふさわしい修行であるからです。もしサマタ瞑想実践が修行者の特性に合っていなければ冷静さは現れないでしょう。瞑想対象が修行者に相応しいものであれば冷静さが難なく、恒常的に現れるようになるでしょう。そして瞑想対象を頻繁に思い起こすことになるでしょう。
 これに関しては日常生活の中にも例をみることができます。在家の人々が様々な食べ物を持ち寄り比丘にお布施します。比丘は布施された食べ物すべてを味見します。それぞれの食べ物を試食してみると、自分の身体に最も適している食べ物がわかります。これはほんの1例です。自分の味覚に合っていると思った食べ物を口にします。最も自分に相応しい食べ物を見つけることで他の料理に煩わされることはなくなります。

 息の出入りに注意を集中させる修行は、すべての人に適した瞑想の一例といえます。色々な修行を試しても、あまり良い気分になれないかもしれません。ところが坐って呼吸に集中するや否や気分が良くなるのがわかります。息の出入りを明瞭にみてとることが出来ます。遠くを見る必要はありません。呼吸のような身近なものを用いればよく、その方が私たちにとっては都合が良いでしょう。ただ息を見つめて下さい。息が出て、入ります。出て、入って。息をこのように観察するのです。長時間、呼吸の出入りを観察し続けると、次第に心が落ち着いてきます。呼吸以外の動きが起こってもそれがどこか遠くにあるように感じます。人が離れて暮らすともはや互いにあまり親近感を感じなくなるようなものです。以前のような親密な交流を持つことはなくなり、あるいはまったく交流がなくなるかもしれません。

 呼吸に気づく瞑想実践を好ましいものと思えるようになれば、それはより容易になります。この実践を続けて、経験を積めば呼吸の性質を知ることに熟達するようになります。息が長い時にそれがどのようなものであるか、そして息が短い時もそれがどのようなものであるかがわかります。
 一つの見方として呼吸を食物とみなすことも出来ます。坐っていても、歩いていても、私たちは呼吸をします。寝ていても、起きていても呼吸します。呼吸しなければ死んでしまいます。呼吸の事を考えることで、食べ物がなければ生けていけないことにも考えがおよびます。10分間、1時間、あるいは1日食事をとらなかったとしてもどうということはありません。食べ物についてはこんなものなのです。しかしほんの短い時間でも息をしなければ死んでしまいます。5分、あるいは10分息をしなければ死んでしまうでしょう。どうぞ試してみて下さい。
 呼吸についての気づきを実践する者はこのように理解しなくてはなりません。この修行実践から生じる知識は実際すばらしいものです。瞑想しなければ呼吸を食物のように見ることはありませんが、実際には、始終空気を「食べて」いるのです。いつでも吸って吐いて、吸って吐いて。このように瞑想すればするほど修行から得る恩恵は増し、呼吸がより微細になることがわかるでしょう。呼吸が止まることすらあるかもしれません。まったく呼吸していないように見えるのです。実際は皮膚の穴を通して呼吸が行われています。これは「微細な呼吸」と呼ばれます。心が完全に静まると、通常の呼吸はこのように止まってしまいます。でも恐れる必要はありません。呼吸が止まってしまったら、ただそれを知れば良いのです。呼吸が止まったことを知る、ただそれだけです。それが正しい実践の方法です。

 ここではサマタ瞑想実践の方法、落ち着きを育てる修行についてお話しています。用いている瞑想対象が適切なものであれば、上で述べたような経験をすることになります。これは初歩ですが、この瞑想実践には私たちをこの先ずっと導いてくれるものが十分備わっています。少なくとも明確に観察し、強い信念のもとに修行を続けるところまで私たちを導いてくれます。このように瞑想し続ければエネルギーが湧いてくるでしょう。これは甕の水に良く似ています。永を継ぎ足していつも甕に水が一杯になるようにしておきます。いつも甕を水で満たすようにし続けますが、それにより水中に住む昆虫が死なずにすむのです。私たちが努力し、毎日実践するのもこれとまったく同じです。すべてが修行実践へと立ち戻るのです。このことでとても気分が良くなり、心の平穏を感じます。
 この平穏は一点に向かって研ぎすまされた心の集中状態から生まれます。しかしこの一点に向かった心の状態は大きな問題ともなりえます。なぜなら他の心の状態に煩わされるのを嫌うからです。他の心の状態は確実に現れますが、実は良く考えればそれ自体が一点に向かった心の状態になり得ます。それは私たちが世間で様々な男女を見る時のようなものです。実際、男は皆父親と同じ男性であり、女は皆母親と同じ女性です。しかし私たちは同じだとは思いません。両親をより大事な存在だと感じます。両親は私たちにとってより大事なものであるとの思いを抱きます。
 心を一点に集中するときもこのようでなければなりません。両親に対して持つのと同じ態度を集中の対象に向けるべきです。しかし両親以外の一般の男女に対するのと同じように、生じてくる他のすべての心の動きを認織し、観察することをやめないようにします。ただし単にそれらの存在を認めるだけで、両親に抱くような価値を置くことはしません。(続く)