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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『懺懺悔物語 ④ -懺悔効果の解明-』

★なぜ、懺悔をしたら痛みや眠気の現象が突然消えたのだろうか。

 設問①「懺悔と現象の因果関係」を考察していこう。
 この種のことが起きるときのポイントは、真剣であること、強い実感のこもった想念が発信されていることの2点である。ヘラヘラした言葉だけの懺悔がめざましい成果を上げた実例はない。「想念の集中」プラス「情動的昂揚」が欠かせない必要条件なのである。
 医学的な説明としては、喜怒哀楽を司る情動脳(大脳辺縁系)が強く働くときに身体現象に大きな変化が生じることが知られている。ストレスで胃に穴があく。恥ずかしいと顔が赤くなるし、緊張すると口の中がカラカラに乾く。怒れば血が沸騰し、好きな人の顔を見れば快感ホルモンが分泌される。このように喜怒哀楽の感情が振動すると、強烈に生体エネルギーの流れが一定方向に押しやられるのである。
 「懺悔効果」が起きるメカニズムを整理すると、
 ①真剣な涙ながらの懺悔をすると、情動脳(大脳辺縁系)にスイッチが入る。
 ②すると情動脳とリンクしている視床下部が、自律神経やホルモン系に指令を発する。
 ③血流量や血液成分比の変化、各種ホルモンの分泌など諸々の変動が、調和的に生体秩序を整え好転させる。
 ④痛みや頭痛、眠気などが緩和し、時に劇的に消失する……。


*心身一如



 本気モードで気分を出せば、肉体に変化が生じるのは心身医学の常識である。人間は心と体が相関し合った統合体であり、病気になるのも健康なのも、どのような体調や体のコンディションにも心理的要因が皆無であろうはずはない。
 骨折や外傷の物理的なアクシデントも、それを惹き起こした引き金はストレスや失恋、心に重圧をかける心配事や上の空になる気がかりなど、精神の乱れが関与していたであろう。
 極限状況に陥った兵士が一夜にして白髪になることもある。疲弊しきったリタイア寸前のマラソン選手が角を曲がり陸橋を過ぎた途端、拍手と大歓声に包まれるや信じがたいスパートをかける……。


*怒りと葛藤の引き算


 心と体の相関関係は当たり前のことだが、懺悔が体調を悪化させるのではなく、好転させる方向に作用するのはなぜだろう。
 怒りや怨みが身体にネガティブな影響を及ぼすのはよく知られている。破壊のエネルギーである怒りは、蛇毒に次ぐ猛毒とも言われる怒りホルモンを全身に巡らせ、病気や怪我、痛みの主たる原因になっている。怒りは、心を壊し、体を壊し、関係を壊し、情況を壊し、あらゆるものを破壊していく根本エネルギーである。
 後悔はその怒り系の心所に分類されているが、懺悔はどうなのだろうか。
 後悔と懺悔は紙一重の印象だが、後悔は自らの失敗や愚行に腹を立て、否定する心である。なぜ、あんなバカなことをしてしまったのか……と怒りの矛先を自らに向け、怒り、自己否定をしているのだ。
 あるいは、なぜ助けてやらなかったのか、介護しなかったのか、与えなかったのか、優しくしなかったのか……と、やるべき善行や義務を果たさなかった自分を否定し腹を立てている不善心の状態である。

 一方、懺悔の特徴は謝罪である。己の愚かさや過ちに腹を立てるのではなく、自らの咎を認めて謝りたい、申し訳なかった、と当事者に赦しを乞うのである。自らの非を自覚するのは後悔も懺悔も同じだが、後悔は自らに腹を立て、怒りのエネルギーが自虐的に放たれている。
 しかるに懺悔には、相手に対しても自分に対しても怒りを出力してはいない。自分がかけた迷惑で苦しんだ他者の心事を慮ってお詫びする方向に意識が向いている。
 後悔は自らの所業に腹を立て、過去を否定するエネルギーに囚われているが、懺悔はネガティブな過去を受け容れ、反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓って未来志向に切り換わっているのだ。


 懺悔ができる心に、怒りはない。怒りは「対象を否定する心」と定義されるが、怒りが無ければ葛藤もなくなるだろう。自らの過ちや落ち度を認め、相手にお詫びできる精神には必死で自己正当化しようとする矛盾がない。
 本当はこちらに非があるのを直感しながら、その本心を無理やり抑圧している引き裂かれた心が問題なのだ。この怒りと葛藤の不在が癒し効果に直結しているのではないかと思われる。

*モーガンの公準


 懺悔をしたら惛沈睡眠や痛みの現象が消失したのは確かなことである。私自身がインストラクターとして一部始終を目の当たりにしている。だが、そのメカニズムや因果関係を考察するにあたって、いわゆるモーガンの公準を念頭に置くべきだろう。
 モーガンの公準とは、「原始的な能力でシンプルに説明できることを、高次な能力によるものと解釈し高等な説明をしてはならない」というものだ。
 例えば、潜在意識から浮上したアイデアと解釈できることに対し、背後霊からの霊的メッセージではないか、などと真っ先にスピリチュアルな解釈を当てはめてみたりするのは慎むべきだということである。

*暗示効果


 すでに紹介したAさんとBさんには鮮やかな懺悔効果が見られたが、モーガンの公準に従うなら、二人は前世の記憶を思い出したのだろうか?と問う前に、暗示効果の可能性を検討すべきだろう。
 そもそも瞑想合宿の最中というのは、暗示効果が起きやすい条件が整っているのである。列挙してみると、
 ①サティの瞑想では、思索や考察など一切の考え事が禁じられている。
 ②一日中沈黙行に徹し、サティを入れ続ける日々が続く。
 ③一切の情報収集が遮断され、唯一インストラクターによるダンマトークと面接時にのみ、瞑想と仏教思想に関する情報が得られる。
 ④瞑想者はインストラクターに信頼感を寄せて合宿入りし、基本的にその信頼感は強まっていく傾向にある。
 ⑤この情況下で、瞑想者が切実な痛みや眠気など深刻な問題を抱えた場合、信頼するインストラクターのアドバイスは、乾いた砂が水を吸うように心に浸透しやすくなる。
 ⑥法話や面接で過去世に言及されれば、たまたま浮上したイメージを過去世の印象ではないかと思い込みや錯覚が生じやすい。

 禅の接心でも、沈黙行を厳しく守り昼夜を通して座禅に専念するし、「提唱」と呼ばれる老師の法話と「独参」と呼ばれる面接も、ヴィパッサナー瞑想のリトリートと酷似している。
 禅や瞑想の修行に限らず、親子関係の躾けや教育全般の教師と生徒の関係にも暗示にかかりやすい条件は整っていると言える。個人の資質によっても、被暗示性の強いタイプと暗示にかかりにくいタイプがいる。瞑想合宿の特殊な環境では、通常よりも被暗示性が強まるので劇的な懺悔効果の現象が生起しやすくなるのは自然なことだろう。
 となると、過去世の記憶云々よりも暗示効果ではないかと解釈するのは的を得ているし、その可能性は大である。

 ちなみに、暗示効果が悪用されるとマインドコントロールの由々しい問題が生じてくる。詐欺商法、カルト宗教、過激な政治組織……などさまざまな分野で意図的にマインドコントロールが企てられている。
 ヴィパッサナー瞑想では、悪を避け、善をなすことが強調されており、倫理的な方向性が厳しく示されているので問題ないが、主催者が邪悪なカルト教団だったなら、マインドコントロールや洗脳がなされて危険な思想を鼓吹されたテロリストが養成されかねないだろう。

*プラシーボ(偽薬)効果


 痛みや眠気などのネガティブな症状が劇的に消失したのは、既に見たように、心身医学のメカニズムで説明することができる。病状に劇的な変化を及ぼす心理的要因と暗示効果は、いずれも人間本来の自然治癒力にスイッチを入れる同じメカニズムではないかと考えられる。
 偽薬の服用で症状が改善したと感じる「プラシーボ(偽薬)効果」も、暗示効果をさらに強化する装置と言ってよいだろう。例えば、同じ偽薬でも1錠10セントの薬と説明された時よりも、1錠2ドルの新薬と説明された方が痛みの軽減効果が大きいという。高価な薬の方が良く効くだろうという思い込みの力が物を言うのだ。
 プラシーボ効果とは逆に、無害な偽薬を有害だと思い込めば実際に病気になる「ノーシーボ効果(反偽薬効果)」もある。処方された薬に「副作用がある」と妄想すれば実際に副作用が起きてしまうのだ。症状の改善も悪化も、人体に劇的な変化を及ぼす思い込みの力の証左である。

*二重盲検法


 こうした心理的要因をできるだけ排除して、純粋に薬理的、物理的なメカニズムの解明を目指すのが自然科学の基本的傾向である。例えば、プラシーボ効果を明確にするための「二重盲検法」などは面目躍如たるものがある。
 これは、暗示作用などの心理的影響を排除して、新薬の純粋な薬理的効果を評価するための検定法である。被検者を2つのグループに分け、一方のグループには本物の薬を、他方のグループには外見や味が本物そっくりの偽薬を与え、その際どちらの被検者も投薬する医師も誰もどの薬が投与されたか分からないようにして結果を判定するのである。
 「二重盲検法」は、ものごとを純粋な物理的法則や化学的変化のプロセスとして捉えようとする優れた科学的技法である。同時にそれは、暗示などの心理的要因がいかに強力な変化や影響を及ぼすか量りしれないことを物語っている。

 ルネッサンス以降のヨーロッパの科学的志向は、妄想と迷信だらけだった中世の暗黒時代に対する反動だった。近代科学の頂点でもあるニュートン力学までは、人の心理や意識から完全に切り離された物理法則の数学的な美しさを賛美できた。
 しかし物理法則の究極である量子論の極微の世界が観測されるようになると、素粒子の物理的現象世界と観測者の意識の影響が切り離せない不可分のものであることが知られてきた。
 つまり物質的存在の根源では、物理的現象と純粋な心理的現象とが融合して展開している可能性を示唆している。

 かつてサマーディの力で水虫を治したことのある私にとって、心が身体現象を劇的に変化させるのは自明なことであった。謎だったのは、なぜ、どのようなメカニズムで、心の力が外界の事象を動かし、業が形成されていくのか、だった。
 懺悔の修行が心身一如の身体現象に影響を及ぼすのは当然のことだが、業論のメカニズムとどのような関連性があるのか、さらに分け入ってみたい。(以下次号)

Web会だより

『苦を乗り越える瞑想の検証』 (1) 佐藤剛

*気づけば生きているのがずっと苦しかった


 なぜだか分からないけれど毎日がずっと苦しく、生きているのが辛かった。いや、そう自覚することさえないままにずっと苦しんでいた。優秀になろうと勉強したり、良い生活や結婚を急いだり、家族にも友人にも会社にも体裁を取り繕ったり・・・。
 いつから生きることが苦しくなったのだろう? 40歳を過ぎた今、ようやく考えるようになった。
 振り返ってみると30代の頃は特に苦しんでいたと思い出される。その始まりは社会人になった頃か?いや大学生や高校生の頃も色々あったじゃないか、と思い返すうちにあれよあれよと幼少期まで遡ってしまった。そんな小さな頃から生きるのが辛いと感じていたことに気づき、今さら驚く。一体自分の人生に何が起きているのだろう?どうしてこんなことになったのだろう?人生って幸せなものじゃなかったのか・・・?

*いつの間にかできあがっていた生き方


 思えば幼い頃から我が家は荒れていた。毎日のように両親は大喧嘩し、食器が飛ぶこともしばしばあった。父親は母や兄や自分に暴力も振るった。恐ろしくて、父が帰ってくると逃げ隠れするようになった。
 幼い頃の母は優しかったが、荒れた心のはけ口か、或いは学歴が無かったという深いコンプレックスを晴らすためか、小学校に入った辺りから自分にとても強引な教育をするようになっていった。鬼気迫るように勉強をさせる母がいつからか怖くなり、顔が見られなくなった。
 荒れている家庭の中で兄からも辛く当たられるようになり、居場所がなかった。恐怖と孤独を感じながら過ごしていた私は、子供ながらに何度も家出しようか、何度も自殺しようかと考えていた。
 いつしか身を守るため、また愛情を惹くために、都合の良い優秀な子になるという生き方をするようになっていた。実に狡猾だった。必然的に成績優秀となり、まるで漫画に出てくる優等生のように、学校のテストでは100点しか取ったことがなかった。だがその優秀さを盾に身を守っているようで、その優秀さが檻となって自分を苦しめていた。
 100点以下を取ることは、存在を保てないことと同義になってしまったのだ。100点しか取れなくなってしまった。人より優秀でなければ暴力と孤独が待っているという世界になってしまっていた。更には、人の役に立てるよう優秀になることが大切だという嘘の論理ができあがっていった。それは弱い生き物が必死で身につけた生き方であったが、それが自分自身を苦しめ続けるなどとどうして予見できただろう?いや予見していたところで一体どうしろと言うのだ?仕方なかったじゃないか……。

*苦しみに気がつかないまま苦しんでいた


 社会人になっても、結婚しても転職しても、管理職になって活躍していても、ずっと苦しかった。だが苦しいという自覚さえもなく、ひたすら勉強し優秀なふりをし、仕事に躍起になり、もっと社会を良くすれば自分も満たされるのだと信じて心身を壊しながら過ごしていた。
 そうしてようやく苦しい、生きづらいと自覚しはじめるようになった。スポーツに入れ込んでみたが、成果や体裁に追われているようで一向に楽にならなかった。酒や娯楽にも逃げ込んだが、来る日も来る日も渇き続けやはり何も変わらない。漠然とした正体のつかめない苦しみが相変わらず続いていた。
 ようやく30代半ばを過ぎた頃に、「何かが根本的に、そう、根本的におかしい」と感付き始めた。問題は外ではなく、自分の内側にこそあるのではないか・・・?という気づきが始まった。

*苦の終わりの始まり


 「自分の心の中の問題」、ということにはじめて意識が向くようになったある時、まるで惹きつけられるように瞑想の入門書を手に取って、なんとなく始めるようになっていた。1年ほど我流で続けるうちに「瞑想は何か意味がある、ちゃんと学びに行きたい、生き方を知りたい」と思うようになった。
 そうして改めて瞑想の教えを探しているうちに地橋先生の著書、ヴィパッサナー瞑想、そしてブッダの教えにたどり着いたのはなんとも自然な導きだった。ここに確固たるものを感じ、これぞ歩むべきといえる道の端にようやくたどり着けたのだった。そしてようやく「苦の終わりが始まった」のだ。

*右往左往?


 とはいえ、瞑想実践の道は真っ直ぐでは決してないものだった。
 すぐに瞑想の仕方に迷いが生じ、瞑想やブッダの教えに関する本に手を伸ばすようになる。しかしブッダの教えは深遠ながらも決して長大ではないので、何冊か当たればじきに一つの教えに収束して「本はもういいや」となる。今度は、やっぱり体験的な理解こそ大切だと認識し直して瞑想実践に臨んだり瞑想会に参加したりするが、しばらく続けるとやはり疑念や迷いが生じ、学び直したくなる。この繰り返しだった。一見、瞑想実践と本による教学の間で右往左往しているだけではと不安になる瞬間もあった。
 さらには、「真摯に瞑想に励んでいる殊勝な人物」になったのかといえば、残念ながらそうはならなかった。瞑想をやっていることが真面目な人間であるかのようで、それを人に吹聴したくなったりする。そして忙しく騒がしい世の中の風潮や、うまくいかぬ社会や貪瞋痴でできた宗教に対して失望や嘲りの心が生じることを、今度はそれをサティが捉えて見過ごさない。苦に向き合うための瞑想なのに、新たに慢心が生じ心が乱れ汚れるという、それが自分の実際だった。
 それどころか、日常のあらゆる場面で欲、苛立ち、慢心が巻き起っている 我が人生の実態に気づいていき、瞑想を始める前より今の方が辛いと感じる瞬間さえあった。

*感覚の観察の日々、時折進む苦の理解


 それでも瞑想を続け、日々自分の内面に気づきながら過ごしていると、日常のあらゆる場面において痛いとか熱い寒いといった「感覚」と、嫌だとか恐ろしいといったような「反応」が瞬時に起きていることが徐々に分かってきた。人生の悩みや不安についてさえ、何らかのイメージ=感覚と、不安や恐れといった感情=反応が生じていて、瞬時かつ連鎖的に起きているが厳密にはそれらは違うことが分かってくる。そうすると、感覚が生じた時ではなく、反応してあれこれ感情や妄想が動いたときこそが苦しいのだと特定され、さらには、いたずらな反応さえしなければ、周囲の物事が不快でも、世の中や人生が満たされていなくても、ただちに苦になるわけではないのだと理解されてくる。
 それなら、不運な家庭に生まれても、身近に不快な人が居ても、仕事が山積みになっていても、体に不調があっても、生活費の残高や老後資金の数字が目に入っても、いたずらに反応しさえしなければただの事実として傍観するように受け入れ認める余地があるのではないか……?
 こうして、何の意味があって歩く瞑想やら呼吸の瞑想で感覚の観察をやっているのだろうと思う日々の中で、希にほんの一瞬だけ「この為か!?」と予感めいたものが走る。

*曲がりくねった一本道


 こんなふうにして、苦は反応から始まるという教えの意味が我が身のこととして体験され、智慧が一気に深まる瞬間が時々あった。また気づきや智慧を自分なりに感じた後にブッダの教えを学び直すと、その深い教えが自分が感付いたことを整理し後押ししてくれるようだった。
 そして瞑想と智慧の深まりを時折体感すると、右往左往しているのではなく、蛇行してはいるが確かな一本道を地道に歩んでいるのだと理解された。1年過ぎ、2年過ぎ、徐々にではあるのだが、焦らずに結果がやってくるまでただ瞑想していれば良い、と思えるようになっていった。瞑想を習い始めた頃、地橋先生に「まあ、そう難しいことは考えないで、ただ瞑想に臨みなさい」という趣旨の事を諭されたことがあったが、今こそその意味が明らかになっていく。(つづく)

サンガの言葉

覚りの道への出発 2022年5月号

 2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話(悟りの道への出発)を掲載しています。今月はその第5回目です。

6.洞察瞑想(ヴィパッサナー:vipassanā)
 皆さんに信があるなら理論を学んだかどうかはそれほど重要ではありません。信心により瞑想実践が進展し、精進と忍耐を持ち続けることができるならば理論を学ぶことは大切なことではありません。
 瞑想実践の礎となるのは気づきです。坐っていても、立っていても、歩いていても、寝ていても、いつも姿勢に気づくようにします。そして気づきがあるところには明確な理解が生まれます。気づきと明確な理解は同時に生じます。瞬時に生じるため両者を区別することはできません。しかし気づきがあればいつも明確な理解が現れます。

 心が揺るがず、安定していれば気づきはすぐさま、容易に生じます。同時に智慧も現れます。しかし智慧が不十分であったり、適当な時に現れないこともあります。気づきと明確な理解が生じたとしてもそれだけでは状況をコントロールするのには十分ではありません。一般的には、心の土台に気づきと明確な理解があれば、そこに智慧が現れて補います。

 しかし智慧は洞察瞑想を通して、常に育てていかなくてはなりません。心に浮かんだものは何であれ気づきと明確な理解の対象にできるのです。ただし物事は無常(anicca)、苦(dukha)、無我(anatta)に基づいて観察しなければなりません。基本は無常です。苦とは満たされることがない性質のことです。そして無我とは物事に実体がないことを意味します。

 感覚が生じたら、ただ感覚があるとみるだけにします。感覚を自分自身と同一視したり、実体があるものとみなしたりしないようにします。そして生じた感覚が自ら消え去るのをただ観察します。ただそれだけです。心が汚れた者、智慧の無い者はこの機会を逃してしまいます。感覚という現象を心の向上のために使うことができません。
 智慧があれば、気づきと明確な理解も同時に生じています。

 しかし初期のこの段階においては、智慧はまだ十分に洗練されていない可能性があります。その場合は、気づきと明確な理解があっても、すべての対象を捉えることができないのです。しかし、智慧が現れて助けの手を差し伸べます。智慧により気づきの質がどの程度か、生じた感覚がどのようなものかを見極めることができます。あるいはおおざっぱな見方をすれば、どのような気づき、どのような感覚もすべてが法(Dhamma)であるといえます。

 ブッダは洞察瞑想を礎として修行されました。ブッダは気づきも明確な理解も不確実で不安定であると見ました。不安定なものは何であれ、それが安定したものであって欲しいと願う私たちに苦をもたらします。私たちは物事が思い通りであってほしいと願いますが、現実にはそうならないために苦しまなければならなくなります。これが清らかでない心、智慧を欠く心がもたらす影響です。

 修行実践する時も、私たちはそれが簡単であってほしいと願う傾向があります。好ましい方法であってほしいと思うのです。このような態度を理解するのにわざわざ遠くまで出向く必要はありません。ただ自分の身体を見れば良いのです。
 身体が私たちの望む通りになったことがあるでしょうか。ある時は身体がこのようになって欲しいと願い、また別の時はあのようになってほしいと願います。身体が願い通りになったことが一度でもあるでしょうか。この点では身体と心はまったく同じ性質を持っています。身体や心の性質はただ然るべき姿のままに存在しているだけです。

 修行実践ではこの点が見のがされやすいのです。通常、感じたものがなんであれ、気に入らなければそれを捨て去ります。楽しくないものはなんであれ捨ててしまいます。好き嫌いをすることが正しいかどうか考えなくなります。好ましくないことは間違いで、好ましいことは正しいと単純に思い込みます。
 ここから貪りが生じます。眼、耳、鼻、舌、身、意を通して刺激を受け取ると、そこに好き嫌いの感情が生まれます。これにより心は執着で満たされているとわかります。
 それ故ブッダは無常の教えを説かれました。ブッダは物事を注意深く観察する方法を教えられました。永遠ではないものにしがみつこうとすると、苦しみを味わうことになります。

 好き嫌いに合わせて物事を求めなければならない理由はどこにもありません。物事を自分の感情に合わせようとしてもそれは不可能です。私たちにはそんな権限も力もありません。物事がこうあって欲しいといくら願っても、物事はすべてあるがままになるだけです。自分の好きなように望むことは苦しみから離れる道ではありません。
 汚れた心と、汚れのない心の理解の仕方は違うということがここでわかります。例えば智慧のある心がある感覚を受け取ると、心はその感覚についてしがみついたり自分と同一視したりすべきものではないと見なします。智慧はこのように示されるものです。智慧がなければ単に自分の無知(痴)に従うだけとなります。無常、苦、無我を見ないという無知(痴)です。好きなものを良いもの、正しいものとみなし、嫌いなものを良くないものとみなします。このようなやり方では法(Dhamma)に触れることはできません。智慧は現れません。
 しかし、このような有り様を見据えれば智慧が生じます。

 ブッダは心の内で洞察瞑想の実践を確固たるものとしました。そして洞察瞑想によりあらゆる精神的印象を探究しました。心にどのようなものが生じてもブッダは次のように探究されたのです。心に現れたものを好ましいと思ってもそれは確実なものではない、対象を好ましいと思ってもそれは絶えず生滅し、心の作用に従わないから苦しみであると。
 対象は実在するものでも、自分自身でもなく、自分のものでもありません。ブッダは物事をただあるがままに見るようにと教えられました。修行においてはこの原則を拠り所とします。

 次に、自分の感情を望み通りに生じさせることは出来ないことを理解します。良い気分も悪い気分も現れます。役に立つものもあれば、役に立たないものもあります。正しい理解がなければ、正しい判断を下すことはできません。むしろ貪りを追い求め、欲に従って道をそれてしまうことになるでしょう。
 時には幸せと感じ、またある時には悲しいと感じますがこれがありのままの姿なのです。喜びを感じることもあれば失望する時もあります。好きなものを良いもの、嫌いなものを悪いものと思い込みます。このようにして私たちは法(Dhamma)からはるか彼方へと達ざかってしまうのです。このような状況になると、法(Dhamma)を認識することができなくなり混乱します。心は汚れそのものとなり、欲が増すことになります。

 心について語る時はこのようにします。正しい理解を求めて自分自身から遠く離れたところへ赴く必要はありません。心の状態が永遠に続くわけではないとただ観察するだけです。心の状態は満足できるものではなく、永遠に変わらない自己ではないとみます。修行をこのように進めていくならば、それがヴィパッサナーあるいは洞察瞑想の実践となります。それは心の内容を理解することであり、そうやって私たちは智慧を開発するのです。(続く)