★なぜ、懺悔をしたら痛みや眠気の現象が突然消えたのだろうか。
設問①「懺悔と現象の因果関係」を考察していこう。
この種のことが起きるときのポイントは、真剣であること、強い実感のこもった想念が発信されていることの2点である。ヘラヘラした言葉だけの懺悔がめざましい成果を上げた実例はない。「想念の集中」プラス「情動的昂揚」が欠かせない必要条件なのである。
医学的な説明としては、喜怒哀楽を司る情動脳(大脳辺縁系)が強く働くときに身体現象に大きな変化が生じることが知られている。ストレスで胃に穴があく。恥ずかしいと顔が赤くなるし、緊張すると口の中がカラカラに乾く。怒れば血が沸騰し、好きな人の顔を見れば快感ホルモンが分泌される。このように喜怒哀楽の感情が振動すると、強烈に生体エネルギーの流れが一定方向に押しやられるのである。
「懺悔効果」が起きるメカニズムを整理すると、
①真剣な涙ながらの懺悔をすると、情動脳(大脳辺縁系)にスイッチが入る。
②すると情動脳とリンクしている視床下部が、自律神経やホルモン系に指令を発する。
③血流量や血液成分比の変化、各種ホルモンの分泌など諸々の変動が、調和的に生体秩序を整え好転させる。
④痛みや頭痛、眠気などが緩和し、時に劇的に消失する……。
*心身一如
本気モードで気分を出せば、肉体に変化が生じるのは心身医学の常識である。人間は心と体が相関し合った統合体であり、病気になるのも健康なのも、どのような体調や体のコンディションにも心理的要因が皆無であろうはずはない。
骨折や外傷の物理的なアクシデントも、それを惹き起こした引き金はストレスや失恋、心に重圧をかける心配事や上の空になる気がかりなど、精神の乱れが関与していたであろう。
極限状況に陥った兵士が一夜にして白髪になることもある。疲弊しきったリタイア寸前のマラソン選手が角を曲がり陸橋を過ぎた途端、拍手と大歓声に包まれるや信じがたいスパートをかける……。
*怒りと葛藤の引き算
心と体の相関関係は当たり前のことだが、懺悔が体調を悪化させるのではなく、好転させる方向に作用するのはなぜだろう。
怒りや怨みが身体にネガティブな影響を及ぼすのはよく知られている。破壊のエネルギーである怒りは、蛇毒に次ぐ猛毒とも言われる怒りホルモンを全身に巡らせ、病気や怪我、痛みの主たる原因になっている。怒りは、心を壊し、体を壊し、関係を壊し、情況を壊し、あらゆるものを破壊していく根本エネルギーである。
後悔はその怒り系の心所に分類されているが、懺悔はどうなのだろうか。
後悔と懺悔は紙一重の印象だが、後悔は自らの失敗や愚行に腹を立て、否定する心である。なぜ、あんなバカなことをしてしまったのか……と怒りの矛先を自らに向け、怒り、自己否定をしているのだ。
あるいは、なぜ助けてやらなかったのか、介護しなかったのか、与えなかったのか、優しくしなかったのか……と、やるべき善行や義務を果たさなかった自分を否定し腹を立てている不善心の状態である。
一方、懺悔の特徴は謝罪である。己の愚かさや過ちに腹を立てるのではなく、自らの咎を認めて謝りたい、申し訳なかった、と当事者に赦しを乞うのである。自らの非を自覚するのは後悔も懺悔も同じだが、後悔は自らに腹を立て、怒りのエネルギーが自虐的に放たれている。
しかるに懺悔には、相手に対しても自分に対しても怒りを出力してはいない。自分がかけた迷惑で苦しんだ他者の心事を慮ってお詫びする方向に意識が向いている。
後悔は自らの所業に腹を立て、過去を否定するエネルギーに囚われているが、懺悔はネガティブな過去を受け容れ、反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓って未来志向に切り換わっているのだ。
懺悔ができる心に、怒りはない。怒りは「対象を否定する心」と定義されるが、怒りが無ければ葛藤もなくなるだろう。自らの過ちや落ち度を認め、相手にお詫びできる精神には必死で自己正当化しようとする矛盾がない。
本当はこちらに非があるのを直感しながら、その本心を無理やり抑圧している引き裂かれた心が問題なのだ。この怒りと葛藤の不在が癒し効果に直結しているのではないかと思われる。
*モーガンの公準
懺悔をしたら惛沈睡眠や痛みの現象が消失したのは確かなことである。私自身がインストラクターとして一部始終を目の当たりにしている。だが、そのメカニズムや因果関係を考察するにあたって、いわゆるモーガンの公準を念頭に置くべきだろう。
モーガンの公準とは、「原始的な能力でシンプルに説明できることを、高次な能力によるものと解釈し高等な説明をしてはならない」というものだ。
例えば、潜在意識から浮上したアイデアと解釈できることに対し、背後霊からの霊的メッセージではないか、などと真っ先にスピリチュアルな解釈を当てはめてみたりするのは慎むべきだということである。
*暗示効果
すでに紹介したAさんとBさんには鮮やかな懺悔効果が見られたが、モーガンの公準に従うなら、二人は前世の記憶を思い出したのだろうか?と問う前に、暗示効果の可能性を検討すべきだろう。
そもそも瞑想合宿の最中というのは、暗示効果が起きやすい条件が整っているのである。列挙してみると、
①サティの瞑想では、思索や考察など一切の考え事が禁じられている。
②一日中沈黙行に徹し、サティを入れ続ける日々が続く。
③一切の情報収集が遮断され、唯一インストラクターによるダンマトークと面接時にのみ、瞑想と仏教思想に関する情報が得られる。
④瞑想者はインストラクターに信頼感を寄せて合宿入りし、基本的にその信頼感は強まっていく傾向にある。
⑤この情況下で、瞑想者が切実な痛みや眠気など深刻な問題を抱えた場合、信頼するインストラクターのアドバイスは、乾いた砂が水を吸うように心に浸透しやすくなる。
⑥法話や面接で過去世に言及されれば、たまたま浮上したイメージを過去世の印象ではないかと思い込みや錯覚が生じやすい。
禅の接心でも、沈黙行を厳しく守り昼夜を通して座禅に専念するし、「提唱」と呼ばれる老師の法話と「独参」と呼ばれる面接も、ヴィパッサナー瞑想のリトリートと酷似している。
禅や瞑想の修行に限らず、親子関係の躾けや教育全般の教師と生徒の関係にも暗示にかかりやすい条件は整っていると言える。個人の資質によっても、被暗示性の強いタイプと暗示にかかりにくいタイプがいる。瞑想合宿の特殊な環境では、通常よりも被暗示性が強まるので劇的な懺悔効果の現象が生起しやすくなるのは自然なことだろう。
となると、過去世の記憶云々よりも暗示効果ではないかと解釈するのは的を得ているし、その可能性は大である。
ちなみに、暗示効果が悪用されるとマインドコントロールの由々しい問題が生じてくる。詐欺商法、カルト宗教、過激な政治組織……などさまざまな分野で意図的にマインドコントロールが企てられている。
ヴィパッサナー瞑想では、悪を避け、善をなすことが強調されており、倫理的な方向性が厳しく示されているので問題ないが、主催者が邪悪なカルト教団だったなら、マインドコントロールや洗脳がなされて危険な思想を鼓吹されたテロリストが養成されかねないだろう。
*プラシーボ(偽薬)効果
痛みや眠気などのネガティブな症状が劇的に消失したのは、既に見たように、心身医学のメカニズムで説明することができる。病状に劇的な変化を及ぼす心理的要因と暗示効果は、いずれも人間本来の自然治癒力にスイッチを入れる同じメカニズムではないかと考えられる。
偽薬の服用で症状が改善したと感じる「プラシーボ(偽薬)効果」も、暗示効果をさらに強化する装置と言ってよいだろう。例えば、同じ偽薬でも1錠10セントの薬と説明された時よりも、1錠2ドルの新薬と説明された方が痛みの軽減効果が大きいという。高価な薬の方が良く効くだろうという思い込みの力が物を言うのだ。
プラシーボ効果とは逆に、無害な偽薬を有害だと思い込めば実際に病気になる「ノーシーボ効果(反偽薬効果)」もある。処方された薬に「副作用がある」と妄想すれば実際に副作用が起きてしまうのだ。症状の改善も悪化も、人体に劇的な変化を及ぼす思い込みの力の証左である。
*二重盲検法
こうした心理的要因をできるだけ排除して、純粋に薬理的、物理的なメカニズムの解明を目指すのが自然科学の基本的傾向である。例えば、プラシーボ効果を明確にするための「二重盲検法」などは面目躍如たるものがある。
これは、暗示作用などの心理的影響を排除して、新薬の純粋な薬理的効果を評価するための検定法である。被検者を2つのグループに分け、一方のグループには本物の薬を、他方のグループには外見や味が本物そっくりの偽薬を与え、その際どちらの被検者も投薬する医師も誰もどの薬が投与されたか分からないようにして結果を判定するのである。
「二重盲検法」は、ものごとを純粋な物理的法則や化学的変化のプロセスとして捉えようとする優れた科学的技法である。同時にそれは、暗示などの心理的要因がいかに強力な変化や影響を及ぼすか量りしれないことを物語っている。
ルネッサンス以降のヨーロッパの科学的志向は、妄想と迷信だらけだった中世の暗黒時代に対する反動だった。近代科学の頂点でもあるニュートン力学までは、人の心理や意識から完全に切り離された物理法則の数学的な美しさを賛美できた。
しかし物理法則の究極である量子論の極微の世界が観測されるようになると、素粒子の物理的現象世界と観測者の意識の影響が切り離せない不可分のものであることが知られてきた。
つまり物質的存在の根源では、物理的現象と純粋な心理的現象とが融合して展開している可能性を示唆している。
かつてサマーディの力で水虫を治したことのある私にとって、心が身体現象を劇的に変化させるのは自明なことであった。謎だったのは、なぜ、どのようなメカニズムで、心の力が外界の事象を動かし、業が形成されていくのか、だった。
懺悔の修行が心身一如の身体現象に影響を及ぼすのは当然のことだが、業論のメカニズムとどのような関連性があるのか、さらに分け入ってみたい。(以下次号)