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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『懺悔物語 ③ ―懺悔の事例-』

 なぜ懺悔をすると痛みや眠気など瞑想修行の妨害要因が消えてしまうのか。これを科学的に説明するのは容易ではないが、こと瞑想に関しては、問題が解決し修行が進みさえすれば良いではないか。合理性に欠けても、暗礁に乗り上げた瞑想の苦境を脱することができれば結構、と瞑想マキャベリズムになる。毒矢の成分が科学的に判らなくても、取りあえず毒矢を抜くことができれば良しとする現場主義の発想だ。
 これまでオーソドックスな対応で万策が尽きた時には、打開策として懺悔の瞑想を試みる瞑想者が数多くいた。結果的に成功事例が増え続け、「懺悔効果」ともいうべき有効性が鮮やかに浮かび上がり、図らずもスリランカで教えられた対応の証左となった。


*痛みと眠気


 懺悔効果が特に著しいのは、痛みと惛沈睡眠の現場である。物理的な身体症状が伴うので必死に取り組みやすく、有効性があったか否かの検証も歴然である。
 懺悔も慈悲も、瞑想者の心の変容を旨とするのが本来である。だが集中すれば強い意志(チェータナー)が放たれ、カルマを形成する現象生起力となって当事者の相手にまで不可思議な変容を及ぼすことになるのも、多くの人が体験している。
 慈悲の瞑想で強く祈ったら、なぜかニコニコ顔で機嫌よく挨拶してくれた……。泣きながら懺悔の瞑想を続けていたら、向こうから和解を申し出てくれる奇跡が起きた……等々の逸話は枚挙に暇がない。慈悲であれ懺悔であれ、強い意志の出力が自動的に業を形成し、因果が帰結していくのは業論の基本理解である。
 集中が悪ければ出力されるエネルギーも微弱となり、迷いがあればエネルギーの方向性がブレまくって形をなさないだろう。真剣に、本気の修行をしなければ、効果は期待できない。効果がないという意味は、直面している現象にさしたる変化が生じないということである。
 逆に余念のない強い集中力があれば、ドラマチックな現象の転変を経験することができるだろう。慈悲の瞑想の<ヨロズもめごと解消効果>は、多くの人が体験的に検証している。同様のサンカーラ(行)のエネルギーが現象生起力となって働くので、不可思議な<懺悔効果>が起きるのだろうと推測される。事例に即して、懺悔の意味と効果を考察していこう。


*事例その1


 Aさん。瞑想合宿の直前に首筋が曲がらなくなり、なんとかゴマかしていたが3日目に我慢ができないほど痛み出した。
 セオリー通り最初は痛みの観察に集中し、「痛み」とラベリングするが一向に改善しない。苦痛に反応している心にもサティを入れるが、ラベリングの言葉が上すべりして「痛みの想い」に巻き込まれ、のめり込んでいる状態から抜け出せない。この時点で「懺悔」をするようにインストラクションされる。
 現象世界は、因果のエネルギーが生じては滅していく構造である。苦痛を経験するからには、それ相応の原因があった筈である。その原因を正確に特定することは不可能だが、五戒の1番目(生命を傷つける)に関係してはいるだろう。物を失くしたり、ダマされたりという現象が起きているのではない。肉体に苦痛が襲来しているのだから、殺生戒に関する不善業を推測するのが妥当ではないかと説明し、さらにAさんにたたみかけた。
 「……今世に限っても一度も昆虫や小動物を殺傷していないですか。体の小さい級友にプロレスの関節技をかけたり、ヘッドロックで痛い目に遭わせませんでしたか。校内シューズを入れる袋で頭をひっぱたいたり、耳に輪ゴムを引っ掛けてパチンと痛くしたり……。
 過去世にまで遡れば、長い輪廻の中で一度も狩猟や戦争に加わらなかったという自信がありますか。人類の歴史に部族闘争や集団殺戮のなかった時代はないですよ。敵の首級を挙げんと槍を突き刺し、おびただしい返り血を浴びながら体に戦慄を走らせていたかもしれないでしょう。
 過去世がピンと来ないなら、甲虫の手足をもいだり、雀の首をひねって殺しませんでしたか? 蛙の口に爆竹を突っ込んで爆破させた人もいるんですよ、その人はその後、顎関節症か何かで口が開かなくなって入院したそうですけどね……。 
 あるいは、新聞紙を丸めてゴキブリを追いつめ、何度も叩いて腹綿が飛び出し、それでも死に切れず仰向けで転がり続けているのをハア、ハア、言いながら眺めていませんでしたか。
 どんな生物にとっても最大の苦痛を与えておきながら、その因果がめぐって今、我が身に苦受が経験されているのだとすれば、殺傷してきたであろう膨大な命に対して懺悔をしてはどうかということです。今後は二度と殺生戒を犯しません、と五戒を確認して締めくくってください」
 Aさんは面接後すぐにブッダの像に額(ぬか)ずいて真剣に懺悔の瞑想をし、そのまま座禅を始めた。たちまち襲ってくる右首筋の痛みにサティを入れていると、突然、死闘を繰り広げている前世の記憶が甦り(?)、自分の刀剣が相手の肉と骨をメッタ突きにする感覚が生々しく浮かび上がってきたという。衝撃を受け、相手にひたすら詫び、赦しを乞い、真剣に懺悔し祈った。
 すると、畳に擦りつけていた額を上げた時には、あのひどい痛みが完全に消失し、以後、二度と痛みは戻らなかった。懺悔の威力に心底驚きました……という翌日のレポートである。
 私も最初は半信半疑だったが、こうした鮮やかな現象の変化を報告する事例が続出するに及んで、メカニズムの解明はさておき、懺悔と身体症状の変化の因果性を疑えなくなってきたのである。


*事例その2


 Bさん。合宿初日から異様な惛沈睡眠に襲われていた。サティの瞑想はおろか前座の慈悲の瞑想が最後の行までたどり着けずに、毎回途中で眠りこけてしまう程であった。体を合宿態勢に整え5日経っても、慈悲の瞑想すら完成できない異常な眠気は前例がなかった。
 Bさんの唱える慈悲の言葉を嘲笑うがごとくに、関係のないセリフが大きくなったり小さくなったりしながら耳元に囁かれてくる感じだという。頭が混乱し、誰に対してどの言葉を唱えているのか分からなくなるうちに惛沈睡眠でドロリとしてしまう繰り返しであった。
 「……この眠気の異様さには、ヴィパッサナーや慈悲の瞑想に対するなんらかの不善業が働いているのかもしれませんね。
 スリランカの寺では、惛沈睡眠の原因として、仏法僧に対する誹謗中傷や聖者冒涜の不善業を強調していました。<ariya upavada>と言います。
 今世でそのような所業をおやりになっていなければ、過去世が疑われます。飽くまでも推定の域を出ませんが、最後の切り札として懺悔を試してみる他ないでしょう。
 もし仮に、過去世でテーラワーダ仏教の比丘を罵倒したり邪教だと言いふらしたりしていたとしたら、そのことを謝りもせず、知らん顔で今度はヴィパッサナー瞑想をやってやるから修行を進ませろ……というのはおかしいでしょう。
 慈悲の瞑想でつまづくということは、慈悲の瞑想について説法していた比丘の邪魔をしたのかもしれませんね。鉦や太鼓を打ち鳴らし、大声で喚いて説法が聞こえないように邪魔してたり(笑)……妄想ですけど。
 文言のサンプルとして例えば、『三宝誹謗と聖者冒涜の罪業を深く懺悔いたします。私のことですから過去世で仏法僧を罵ったり、預流道や阿羅漢の聖者を冒涜したに違いありません。無知ゆえに愚かなことをしました。お赦しください。申し訳ありませんでした。今後二度と同じ過ちを繰り返しません。
 これからは篤く三宝を敬い、仏法僧に帰依し、殺さない、盗まない、不倫をしない、嘘をつかない、酩酊しない、の五戒を守り、仏弟子としてしっかり精進していきますので、修行が正しく導かれていきますように……』
 これは、相手に謝るというよりも、自分の過ちを認めて懺悔し、これから未来に向かって正反対の善エネルギーを放っていくことを決意するのがポイントです。
 誹謗や冒涜のエネルギーを打ち消すには、尊崇の念をもってブッダとダンマとサンガを敬っていくのです。なぜ五戒を確認するかというと、非を詫びて懺悔するのに、これからも破戒行為をやっていく予定だが、取りあえず謝る……では筋が通らないからです。
 心からの実感を込めるためには、定番の言葉を自分の表現に翻訳したほうがいいですよ」


*懺悔の効果


 5日目。Bさんはまたも惛沈状態になり、最初からやり直そうと懺悔の言葉に集中した瞬間、不意に石を投げつけられている比丘の姿が眼に浮かび、思わず涙がにじんだ。のみならず投石をしていたのは他ならぬ自分だったことに強いショックを受け、痛切に詫びて懺悔に没頭した。
 すると、感情の昂ぶりもあってか霧が晴れたように頭が冴えわたり、初めて慈悲の瞑想を最後まで完結することができた。
 翌日になると、さらに、今世で迷惑をかけてきた会社の同僚や両親への懺悔の言葉が素直に浮かび、涙がとめどなく溢れた。心のこもった懺悔の思いで、一行一行確かめるように「慈悲の瞑想」が完成してからというもの、ヴィパッサナー瞑想が急速に進み、画期的なサマーディ感覚でサティが連続し始めた。瞑想にすらなっていない最低レベルから一気に高度な修行に飛躍したのである。<懺悔>がリトリートの大きな転換点になったケースである。
 さて、首筋の痛みが劇的に消失したAさんや、Bさんの懺悔の修行から、われわれは何を学ぶべきなのだろう。懺悔修行の意味とその問題点を整理してみよう。


 ①なぜ懺悔をしたら苦の現象(昏沈睡眠や痛み)が消失したのか? 懺悔行為と現象の因果関係は?
 ②AさんとBさんは、前世の記憶を思い出したのだろうか?
 ③過去世に対する意識の集中(懺悔)が、今世の現象に変化を与えたのだろうか?
 ④現象になんの変化も起きなかった場合、懺悔にはどのような意味があるのだろうか?(以下次号)

Web会だより

『怒りの根源の発見』(4) K.M.

 地橋先生からのアドバイスを受けて、幼少期を振り返り得られなかった愛着に対する不満怒りにより愛着障害があることを痛感しましたが、自分だけが被害者で両親祖父母が悪いのか?そこを明確にする為に母親の幼少期も振り返りました。

◆母も被害者
 母親の実母は幼い頃に離婚して、母は後妻さんに育てられました。母親は長女だったので、その後、生まれた弟妹とは全て異母妹弟です。私が幼い頃に、母方の祖母は本当(血縁)の祖母ではないことは聞いて知ってはいましたが、母方の祖母や叔父叔母には可愛がってもらいました。ただ、少し祖母には遠慮する気持ちがありました。
 母の死後、叔母から聞いた話しですが、「母親が生き別れになった実母を訪ねて、幼い頃に隣町の実母に会いに行ったが、会うことを拒絶されて帰って来た。」と教えてもらった時に、さぞ母親は悲しかったろうと胸が痛くなりましたし、実母もさぞ会いたかったはずだが、色んな事を考え悩み苦しんだ上での決断だったはずと思い、胸が痛くなりました(わが子に会いたくない母親はいない)。
 母にはそんな経験があるからか、私を連れて母親の実家に泊まりに行き、夜寝る時に何故か押し入れの中に布団を敷いて私と一緒に寝ていました。義理の叔母に「お姉さん畳の上で布団を敷いて寝て下さい」と言われても、母は「私は押し入れの中がいい」と返答していました。幼心に「なぜ押し入れの中で寝るのだろう?変だなぁ?」と思いながら、母親と一緒に寝ていました。今思うとこれは母親が幼少期に実母と別れて会いたくても会えなかった愛着障害からの行動だったのではないかと思います。

【母親の幼少期の境遇のレポートに対しての地橋先生からのインストラクション】
 ・母親がもっとまともに優しく愛してくれたら……との思いがあったと思いますが、お母さんご自身も苦しい生い立ちを生き抜いてこなければならなかった被害者であり、温かい愛情をたっぷり受けることができなかった背景があったのてす。理想的な子育てのやり方が経験的に分からなかったのも当然のことでしょう。愛情の出力も他のどんなことも、自分が受けてきた通りのものを与えてしまうのは致し方ないことてす。世代間連鎖というものがどうしても起こってしまうのです。
 とインストラクションしていただきました。

 それで母親も自ら選んで幼少期の苛酷な環境に育ったのではなく、好き好んで幼少期の私に厳しい態度を取ったのではない。親もどれだけ苦しい幼少期から自我形成をして自分を生んで子育てをしてきたか?「親も被害者だ」と知ることが出来ました。
 父親、祖父母についてもそれぞれの幼少期があっての自我形成があるので、誰が悪いという事でなく誰もが被害者なのだと思えるようになりました。
 ただ、どうしても祖母が亡くなった時に母親に「おばあちゃんが死んで良かったね」と言ってしまった罪悪感が残っていました。

【地橋先生からのインストラクション】
 ・私達のどの瞬間の心も真実なのです。母親と接する時も、おばあちゃんと接する時も、上司や部下、恋人や友人と一緒にいるどの瞬間も本当の自分なのです。私達は状況によって、相手によって、その時その場のシチュエーションによって、反応も対応も態度もさまざまに異なる複数の人格というかキャラクターがあると考えるのです。(→分人主義)。暴力的で怒りっぽい人が孫娘に対しては信じられないほど優しくなったりするのです。エゴが一つと考えると矛盾だらけですが、誰でも複数のエゴを持っていて、そのどれも本物だという発想です。
 ・嫁姑の関係で辛く苦しい思いをしてきたお母さんの姿をつぶさに見てきたし、自分もその板挟みになってきたのだから、お母さんの立場になって考えれば、姑がいなくなったらもう苦しまなくてすむ、良かったね、と言って上げて何が悪いのですか?母を思いやる優しい男の子がいただけでしょう。
 同時に自分を愛してくれたおばあちゃんを喪ったことがどれほど悲しいことだったか、どちらも本当なのです。
 ・だから自分を責める必要はないし、そんなことを言った少年の心を私は赦してあげるべきだと思います。
 とインストラクションしていただきました。

 これまで祖母に申し訳なく、また自分に情けなく思い続けていた罪悪感と、忸怩たる思いが初めて赦してもらえたのだと思えました。
 この様に幼少期の過去を振り返ることにより、愛情を求めていながら得られなかった不満と怒りが蓄積され、心の反応パターンが形成されていった。それ故に幼少期から漠然とした不安・悲しみ・寂しさが今でも続き、あらゆる場面で発現する怒りの根源となっている事に得心がいきました。
 原因は解りました。では、どの様にしたら問題(幼少期からある不安・悲しみ・寂しさを起因とした怒りの根源)を改善することが出来るのか?心の拠り所となる愛情を求めたかった両親とも他界しました。両親と話をして心のわだかまりを解くことは出来ません。そのことを地橋先生に問いかけました。

【地橋先生からのインストラクション】
 ・愛着障害の問題は、安全基地(揺るぎない信頼関係で結ばれた安心安全の拠り所となる対象)になってくれる人を見つけて心底から安心できる体験をすることが大事です。
 ・良き伴侶に恵まれれば、その伴侶が安全基地になってくれたりするのですが、そのような縁に恵まれない人もいます。そのような場合には「プリズン・ドッグ」というNHKのドキュメンタリーをご覧になるとよいでしょう。
 とインストラクションしていただきました。

【プリズン・ドッグとは】
 犬を用いて行われる刑務所内での更生プログラムで、凶悪事件を犯した二十歳前後のアメリカの少年たちが刑務所で虐待や飼育放棄などによって保護された犬のお世話やトレーニングを行い新たな飼い主を見つけることや、セラピードッグや介助犬として社会で活躍することができる手助けをし、少年達は無条件に犬たちに愛情を与え、犬から愛情を感じることで人間らしさを取り戻し、他者を思いやる気持ちが芽生えるようになる。さらに犬のお世話やトレーニングについて同じプログラムを受ける仲間とアドバイスしあうなどして協調性や絆が生まれる。

 プリズン・ドッグを見て、犬(生命)を一生懸命に愛し世話をして信頼関係が作られれば、人は変わることが出来るのだと感動しました。

◆怒りの克服の方向性
 インストラクションを通して長年の問題(怒り)の原因とその解決策を提示していただきました。

◇怒りの原因
 ・愛着障害による幼少期からの満たされない気持ちを根源として、心に反応パターンが構築された。
◇怒りの解決策
 ・五戒、慈悲の瞑想、懺悔の瞑想を徹して行い、怒らない決意を固める。
 (文言だけを唱えるのでなく、五戒などは単純な禁止事項だけに止まらず、それぞれの戒がどのような意味を含んでいるのか発展させていく等)
 ・徹底した因果論の納得、その為にも教学を深めることの継続。
 ・内観に行き視座を転換させてエゴを克服する。

 まだ内観にも行ってはいませんし、五戒にしても何とか戒には触れない様なレベルで、慈悲の瞑想も親しい生命範囲ぐらいなら対象に出来る程度です。懺悔の瞑想にしても完全に自分が悪かったと思えない対象もありエゴが拭えない程度です。いわゆる、まだまだ道半ばの状況なのですが、それでも長年の問題の原因と解決策を提示してもらった喜びと安心感の証が体調面に現れました。幼いころから便が緩くずっとそれが当たり前でしたが、問題の原因と対策のインストラクションを受けてから軟便が改善しました。記憶にある限り長期に渡り軟便で無くなった事は初めてです。
 ただし、自分の悪いところは、解決策がわかるとそれに安心してしまい、気が緩む傾向があることです。そこに注意して提示していただいた解決策を日々実行して、内観にも行き心の反応パターンを改善させて、ヴィパッサナー瞑想による心の清浄道の完成に向けて努力精進していきます。
 長々となりましたが、私のつたない幼少期からの人生経験と苦悩に関するレポートが参考になる方がいらっしゃれば幸いです。
 また、この様な法施の機会を与えて下った地橋先生に感謝いたします。 合掌

サンガの言葉

覚りの道への出発 2022年4月号

1月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話(「悟りの道への出発」)を掲載しています。今月はその第4回目です。

5.理論と実践
 そのような訳で私達はこの実践を続けます。実践のセンスを身に着けるまで続けます。それぞれの持つ特別な傾向や能力によりますが、やがて新たな理解が生じます。これを法の究明(Dhamma-Vicaya:択法)と呼びます。このようにして7つの悟りの要素(七覚支)が心に生まれるのです。残りの6つは気づき(念)、努力(精進)、歓喜(喜)、平安(軽安)、集中(定:サマーディー)、平静(捨)です。
 七つの悟りの要素について学べば、それについて書かれた本の内容を知ることはできます。しかし真の悟りの要素を見ることはできません。本当の悟りの要素は心の内に生じます。このようにしてブッダはあらゆるすべての教えを直接私達に説くようになりました。
 正覚者はすべて苦しみから脱する方法を教え示しました。そして正覚者の教えの記録を理論的な教えと呼びます。この理論はもともと実践から得られたものです。しかしそれは単なる本による学習、ことばの羅列と化してしまっています。
 真の悟りの要素は消え去ってしまっています。それは私達自身の中に、すなわち心の中に悟りの要素をみようとしないことが原因です。悟りの要素が生じるとすればそれは実践から生まれます。悟りの要素が実践から生じるなら、それは法の悟りに導く要素といえます。そしで悟りの要素が生じることで実践が正しいと知ります。実践方法が間遠っていれば、このような要素が現れることはありません。
 正しい方法で実践するなら法を見て取ることが出来ます。それで実践をし続けるのです。一歩ずつ道を手探りしながら絶え間なく探究を続けます。探し求めるものがここを置いて他に見つかると考えてはなりません。
 先輩の修行者の一人はここに来る前に学習寺で長いことパーリ語を学んでいました。学習の成果があまり芳しくなかったため彼は次のように考えました。
 「瞑想を実践する修行僧はただ坐るだけですべてを見、理解することが出来ている。私もそのようにしてみよう」
 彼はこの地、ワット・パーポンにやって来て、坐って瞑想をすればパーリ語の経典を翻訳できるようになるだろうと考えました。彼は修行実践についてこのように理解していました。まったく過って理解していたのです。ただ坐ってすべての物事を明らかにするのが簡単なやり方だと考えていました。
 法の理解について話す時は学習僧も修行僧も同じ言葉を使います。しかし実際は理論を学ぶことで得る理解と、法の実践から得られる理解はまったく同じというわけではありません。この二つは同じように見えるかもしれませんが一方はより高尚で、深遠なものです。実践から生まれる理解は放棄、諦めへ繋がっていきます。完全な放棄が生じるまで、耐えます。熟慮を続けるのです。
 もし欲ないし怒り、そして嫌悪が心に生じるなら、無関心ではいられません。単にこれらから逃れるのではなく、むしろこれらを取り上げて、よく調べ、どこからどのように生じたかを見極めます。このような傾向が既に心に備わっているなら、深く考察しこれらの感情がいかにして不善な作用を及ぼすかを観察します。これらの感情をはっきりと観察し、それらを実体と信じて追い求めることにより、自らが苦難を作り出していることを理解します。このような理解は自身の純粋な心以外のどこにも見い出すことはできません。
 このようなわけで理論を学ぶ人々と瞑想をする人々のお互いが相手を誤解します。通常学習を重んじる人々はこんなふうに言います。
 「瞑想実践しかしない修行僧はただ自分の意見に従っているだけだ。彼らの教えには土台が無い」と。
 実際は「学習と実践」という二つの方法はある意味でまったく同じものです。これらを手の平と甲のようなものであると考えれば、理解の助けとなるでしょう。手の平を差し出せば手の甲は消えてしまったように見えるかも知れません。実際、手の甲はどこかへ消え去ったのではなく、下に隠れているだけです。手の甲が見えないといってもそれが完全に消え去ったわけではなく、下に隠れています。
 差し出した手をひっくり返すと、今度は手の平が見えなくなります。その場含も手の平はどこかに去ったのではなく、ただ下に隠れただけです。
 実践について考える時はいつもこのことを忘れないようにしてください。実践が「見えなくなった」と思うと、結果が出ることを期待して学習を始めます。しかし法についてたくさん学んだかどうかは重要なことではなく、それだけで理解を得ることは決して無いでしょう。なぜなら真理に従うということを知らないからです。法の真の性質を理解すれば自ずとしがみ付いている物を手放すようになります。これが放棄です。執着(upādāna:取)を取り除くことです。二度と対象にしがみつかないことです。あるいはまだしがみついているとしてもそれがどんどん少なくなります。学習と実践という二つの方法の違いはこのようなものです。
 学習について語る時、次のように理解することができます。目は学習の対象である、耳は学習の対象である――すべては学習の対象であると。形態がこのようなもの、あのようなものと知ることはできるでしょう。しかし形態に執着し、それから逃れる術を知りません。私たちは音を識別することができます。しかし今度は識別した音に執着するのです。形態、音、臭い、味、身体の感触、心に起こる印象はすべて生命を捕獲する罠です。
 これらの事柄を究明することが法を実践する方法です。なんらかの感覚が生じたら理解をそれにむけて本質を見極めます。理論について周知していれば、すぐそちらに注意を向けて、これこれの物がこのように生じてあのようになった、などと即座に分かります。しかし、このように理論を学んだことがない場合は、自然の状態にある心とともに実践します。この自然な心が私達の法です。
 智慧があれば自分の自然な心を検証し、学びの主題とすることができます。まったくそれは同じもので、自然の心は理論なのです。ブッダはどのようなものであれ思考や感覚が生じたら、それを究明するようにと説かれました。自然な心の真実相を理論として使います。この真実を拠り所とするのです。