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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『懺悔物語 ① -宿業の力-』

 ★私の修行生活は懺悔の瞑想から始まった。懺悔は「ネガティブな過去からの解放」と定義することもでき、心の清浄道の中心的命題として何度も繰り返し言及してきた。
 20余年前に懺悔修行について何本もの原稿を書き、その掉尾を飾ったのがアングリマーラ尊者の評伝だった。加筆して本欄に3回連載したが、改めてその他の懺悔関連の原稿を再読してみると、捨てがたいものがあり、このまま埋もれて散佚させるのも忍びないと感じた。
 最終章を最初に提示してしまった形だが、この際に懺悔関連稿を加筆して「懺悔物語」としてまとめておこうと思った。


 さて、ヴィパッサナー瞑想を始めたからには、修行が進むことを期待しない人はいないだろう。これまでに数多くの人が瞑想合宿に入ったが、皆、真剣に修行に取り組んできた。
 しかしその成果は千差万別、短時日で素晴らしい瞑想体験を得る人もいれば、努力が実ることなく不発のまま下山する人もいる。全員が同じ条件でスタートし、同じ屋根の下で同じ食事を摂り、ダンマトークも面接も同じように受けているのだが、なぜ大きな差異が如実になるのだろうか……。
 当たり前のことだが、一定の成果を上げ成功を収めるためには、それに必要な条件をすべてクリアーしなければならない。


 「ひとびとは因縁があって善い領域(天界)におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域(地獄など)におもむくのである。ひとびとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。
 このように、このことは因縁に基づいているのである」(感興のことば26-9)


 この世のいかなる事象もデタラメに生じ滅しているのではない。必ず原因となるエネルギーが一瞬の事象を形成しながら因果を帰結させているのである。仏教では、すべての出来事を生起させ、展開し、消滅させていく根源的な力を「サンカーラ(行)」と呼んでおり、サンカーラ(行)は業(カルマ)と同義と理解される。
 したがって瞑想の修行が成功するのも破綻するのも、その原因となるエネルギーが過去に放たれたからであり、いずれも業の結果であるということになる。
 もしブッダと同じ境地に達したいのなら、ブッダになるための必要条件である十の波羅蜜を完全に具足しなければならない。
 阿羅漢や預流道の状態が達成されるのも、当然それに相応した徳のエネルギーが原因となっている。


 瞑想は才能である。
 才能という意味は、過去世から今日まで瞑想のために努力し訓練してきたエネルギーの総和という意味である。
 怠けた者もいれば、よく精進した者もいるし、遅まきながらやっと今世でスタートした者もいるかもしれない。
 人は絶対的な公平で生まれてきているから、天賦の才能は歴然である。過去に自分が放ったエネルギーの結果が、公平に現前してくる法則が働いている。公平だからこそ環境も力量も不平等になり、千差万別の落差が生じてくる。なんと悲しく、そしてありがたいことだろう。
 しかし才能は波羅蜜の一部であり、才能だけで悟ることはできない。
 修行が進むための内的・外的なあらゆる条件がすべて揃わなければ解脱は完成しないのだ。健康・時間・家族の協力・よき師よき仲間・修行環境・体調・悟りの覚支のバランス…など、無量・無数の全条件が「その一瞬」のために結晶しなければならない。
 そのためには「衆善奉行」の教えに基づき、日々ありとあらゆる善行を行じ奉り、カルマを善くして波羅蜜を熟させていくしかない。


 だが、それだけで良いのだろうか。プラス+プラス+……と、善なるエネルギーの足し算を重ねても悟ることはできないだろう。なぜなら、諸々の妨害要因が絶妙のタイミングで修行の完成を阻むからだ。事が成就するのに必要にして十分な条件が完備しても、賽の河原の積み上がった石を崩す鬼のようなネガティブ現象が一瞬にして全てを破壊してしまうかもしれないのだ。 
 私たちは一人の例外もなく、悪業も善業もない交ぜに、ゴッチャにして集積してきている。「仏もかつては凡夫なり……」の戯れ歌の如く、ブッダですら数々の不善業を作り、長い輪廻のある時には地獄に堕ちて悪業の一括返済をさせられていたことが伝えられている。
 至高の存在であるブッダになってからですら、罵倒されたこともあれば、こいつに妊娠させられたなどと危うくハメられそうになったり、足指に棘を刺したり、托鉢の鉢に3ヶ月の長きに渡って粗悪な馬麦しか得られなかったこともある。いずれも、前生譚にはその原因となった行為の説明がなされている。
 ブッダですらかくの如きなのだから、どんな人も間違いなく、善いカルマも悪いカルマもおしなべて作ってきているのだと心得なければならない。
 修行の成功を阻むマイナス要因を除外しない限り、達成したものがチャラにされ、成就したものが破壊されてしまうことだろう。


 いろいろなことが起こる。
 ……クーティに忍び込んだサソリの毒針に刺され、ヤンゴンの病院にかつぎ込まれたドイツ人比丘。
 朝の食事が、昼には腐敗している熱帯である。食物に当たれば吐き気と下痢でガタガタに崩れていく。
 リトリートが佳境に入った時を狙ったように、実兄が危篤という報に接し、迷った末、命懸けの修行を断念し帰国して行ったスイス人……。
 突然至近距離で改修工事が始まり、連日、耳に鋭く残る電気のこぎりの音や、トーン、トーン、と内臓にまで響くようなハンマーの音、大声で呼びかける大工の声、等々で完全に破壊された森林僧院の閑けさ……。
 在家なのに布施をしないで1年間も寺で修行していたフランス人が、出入りする工事の者か何者かに全財産を盗まれ茫然自失した……。
 まったく一寸先は闇、何が起こるか予断を許さず、危うく難を逃れてギリギリセーフになる者もいれば、タッチの差でアウトになる者もいる。


 私自身も例えば、スリランカの山頂の僧院で修行していたある日、谷底から大音響のアザーンが鳴り響いてきた。
 アザーンとは、イスラム教の礼拝への呼び掛けだが、朗々とした男声で唄い上げるアラブ版民謡といった趣で耳を直撃してくるのだ。麓の村に1軒だけモスリムの家があり、運動会で使うような大音量のスピーカーでアザーンを流し続けてくる。
 当然サティを入れるのだが、その目に余る大音量から、ギラギラした攻撃的な印象を受け「コーランか、剣か」などという言葉が連想されてくる。サティを入れつつも、脳裏の片隅では昨日までの静寂を惜しむ気持ちや、イスラム侵攻によってインドの仏教寺院が徹底的に破壊され、1203年ヴィクラマシーラ寺の消滅をもってインド仏教が終焉した……などという妄想がスルスルと脳裏を過ぎり、サティが追いつかなくなる。
 さすがに『おのれ、モスリムめ!』などという言葉は浮かばなかったが、修行を深めるために遥かスリランカの森林僧院まで来たのに、ラッパ状の谷間の底から異教徒の大音響で大打撃を被ったのはいかなる不善業の結果か……と自問自答した。
 修行のレベルはガタ落ちしたものの、過去世で他宗教に嫌がらせや邪魔立てをした報いだろうと定番の思考法で甘受することにした。修行は続行したが、私にはこの種の体験が数多くあり、過去世で誰かの修行の邪魔をしたことは間違いないと確信している。同じ体験が重なるにつれて免疫ができ、やがて修行が決定的に破壊されるような事態が生じても、『またか……、いつまで続くのか、私の不善業よ……』ともはや怒りが立ち上がることはなくなった。


 ラクラクと修行が進み、いとたやすく解脱できる人は慶賀すべきだ。宇宙銀行に貯えてきた波羅蜜のエネルギーが、満を持して放たれ修行の後押しをしてくれたのだ。「衆善奉行」の善行を蓄積したのみならず、「諸悪莫作」にも徹して他者を煩わすことなく、いかなる危害も加えることがなかったのだろう。
 他人に苦を与えなかった者は、他から苦を与えられることがない原則である。つまり、妨害要因とは「諸悪莫作」の禁を犯して他者を苦しめた者が受けなければならない苦悩だと理解される。
 現象世界の仕組みが構造的に絵解きされてくれば、「ああ、やらなきゃ良かった……」と思うだろが、もはや後の祭りである。その当時は愚かにも目先の現象に反応し、メラメラと嫉妬に怒り狂い他人の修行を邪魔したり、悪い教えにハマッて仏法僧を罵倒したり、托鉢をする聖者の鉢の中に唾を吐いたり……、とさまざまな不善業を重ねてきたであろう私たちが、なかなか思うように修行が進まないのは因果関係の当然の帰結なのである。


 「わたし、そんなことしてません!」
 と抗議したい向きもいるだろうが、それは今世の記憶の範囲であって、永い輪廻転生のなかでどのような不善業を作ってきたかは量り知れないのである。
 どうせ過去世でもなんらかの宗教をやっていただろう。むろん悟っていた訳ではないから我執がある。あれば必ず自らを高め、他宗教の悪口を言っては貶めていたにちがいない。
 邪教の神々を崇拝しながら仏弟子に石を投げ、侮辱していたかもしれない自分が、今度はその仏教を学び、ヴィパッサナー瞑想に励むこととなり「どうもなかなか進まないナ。間違っているんじゃないだろうな」などと呟いているのだ。
 過去に作ってしまった不善業に対しては、なす術がないのだろうか。
 ありがたいことに、テーラワーダ仏教には立派な対処法がある。その代表的なものが懺悔の修行である。その効果には瞠目すべきものがあるが、果たしてどのような行法なのだろうか……。(以下次号)

Web会だより

『怒りの根源の発見』(2) K.M.

ヴィバッサナー瞑想に出会い実践に着手したものの、貪瞋痴の煩悩、特に瞋(怒り)の制御が思うようにいかず思い悩んでいた時に、グリーンヒルのHPで地橋先生講師の朝日カルチャーセンター「ブッダのヴィバッサナー瞑想」オンライン講座が始まる事を知り申し込みしました。

◆長年の問題(怒り)へのフォーカス
 事前に質問を送り、それに対して地橋先生がインストラクションしてくださるスタイルを基本として、私の場合は「怒り」の問題が中心議題となりました。

【私からの質問】
 「職場で同じ失敗を繰り返す人に怒ってしまいます。怒らない様にするにはどうしたらよいでしょうか?」

【地橋先生からのインストラクション】
 ・因果論の理解を徹底的に深める(→怒れば自分のカルマが悪くなる)。
 ・基本的に腹が立つのは、プライドが傷つけられた時と思い通りにならない時であり、エゴ感覚がある限り怒りは出てしまうので、そのことを自覚すること。
 とのインストラクションをしていただきました。

 それを基に職場に臨みましたが、怒ってしまうシチュエーションになると怒っていることに気づきはするが、止めることが出来ず結局怒り続けていました。
 次のオンライン講座でそのことを質問しました。

【地橋先生からのインストラクション】
 ・いくらサティを入れても怒りが止まらないのは本気で止める気がないからではないか。容認する心がある限り、怒りの抑止は難しい。
 ・一瞬のサティよりも怒りの妄想の方がはるかに強烈なので怒りが止められない状態。
 ・今自分は怒っているという客観視は出来ているので20~30点程度のサティはあるものの、怒りの対象化ができていません。
 ・怒りや嫌悪が立ち上がりやすいプログラムを書き換えないで、サティだけで止めることは前回のレポートからも多分出来ないでしょう。
 ・本格的に視座を転換させる修行をしないと怒りの構造は変わりません。
 ・「これから怒らないようにしよう」といった程度の決意では反応系のパターンは変わらないので、1週間休みを取って内観の修行をすることをお勧めします。
 ・瞑想の現場でサティを深めるという問題ではなく、反応系の修行を優先すべきということ。
 とのインストラクションをしていただきました。

 これまでの人生「怒り」で失敗することが多かったので、何とか怒りを克服したくアドバイスを求めていましたが、怒りとは別の問題についても質問をしました。私は別の問題と考えていましたが、実はこれこそ怒りの根源だったのです。

【私からの質問】
 「幼いころから寂しく、何か満たされない漠然とした気持ちがあり、この歳になっても続いています。若い頃は心身ともに活力があり、仕事に対するバイタリティーや趣味に没頭することで、そういう気持を抑えこむことができていましたが、年齢とともに体力も衰え、仕事に対しての出世欲や趣味に没頭する気持が薄れてきました。それによって幼い頃からあった漠然とした不安、寂しさが出てくることが増えてきており、日々苦しみを感じてしまいます。
 特に一人で家にいる時は顕著に続きます。あるがままに自分の気持を観るのは心随観なので観ようとしますが、漠然とした不安、寂しさから逃れたい気持が強く、観ることを拒んでしまいます。なぜこの様な漠然とした不安、寂しさが起こるのでしょうか?何を起因としてこの様な幼い頃からある気持が今でも続くのでしょうか?」

【地橋先生からのインストラクション】
 ・このことは、今まで申し上げませんでしたが、直感的にこれが怒りの根源であり深い根っこにあるものと思っていました。「愛着障害」だと思います。
 ・もし赤ちゃんが普通に優しいお母さんに育てられたら、どんなことがあっても自分は見捨てられないし、必ず守られていて大丈夫だという心からの安心感が母子関係の最初期に形成され、情緒の基盤となります。
 ところが諸々の理由でそうはならなくて、例えば、お母さんが病気だったり、虐待の環境があったり、あるいは仕事がとても忙しくて接触がなかったり等々。それで子供との愛着が形成されない場合、どうしてもネガティブな気持ちが赤ちゃんの方に生じます。これが心の奥底にある怒りの根源となります。
 ・本来的な親子関係に展開せず、幼少期に不満と怒りが集積されていくと、自分への不遇な対応に対する根本的な怒りが諸々の場面で表出されがちなのです。これを「愛着障害」と言います。
 ・まず「愛着障害」のことを勉強してください。自分の心の反応パターンがどのような歴史で形成されてきたか。なぜ漠然とした淋しさがつきまとうのか。些細なことでキレやすくなるのはなぜなのか。いろんなことが読み解けると思います。
 ・本当に根源的に怒りを乗り越えられる可能性は、今差し掛かってきたと見ました。こういうレポートが出てきたと言うことは、一番大事な奥の院に入ってきたと思われます。
 ・この愛着の問題、ネガティブなかつての環境そのものは変えられないが、認知を変えることはできます。過去を受け容れることが上手くいかなければ、私にサポートできることはします。何があったかわかりませんが、もし幼少期にネガティブな環境があったなら、それは輪廻転生論を使って過去世の業の結果が人生の最初期に引き継がれたという理解をします。現象世界は自業自得の構造なのだから仕方がないのです。不善業の結果は苦受を受ける法則、善いカルマの結果は楽受を受ける法則です。
 だから自分が人生の最初期に何の責任も無いのに苦を受けたとしたら、それは過去世の業の結果と考えて怒りを手放し受け容れる発想をするのが仏教です。受け容れられれば怒りが終るし、受容できなければこれからもその怒りが続くのです。
 ・因果論、業論を徹底していくと、どれほど不遇でネガティブな幼少期の環境も受け容れていくことが出来るはずです。それを今まで私は何人もサポートしてきました。自分のエゴの発想では上手くいかないでしょうが、仏教の力を使えば発想の転換が可能になります。こうしたサポートをすることによって、とても難しい問題ですが乗り越えられた方は何人もおります。
 ・これは、今世でやるべき最大の仕事ではないかと私は思います。やり遂げることができれば、人生の最期に、今世は成功した生涯であった、良い人生だった、と言って死ねるというか、再生していくことが出来ると思いますので、頑張っていただきたいと思います。
 とインストラクションしていただきました。

 怒りの根源が幼少期の愛着障害であるというインストラクションに、納得する気持と情けない気持ちの両方がありました。家庭環境を振り返れば、決して満足のいく情態ではなかったので、なるほどと思いつつ、大人になっても子供のころの影響を引きずるなんて情けないとも思いました。
 先生の懇切丁寧なインストラクションに感謝し、この愛着障害を克服することは「今生での最大の仕事」との言葉に問題の重要性を感じ、また「サポートはします。」との言葉に感激し、アドバイスいただいた「愛着障害」を勉強し自分の幼少期を振り返ることにしました。(続く)

サンガの言葉

覚りの道への出発 2022年2月号

(承前)
2.日々の経験からの智慧
 そのようなわけで深く考えることの実践が私たちを理解へと導くのはここなのです。
 一つ喩えをあげましょう。大きな魚のかかった網をたぐりよせる漁師の喩えです。漁師は網を引き寄せながらどのように感ずると思いますか。もし魚が逃げるのではないかと不安を感じたとしたら彼は慌てて網と奮闘し始め、わしづかみにしたり、強く引っ張ったりするでしょう。気がつくとその大きな魚は逃げてしまっています。彼は性急にやり過ぎたのです。
 昔であればこんな風に話すことでしょう。獲物はゆっくりと扱い、収穫するときは注意深く獲物を逃さないようにしなければならないと言われているではないかと。これは私たちの修行にもあてはまります。一歩づつ手探りで進み、修行の道を失わないように注意深く、積み重ねていきます。時として修行をしたくないと感じることもあるでしょう。見たくない、知りたくないと思うかもしれません。でも修行をし続けます。手探りで進み続けます。修行とはこういうものです。したいと思っている時にも進めるし、したく釦、と思っている時にも同じように進めます。ただ修行し続けるのです。
 修行に熱が入れば、「信」の力が私たちの行為に活力を与えてくれるでしょう。しかしこの段階では私たちにはまだ智慧がありません。たとえ私たちが活力に満ちていたとしても修行から得るものは少ないでしょう。長い間修行を続けても正しい道に向かっていないのではないかと感じるかもしれません。平穏や静寂を見いだすことが出来ない、あるいは修行を行うための準備が充分でないと感じるかも知れません。あるいはまた正しい道に達するのはもはや不可能と感じるかも知れません。それで私たちは締めてしまうのです!
 この時点では私たちはとりわけ注意深くあらねばなりません。根気と忍耐とを最大限に発揮しなければなりません。これはまさに大きな魚を引き寄せるようなものです。手探りで目的とするものをゆっくりと手に入れます。獲物を注意深く引き寄せます。獲物との格闘もさほど困難なものではないはずです。そして休むことなく獲物を引き寄せるのです。
 しばらくすれば魚は疲れ果て、抗うのを止めて容易に捕らえることが出来るようになります。通常、物事はいつもこんな調子であり、私たちは修行により、ゆっくりと目的を遂げるのです。
 私たちが瞑想するときはこのようにします。もしブッダの教えの論理的な側面に関して特別な知識や学識を持ち合わせていない場合は日々の生活に照らし合わせて熟考するようにします。既にも持ち合わせている知識、日々の経験から得た知識を使うのです。このような知識は心に自然に備わっています。実際、私たちが心の真の姿を観察してもしなくてもそれは既に今ここに存在しているのです。私たちが知っていようがいまいが心は心なのです。
 私たちはブッダがこの世に降誕してもしなくてもすべての事物があるがままに存在していると言いますがそれはこのためです。すべての物事はその本性に従ってすでに存在しています。このような生来の状態は変わることがないし、どこかへ行ってしまうこともありません。ただそのようにあるだけです。これが真理の法(sacca dhamma)と呼ぼれるものです。しかしこの真理の法についての理解がなければ私たちはにそれを認識することはできません。
 そのようなわけで私たちはこのように熟考する修行を行います。もし経典に長けていないならば心そのものを学習と読解の材料とします。休むことなく深い考察(文字どおりには自分自身との対話)を続ければ徐々に心の性質についての理解が生じるでしょう。何ごとも無理に行う必要はありません。(続く)