★瞑想に出会ったのに(1) Cells at work!(働く細胞/全然できない)
合宿が始まる前も、「私は一個の細胞です」と仕事をした。イライラは減っていた。ずっと失っていた「やる気」が出てきた。仏教はすごい、と実感していた。
仏教なんて、欲を捨てろという割には高級車に乗って酒を飲むお坊さんを見て、言ってることと行動が合ってないと思っていた。が、テーラワーダ仏教というものがあったのだ、日本の仏教とは違うものがあったのだと、魅了された。
合宿が始まると初心者だけ別室で瞑想を教わった。拍子抜けするほど簡単だが、出来ないのだ。出来ない、というのは2段階あって、まずその姿勢が取れなかった。座禅のように足を組んで背骨を伸ばして頭のてっぺんを天井に向ける、という簡単なことが、デスクワークで股関節と肩が凝り固まった私には出来なかった。座布団で調整してなんとか態勢を整えた。
次の出来ない、とは、とにかく痛みに耐えられない。不思議なもので、なぜか両肩だけが痛かった。座る瞑想の時も、歩く瞑想の時も、とにかく肩が痛い。痛みが出てきたら、痛みにラベリングするのだが、ラベリングしても、痛みは消えない。たっぷり瞑想するために来たのに、痛みに向き合うことになるなんて。痛みのせいで、他の雑念が出てこなかった、という意味では良かったと言える気もするが……。
合宿中の毎朝の読経と長老の法話が楽しみだった。読経はパーリ語だが日本語訳が付いていて、それが興味深い。「この身体は厭わしい、身の毛もよだつ悪臭を放つ汚物です」って、こんなに的を得た面白い表現があるだろうか。生物の教科書にもこのように書いたらいいのに。
大人数で行う慈悲の瞑想も好きだった。でも、欲深いくせに自分の幸せを願うことには違和感があった。自分の幸せを願えないとは、一種の病気であると知った。魚が泥水よりも、よりきれいな水の中に住みたいと願うように、自分の幸せを願うことは当たり前のことだと知った。
約一週間の瞑想合宿は、瞑想がちっともうまくいかず、痛いままで終わった。でも、仏教の面白さに出会えて幸せだった。これからも、「一個の細胞です」で生きるのだ。
★瞑想に出会ったのに(2) Mad Max (阿修羅の仲間入り)
何しろ肩が痛いので、瞑想をしなくなってしまった。でも、私には魔法のフレーズがあった。「私は一個の細胞です」と一生懸命に仕事した。それに、瞑想合宿の最終日、何年も参加されている女性が「慈悲の瞑想を寝る前にすると、いつの間にか、周りの問題がなくっていたんです」と言っていた。だから、やらない理由はない。私も慈悲の瞑想をしたし、長老の本や法話のブログを読みまくっていた。うまくいっていた。イライラも減って、順調に行っているように見えた。ところがである。
何度も繰り返し同じ質問をしてくる人事部長に怒ってしまったのである。心の中のイライラではなく、声に出して怒ってしまったのだ。信じられなかった。評価に響くであろう「人事部長」にである。
呆然とした。仏教を知り、慈悲の瞑想を実践しても、これかい!?せめて人間として生きてたつもりだったのに、怒りの阿修羅の世界から出ていなかった。何が間違っていたのだろう。うまくいっていたと思ったのに……。
ググった。会社帰りに寄れるクラブではない。瞑想会はないだろうかと探して、見つけた。大都会の飲み屋街の真ん中で、タイのお坊さんが教えていた。渡りに船だ、とすぐに参加した。参加者は私を入れて3人。初参加の方はちょっと待っていてと言われ、他の二人に教えている待ち時間にボロボロ泣いた。相当追い詰められていたのかも分からない。理由も分からずにとにかく泣いた。
場所が狭いので立つ瞑想と椅子での瞑想を習った。言葉のラベリングをしないタイプの、呼吸や感覚を感じる瞑想だった。水を飲む観察をする瞑想もした。落ち着いた。
帰り際にお坊さんに「あなたは連れてきているよ」と言われた。聞き間違えたのかと思ったが、もう一度言われた。「あなたがお寺(お坊さん)に行くことを知って、成仏したい存在が一緒にここに来ているよ」と言われた。勘弁してくださいよ。もう御免だ、そんなスピリチュアル的なことは、と思った。
だが、なぜ理由もなく泣いていたのか。ひょっとして私じゃなくて霊が泣いたのかな、なんて、言い得て妙なところがあったし、戒を守り出家しているお坊さんがわざわざ嘘をつくだろうか、とも思い、とりあえず保留にして、何回か通った。
参加人数が少なかったこともあり、お坊さんとも参加者達とも、とても仲良くなった。お坊さんの家のそばの法華経の寺院へ行って一時間も太鼓を叩いて、喜んだ住職にお茶をごちそうになったり、タイのお坊さんが出かけていく先に同行して読経したり、一緒に過ごす時間が多くなっていった。
怪しい人ではないと分かってきたので、お祓いをしてもらった。1時間以上お経をあげてもらった。その間、私はずっと身体がおかしな風に動き、泣きっぱなしだった。これが、思い込みの催眠的なことだったのか、本当に憑いていたのか分からない。
この期間は座る瞑想をけっこうやった。ラベリングをしないタイプだったので、瞑想しているつもりで妄想に耽っていた時間のほうが多かったかもしれない。
イライラが減ったことは確かだった。
しかしである。ここで、お坊さんと法友(だと思っていた人)を拠り所にするのではなく、ブッダの「教え」を自ら確かめなければならないと痛感する出来事が起きた。『自灯明・法灯明』を実践しなければならない。お坊さんと法友に依存していては成長しないと反省する事柄を体験し、ここへは通わなくなった。
そして、人事部長に怒った件は、怒りを消したのではなくて怒りを抑えつけただけだったのである。慈悲の瞑想をしているという自分に酔い、効果がゼロではなかったが、我慢が高じて爆発したのだった。(続く)