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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

Web会だより

『脳内映画館からの脱出』(New New Chinema Paradise)』(3) by セス・プレート

★瞑想に出会ったのに(1) Cells at work!(働く細胞/全然できない)
 合宿が始まる前も、「私は一個の細胞です」と仕事をした。イライラは減っていた。ずっと失っていた「やる気」が出てきた。仏教はすごい、と実感していた。
 仏教なんて、欲を捨てろという割には高級車に乗って酒を飲むお坊さんを見て、言ってることと行動が合ってないと思っていた。が、テーラワーダ仏教というものがあったのだ、日本の仏教とは違うものがあったのだと、魅了された。

 合宿が始まると初心者だけ別室で瞑想を教わった。拍子抜けするほど簡単だが、出来ないのだ。出来ない、というのは2段階あって、まずその姿勢が取れなかった。座禅のように足を組んで背骨を伸ばして頭のてっぺんを天井に向ける、という簡単なことが、デスクワークで股関節と肩が凝り固まった私には出来なかった。座布団で調整してなんとか態勢を整えた。
 次の出来ない、とは、とにかく痛みに耐えられない。不思議なもので、なぜか両肩だけが痛かった。座る瞑想の時も、歩く瞑想の時も、とにかく肩が痛い。痛みが出てきたら、痛みにラベリングするのだが、ラベリングしても、痛みは消えない。たっぷり瞑想するために来たのに、痛みに向き合うことになるなんて。痛みのせいで、他の雑念が出てこなかった、という意味では良かったと言える気もするが……。
 合宿中の毎朝の読経と長老の法話が楽しみだった。読経はパーリ語だが日本語訳が付いていて、それが興味深い。「この身体は厭わしい、身の毛もよだつ悪臭を放つ汚物です」って、こんなに的を得た面白い表現があるだろうか。生物の教科書にもこのように書いたらいいのに。
 大人数で行う慈悲の瞑想も好きだった。でも、欲深いくせに自分の幸せを願うことには違和感があった。自分の幸せを願えないとは、一種の病気であると知った。魚が泥水よりも、よりきれいな水の中に住みたいと願うように、自分の幸せを願うことは当たり前のことだと知った。
 約一週間の瞑想合宿は、瞑想がちっともうまくいかず、痛いままで終わった。でも、仏教の面白さに出会えて幸せだった。これからも、「一個の細胞です」で生きるのだ。

★瞑想に出会ったのに(2) Mad Max (阿修羅の仲間入り)
 何しろ肩が痛いので、瞑想をしなくなってしまった。でも、私には魔法のフレーズがあった。「私は一個の細胞です」と一生懸命に仕事した。それに、瞑想合宿の最終日、何年も参加されている女性が「慈悲の瞑想を寝る前にすると、いつの間にか、周りの問題がなくっていたんです」と言っていた。だから、やらない理由はない。私も慈悲の瞑想をしたし、長老の本や法話のブログを読みまくっていた。うまくいっていた。イライラも減って、順調に行っているように見えた。ところがである。
 何度も繰り返し同じ質問をしてくる人事部長に怒ってしまったのである。心の中のイライラではなく、声に出して怒ってしまったのだ。信じられなかった。評価に響くであろう「人事部長」にである。
 呆然とした。仏教を知り、慈悲の瞑想を実践しても、これかい!?せめて人間として生きてたつもりだったのに、怒りの阿修羅の世界から出ていなかった。何が間違っていたのだろう。うまくいっていたと思ったのに……。

 ググった。会社帰りに寄れるクラブではない。瞑想会はないだろうかと探して、見つけた。大都会の飲み屋街の真ん中で、タイのお坊さんが教えていた。渡りに船だ、とすぐに参加した。参加者は私を入れて3人。初参加の方はちょっと待っていてと言われ、他の二人に教えている待ち時間にボロボロ泣いた。相当追い詰められていたのかも分からない。理由も分からずにとにかく泣いた。
 場所が狭いので立つ瞑想と椅子での瞑想を習った。言葉のラベリングをしないタイプの、呼吸や感覚を感じる瞑想だった。水を飲む観察をする瞑想もした。落ち着いた。
 帰り際にお坊さんに「あなたは連れてきているよ」と言われた。聞き間違えたのかと思ったが、もう一度言われた。「あなたがお寺(お坊さん)に行くことを知って、成仏したい存在が一緒にここに来ているよ」と言われた。勘弁してくださいよ。もう御免だ、そんなスピリチュアル的なことは、と思った。
 だが、なぜ理由もなく泣いていたのか。ひょっとして私じゃなくて霊が泣いたのかな、なんて、言い得て妙なところがあったし、戒を守り出家しているお坊さんがわざわざ嘘をつくだろうか、とも思い、とりあえず保留にして、何回か通った。
 参加人数が少なかったこともあり、お坊さんとも参加者達とも、とても仲良くなった。お坊さんの家のそばの法華経の寺院へ行って一時間も太鼓を叩いて、喜んだ住職にお茶をごちそうになったり、タイのお坊さんが出かけていく先に同行して読経したり、一緒に過ごす時間が多くなっていった。
 怪しい人ではないと分かってきたので、お祓いをしてもらった。1時間以上お経をあげてもらった。その間、私はずっと身体がおかしな風に動き、泣きっぱなしだった。これが、思い込みの催眠的なことだったのか、本当に憑いていたのか分からない。

 この期間は座る瞑想をけっこうやった。ラベリングをしないタイプだったので、瞑想しているつもりで妄想に耽っていた時間のほうが多かったかもしれない。
 イライラが減ったことは確かだった。
 しかしである。ここで、お坊さんと法友(だと思っていた人)を拠り所にするのではなく、ブッダの「教え」を自ら確かめなければならないと痛感する出来事が起きた。『自灯明・法灯明』を実践しなければならない。お坊さんと法友に依存していては成長しないと反省する事柄を体験し、ここへは通わなくなった。
 そして、人事部長に怒った件は、怒りを消したのではなくて怒りを抑えつけただけだったのである。慈悲の瞑想をしているという自分に酔い、効果がゼロではなかったが、我慢が高じて爆発したのだった。(続く)

サンガの言葉

『段階的に進めるブッダの修行法』(1)

はじめに ―波羅蜜について―
 翻訳シリーズの第1回目として十波羅蜜についてお送りいたします。
 波羅蜜とは何でしょうか。パーリー語ではpāramī(パーラミー)と言い、それに漢字を当てはめたものです。その意味は、といいますと英語でも様々な訳が付けられています。virtue(徳)、perfection(完成、完全)、quality(資質)。あえて日本語に訳すとすれば、「人格完成に必要な資質、徳」というところでしょうか。
 なぜ波羅蜜を成長させる必要があるのか?
 「ブッダの十徳」の中に、明行具足(vijjā caraṇa sampanno)という言葉が出てきます。智慧と徳行を兼ね備えたという意味です。悟りへの道は瞑想による智慧の成長だけでなく、徳を積み重ねて行くことによって完成されるようです。それでは、どのような徳を身につけて行けば良いのでしょうか。それを示したのが十の波羅蜜で、布施、持戒、離欲、智慧、精進、忍辱、真諦、決定、慈悲、捨、の十です(用語として「十波羅蜜」と称されます)。ブッダは前世において、膨大な時間をこの波羅蜜を積むことに費やしました。

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 ブッダ前世の物語である「ジャータカ」に次のような話があります。

 何劫もの昔、菩薩(悟りを開く前の、修行中のブッダ)がスメダ・バラモンとして生まれた時、生まれ、老い、死んで行くことは悲しみであると思いました。彼は再生からの解脱を求めて修行者になりました。ある時彼は、人々がディーパンカラ・ブッダ(燃灯仏)の行く道を掃き清めているのを見、喜んでそれに加わりました。ディーパンカラ・ブッダはスメダの仕事が終わる前に彼に近づきました。スメダは大いなる帰依の心から泥土の上に身を投げ出しました。彼はいつの日かブッダ(覚者)になろうという大きな思いを抱きました。ディーパンカラ・ブッダは、スメダの願いは必ずや満たされるであろうと明言しました。スメダは、これからの数え切れぬ菩薩としての生において、ブッダになるために十の波羅蜜を育てて行かねばならぬと思いました。
 他の生命の幸福のために波羅蜜を積み、ブッダになろうと言う菩薩の決意は揺らぐことがありませんでした。彼は常に他の生命の苦を軽くしてやりたいという思いを持っていました。そのためならば自らの生命を与える用意もできていました。大きな困難や障害に直面した時でも、彼はブッダになるという最終目的にすべての心を向けていました。彼は私たちに対する慈悲の心から、私たちもまた悟りを得られるよう、不断にそして熱心に波羅蜜を実践しました。
 菩薩はディーパンカラ・ブッダの前で、自らもブッダになるという決意をしました。そしてその後に続く23人のブッダの前でもこの決意を表明しました。彼はこれらのブッダ達の教えに耳を傾けました。そして、ヴィパッサナーによる洞察がブッダ第一の教えですから、菩薩は十の波羅蜜を育てると共に四念処(身・受・心・法へのヴィパッサナー)を育てて行かねばなりませんでした。さもなければ、ブッダとしての悟りを開くことができなかったでありましょう。
 私たちは数え切れぬ生において、多くの煩悩を積み重ねてきました。それが時に応じて不善業(アクサラ)が起こる条件になっているのです。その煩悩のために、ブッダの数えの道を歩むに十分な力を持ち得ません。それゆえ私たちは、現実を正しく理解する力を育てながら、すべての善行を積み重ねる必要があるのです。
 私たちは正しく悟りを開くようには定められていません。しかし、四念処(ヴィパッサナー)と共に波羅蜜を成長させるならば、いつかは分かりませんが、ある日、ある生において悟りを得る条件を作り出しているのです。波羅蜜の成長においては、私たち自身の利得を期待すべきではないでしょう。私たちの目的は煩悩の根絶にあるのです。もしそれが目的になっていないならば、布施も、持戒も、他の徳行も、悟りへと導く波羅蜜にはならないでしょう。(ニーナ・ヴァン・ゴルコム『The Perfections leading to Enlightenment』より)

 私たちの中には瞑想に役立つ三つの資質があります。布施、持戒、慈悲です。しかしこれだけではありません。どんな精神生活にも必要な、育てていくべき資質が他にもあります。それらは波羅蜜(pāramī:パーラミー)といいます。最高を意味するparama(パラマ)から来た言葉です。波羅蜜の種子は私たちの中に既に蒔かれています。私たちは可能性として自らの中に波羅蜜の資質を持っています。それゆえ、私たち自身でなすべきことがあるのです。とは言え、私たちが本気で取り組まなければ、心の運命の支配者ともなりうるような強固で不動の精神を手に入れることはできないでしょう。
 私たちは常に、他者の感情や善意、自分の周囲のものや楽しみに左右されがちです。こうしたものに依存する限りは、私たちはそれらの奴隷なのです。奴隷でいることはあまり快適な生き方とは言えません。それは多くの不安を伴います。誰しもがいくらかの恐怖感を抱いていますが、他者や外部環境に依存して生きれば、思想と行動の自由を得ることはできないのです。そして思想と行動の自由こそが、私たちを最終的に解放することができるものなのです。それは私たちが何でもしたいことをする、ということではありません。思想の自由とは、自立した思索家であり、独自の考えを持つことが出来、自らの行動を決定することができるということです。(つづく)