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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『懺悔物語 極悪の聖者-アングリマーラの光と闇 ③』

 ●殺人鬼と化していたアングリマーラの人生は偉大な師との出会いにより劇的な回心をとげ、新たな仏弟子としての修道生活に入ることができた。しかし血まみれの惨劇を繰り返した彼の心がいかばかりであったかが「テーラガータ887」の偈(詩句)にいみじくも表現されている。


 「あるいは森の中に、あるいは樹の下に、あるいは山の中に、あるいは洞窟に、いたるところで、わたしはその時、おびえた心をもって立っていた」
 これは、アングリマーラの瞑想修行が破綻していた表現として読めるだろう。どうしても瞑想に集中できず、「森の中に、樹の下に、山の中に、洞窟に……」と必死で座所を替え、心機一転しようとしている姿が髣髴とする。


 瞑想が上手くいかないのは劣悪な環境のせいだと、近隣の生活音や目障りな修行者を敵視し、座る瞑想→歩く瞑想→喫茶の瞑想……と、せわしなくやり方を換えたりする人に何人も出会ってきた。


 物が壊れていたり、何か不具合が見つかった瞬間、「誰だ!やったのは……」と、まず最初に他人を疑い、自分のせいだとは思わない傾向も普遍的である。
 人の心は、真っ先に内省や懺悔をするようにはできていない。生まれた時から自己中心的な視座が設定されており、意識的に修行しない限り、自分を対象化したり客観視したりはしないものだ。長じて痛い目に遭いながら、外界が思い通りにはならないのだと覚った時に初めて、意識の矢印を自分自身に向けてみるのが順番である。瞑想が上手くいかないのは、場所が悪いのではなく、自分の心に問題があるのではないか……と。


 捨て置けば風化していくかすり傷の自責の念もある。痛くても、辛くても、根本原因に向き合い、根っこから引き抜かなければならない深傷の罪業感もある。
 その感受性には個人差があり、微罪を怖れる人もいれば、相当の悪をしながらふてぶてしく居直るタイプもいる。表面意識のエゴ感覚と深層の本心は常に乖離する傾向があるが、アングリマーラほどの極悪がなされれば徹底した懺悔の瞑想をしない限り、自己客観視を旨とするヴィパッサナー瞑想の修行を進めることは不可能だったはずである。
 幼かった頃、人差し指の付け根に棘を刺し、すぐに抜いたが途中で切れてしまい、根っこを残したままカサブタが固まってしまった。やがて魚の目が形成され日増しに巨大化し、ついにメスでえぐり取る外科手術の激痛に泣き叫ぶことになった……。
 一点集中型の瞑想なら、強引な集中力の荒業で乱心を鎮めることができる者もいない訳ではない。しかし、それとても一時的に抑圧が功を奏しているに過ぎず、サマーディが解ければ心の闇に苦悶するのは必至である。


 アングリマーラがサイコパスだったなら、平然と瞑想修行を続けたのではないか……という仮説は成り立たないだろう。大胆不敵を通り越し、人を殺しても白菜をザク切りにするようにしか感じない、先天的に恐怖心の欠如したサイコパス脳の持主が「怯えた心」で苦しむことはないからだ。
 アングリマーラの犯してきた悪行の凄まじさは、眼を背けたり抑圧できるレベルのものではない。「テーラガータ」に史実として垣間見えるのは、己の罪業に怖れおののき怯えた心で立ち尽くしている姿である。そんな罪深い心が、懺悔の行なしに煩悩を滅尽させ、究極の清浄心である阿羅漢果に到達することはない。
 いったいアングリマーラはどのような懺悔の修行をしたのだろうか……。その具体的なやり方は杳として知れないが、中部経典第86「アングリマーラ経」 に次のような出来事が記されている。


 ……ある日、アングリマーラは托鉢の食を乞うサ-ヴァッティの街で、難産に苦しむ婦人を見た。そのとき彼に憐れみの心が生じ、こう思った。
 <ああ、人々はドゥッカに苦しんでいる。実に、生きるものは苦にあえいでいる……>


 このような所感が得られたからには、アングリマーラの懺悔の修行はこのときほぼ完了していたのではないか、と推測することができる。他者のドゥッカ(苦)に憐れみの心が生じたからには、自分自身の後悔や自己呵責の苦しみからはほぼ解放されていただろう。己の真っ黒い心に打ちのめされている者の口から「実に、生きるものは苦にあえいでいる」と達観する言葉が洩れるはずはないからだ。
独力で懺悔の行を見出したのか、ブッダの指導があったのか。そのプロセスを伝える典籍は不明だが、「テーラガータ890」のアングリマーラの言葉には「邪悪の根本を吐き出した」という表現が見られる。


「邪悪の根本」とは、罪業感や自責の念など自身に向けられた怒りも、怒りのルーツである無明の闇も、ドゥッカ(苦)の因となるドス黒いものはことごとく吐き出された……という意味だろう。アングリマーラの懴悔の修行がやり遂げられ完了したことの証左と言える。


 「アングリマーラ経」を読み進めると、托鉢から帰ったアングリマーラがブッダに礼拝し、その日、難産に苦しむ婦人を見たと報告している。それに対するブッダの指導には鮮烈な印象を受けた。彼の報告を聞いたブッダは次のように言う。


「アングリマーラよ、それではもう一度サ-ヴァッティへ行くがよい。行って、その婦人にこのように告げるがよい。婦人よ、私は生まれてからこのかた、故意に生き物の命を奪った覚えがない。このことの真実によってあなたに安息のあらんことを、胎児に安らかさあらんことを、と」


「それでは嘘になります。私は故意に多くの人の命を奪いましたから」


「では、アングリマーラよ、<私は聖なる者に生まれ変わって以来このかた、故意に生き物の命を奪った覚えがない。この真実によってあなたに安息のあらんことを、胎児に安らかさあらんことを……>と言うがよい」


アングリマーラが仰せの通りにすると、婦人は安らかになり、胎児は安らかに生まれた。


 一切智者であるブッダが言い間違いをするはずはない。なぜブッダはこのような言い直しをさせたのだろうか。その意図は、
 「アングリマーラよ、もう過去に囚われてはならぬ。後悔は悪である。かつては殺戮をした者であっても、二度と生きものを殺傷しないという強い意志を持てば慈悲のエネルギーにまで昇華する。
 これまで厳密に殺生戒を守ってきた徳には、苦悩する人を癒す力さえ備わっているのだ。
 過去の悪行を脳裏に浮かべるのではなく、善行に眼を向けよ。
 古い悪を新しい善業で償うのだ……」
と理解することができる。


 この巧妙な言い直しは、ブッダの説法の真骨頂だろう。
 「懺悔の修行とは、ネガティブな過去から解放され、これからはダンマに基づいて正しく、きれいに生きていくと決定し、明るい浄らかな未来形に心を転じていくことだ」とその奥義を示している。
 ブッダの偉大さは、真理の究極を自ら体得されたこと以上に、卓越した説法能力と確実に人を悟らせる指導力にあるだろう。
 我が子を喪い半狂乱になったキサーゴータミーがどんな慰めも説法も耳に入らないと見抜けば、「死人を出したことのない家で芥子の粒を貰ってきなさい……」と導く。
 あるいは、ブッダを口汚く罵倒した男に静かに答える。
 「饗応した食事を来客が食べずに帰れば、その食事は誰のものか。あなたのものだろう。そのように、私もあなたの罵倒する言葉を受け取らない。あなたが吐いた罵詈雑言は、あなたが受け取るのだ……」


 アングリマーラへのブッダの説法は、懺悔修行の核心を鮮烈に心に刻み込んでくれた。
 赦されざるネガティブな過去から解放されるためには、愚かな悪を犯してしまったかつての自分を全否定しなければならない。だが、ひとたび傷つけた者に対し、苦しめた者に対し、裏切った者に対し、我が身を捨てきってお詫びし、赦しを乞い、心底から謝り抜いたなら、意識の矢印を未来に向けて切り換えなければならない。過ぎ去ったことに囚われ、自分を責め続けてはならないのだ。どれほどの悪をした者であっても、心底から懺悔し、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓ったなら、過去に終止符を打ち、生まれ変わるのだ。


 「聖なる者に生まれ変わって以来」とは、「出家して以来このかた」という意味である。アングリマーラは出家した時点で俗世を捨て、ダンマの世界に生まれ変わった筈なのだが、心は忌まわしい過去に縛りつけられたまま森の中に、樹の下に、山の中に、洞窟に、いたるところに……怯えた心で立っていたのだ。


 アングリマーラが真に解放され、聖なる者に生まれ変わることができたのは、徹底した懺悔の修行で過去に終止符を打つことができたからだ。邪悪の根本を吐き出したからである。さらに歩を進めれば、懺悔修行の究極は、赦しの瞑想になると理解すべきだろう。
 愚かで穢れた過去の自分を赦し、受け容れてやらなければならない。赦すことができず、否定し続ける限り、怒りの煩悩がくすぶり続けており、懺悔の修行が完了したとは言えない。
 たとえ自分を深く傷つけ危害を加えた者であっても、憎しみ否定し続けている限り、怒りの煩悩に束縛されたまま死んでいくことになる。どれほど極悪非道な者であっても、最後には赦さなければならない。赦すことによって、ネガティブな情念からの解放が起きる構造だからである。
 その最悪の他者を赦すように、赦されざる最低の所業をしてしまった自分も、正しい手順を踏んで最後に赦さなければならないのである。その心の営みを、赦しの瞑想と言う。


 どうしても赦すことができず、過去を手放せないということは、無常に逆らい、無常の真理を受け容れることができない愚かさである。人の心も体もあらゆる事象は変滅していく……とブッダから学んできたではないか。赦すことができなければ、無常の力を借りるとよい。
 人は必ず過ちを犯すものであり、それは正しい理法を知らぬ無明に由来したことなのだ。悪いのは無知であり、愚かさであって、人ではない。納得のいくまで懺悔をしたならば、赦しの瞑想に徹し、最低最悪だった自分を赦して受け容れてやるのだ。その時、真の優しさである慈悲の心が発露する……。「私よ、幸せであれ!」という一行から慈悲の瞑想が始まる構造が理解されるだろう。


 難産の婦人への説法を承ったアングリマーラは、ほどなく聖なる修行を完成し、阿羅漢となった。


★「愛執を離れ、執着なく、六つの感官の門を守り、よく自ら制御し、邪悪の根本を吐き出して、私は、穢れの滅尽に達した」(テーラガータ890)


 極悪人が実際に聖者に変身するまでに、懺悔の修行は不可欠のものである。悪を犯してしまった者に、アングリマーラ尊者ほど希望の光を与えてくれる存在はいない。過去にどれほどのことをしてしまった者でも、心底から懺悔の瞑想をし、償いをし、ダンマを拠りどころに正しく生きることを開始すれば、やり直すことができない者などいないのだ、とアングリマーラ尊者は静かに語りかけてくる……。


★「私は以前、盗賊であってアングリマーラとして世に知られていた。大洪水のために流されて、ブッダに帰依するに至った」(880)
★「私は以前に血染めの手をし、アングリマーラとして世に知られていた。私がブッダに帰依した姿を見よ。輪廻の生存に導くものは滅ぼされている」(881)
★「悪の生存に至るこのような多くの行ないをなして、悪しき行為の報いに触れたが、今や私は負債なくして、施食を受ける身となっている」(882)
★「誰でも、以前に放逸であっても、後に放逸でないところの者は、雲から離れた月のように、この世を照らす」(872)
★「誰でも、そのなした悪い行ないが、善い行ないによって覆われる者は、雲から離れた月のように、この世を照らす」(873)


 40余年前に道を求めて私が最初に始めた修行は、真夜中に水をかぶり経を読むことであった。滝行もふくめた水の行は以来一日もかかさず17年間に及んだが、今にして想えば、その当初は自分の心と体の穢れを洗い浄めたい欲求に駆られていた。
 もうあのドゥッカ(苦)のドブ泥には二度と戻りたくなかった。心底から聖なるものを求めていた。しかしどれほど過去の記憶を捨てたくても、納得や諒解のいかぬまま忘却の彼方に押しやることはできない。
 一度でもよい、真実に懺悔の修行をやらなければ過去を総括した得心と安らぎが訪れることはなく、したがって他者に対する積極的な慈悲の心が生じることもないだろう。それが人の心の順番である。


 私は誰に教えられるでもなく、私がそれまでに傷つけてしまった一人ひとりの顔を想い起こし、痛切に心のなかで詫び、懺悔をし、赦しを乞いながら謝り続けた。サマタ瞑想の集中で強い実感に没頭し、滂沱の涙が流れ落ちていった。
 ……赦してください。今どこにどうしているのか分りませんが、幸せであってください。残る生涯がよい人生でありますように……、と心からの祈りを捧げた。
 懺悔がやがて純粋な愛念に昇華し、最後には胸が金色に光った。
 毎夜、一晩に一人づつ数時間に及ぶこの心の儀式を続けていくうちにある日、もうよい、と心が納得しフッ切れていったのである。過去は完全に過ぎ去ったものとして消えていき、二度と悪をしないという決意が揺るぎないものとなった。


 これが清浄道の入口に足を踏み入れるための私の懺悔の瞑想であった。上座仏教に縁がつくまでには、神道や修験道、ヨーガ、大乗仏教など、さらに12年の遊行と遍歴を続けなければならなかった。
 人には人の進むべき道があり、宿業の押しやる力に従っていくしかない。思えば、真っ暗な自滅の坂を転がり落ちるように、苦諦の真理を思い知らされるための暗黒の10年だった。吐き気が止まらず、犬のように自室に横たわっているだけになった私を救い出してくれた友が存在したのは、わずかに残った善き宿業のなせる業だったのだろう。
 穢れた自分が新たな修道生活への門をくぐるには、禊の水の行と、黒い塊を吐き出すための懺悔の瞑想が不可欠だった。孤独な私の苦しい修行を支えてくれていたのは、2500年前のアングリマーラ尊者の言葉だった。最低最悪の者でも、やがて雲から離れた月のように、この世を照らすことができるのだよ……と静かに語りかけてくれるアングリマーラ尊者の言葉を何度も泣きながら読み、手本としていた……。(完)

Web会だより

『怒りの根源の発見』(1) K.M.

これまでの人生を振り返ると、何か寂しい気持に覆われて、そこから逃れたくてもがいていているような感じでした。そんな気持ちがあったからでしょう、何かに救いを求めておりましたが、幸いにも変なものに騙されることもなく、大乗仏教を経てヴィバッサナー瞑想に出会うことができました。

◆仏教との出会い
 私が生まれた頃は高度成長期であり、幼稚園と言えばお寺が経営している事が多く、私や近所の同級生や同世代の子供たちは家が近所のお寺の檀家でありましたので、そのお寺の幼稚園に通っていました。幼稚園に行けば毎朝本堂に集められて念仏を唱えて仏像を拝み、天女の絵画を見ては「仏様はあの世(極楽)にいるんだぁ。あの世には綺麗な女の人がいるんだぁ」と信じていましたが、「あの世はきらびやかな世界だけど、死なないと行けない世界なので怖い」と仏教に関しては、憧れる反面、恐れを含んだ想いの感覚を持っていました。
 進学した高校が浄土真宗系の学校だったので、体育館の壇上に阿弥陀様の仏像があり、節目の学校行事の際には、パーリ語の三帰依文を唱えていました。入学式の時に初めて聞いたパーリ語の三帰依文には、「何語?どこの国の言葉?」と不思議な感覚を覚えたものです。
 週に1回宗教の授業があり、八正道等の代表的な仏教教学を学びましたし、日本史が好きなこともあり、各宗旨宗派の事を興味を持って学びました。
 幼稚園の頃から何故かしら「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」を感じてしまう事が多く、小学生の頃もそんな心の状態は変わることなく、中学生になるとその「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」のせいか、訳のわからない事が気になる傾向(机の横に掛けている学生カバンの開閉止め金具を何度も開けたり閉めたりする)等の、今考えれば精神的におかしいのではないかと思うような拘りが顕著になってきました。高校生になっても「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」が無くなることは無かったですし、性格的には相手に気を遣う反面、些細なことから突然喧嘩になる傾向がありました。
 そんなやるせない精神状態から救われたい解放されたい願望は常にあり、大学生になる頃にある密教系の教団の本を目にして「これで今までの問題が解決できる」と思い入信しました。
 以上のような経緯で仏教(大乗仏教)と縁があり、仏教教学・仏教史を学ぶようになりました。そこで初めて大乗仏教には仏陀直説のパーリ仏典を依経とする宗派がないことを知り驚愕したものです。

◆ヴィバッサナー瞑想との出会い
 密教系の教団に入った頃には、「これで社会でも成功して幸せな人生が送れる」と思っていましたが、なかなか自分が思い描いていたような人生とはならず、社会人になり結婚をして娘が一人出来ましたが、自分の不徳故に娘が成人した頃に離婚しました。
 「仏陀の教えを知りたい。苦しみから解放されるのは仏教しかないはずだ」との思いはありましたが、仕事に忙殺される日々が続き仏教に関わる機会が薄い期間を過ごしていました。
 このままでは悔いが残る人生になってしまうと悶々と思っていた頃、母親が肝臓がんで亡くなり、数か月後には軽トラックの荷台から誤って後頭部からコンクリートの床面に転落、頭部を強打し半年間入院する程の大怪我をしました。
 離婚、母親の死、大怪我による長期入院等を経験し、これからの人生どうしたものかと千思万考している折に、知人から日本に原始仏教を布教する日本テーラワーダ仏教協会があるという事を教えてもらいました。それで協会のHPやスマナサーラ長老の本を読んでヴィバッサナー瞑想があることを知りました。そして、その知人から地橋先生のご著書「ブッダの瞑想法ヴィバッサナー瞑想の理論と実践」を勧められました。この様な経緯で私はヴィバッサナー瞑想と出会うことが出来ました。
 テーラワーダ仏教を学ぶとヴィバッサナー瞑想で解脱、悟りに至る事が出来る。苦から解放されるのはやはり仏教しかない。また、そのことを地橋先生は論理的に説明されており、正に苦からの解放は仏教しかないとの思いに至りました。

◆瞑想への着手
 スマナサーラ長老のご著書、地橋先生のご著書を読み、ヴィバッサナー瞑想のやり方を学び実践に着手しました。本だけでは我流に陥る可能性があるので、2019年2月に初心者講習会に参加して初めて地橋先生の指導を受ける事が出来ました。次のステップの瞑想会も考えていましたが、遠方(広島)ということもあって機会を逃している中、コロナウイルス感染拡大という状況に至り、その後瞑想会に参加することなく幼稚ながらも瞑想実践に取り組んでいました。
 瞑想により煩悩を減らして、心を清らかにして、苦を無くしていこうと、少しずつでも取り組んでいました。以前に比べ、煩悩(貪瞋痴)を制御出来ているような気はするものの、幼い頃からある、何か得体のしれない「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」が常に靄の様に心を覆っている感じが拭えず、心随観でその心の状態を観ようとしても、その心の状態を嫌って目を背ける傾向がありました。
 怒ることは不善心であり善くない事と頭ではわかっているのですが、職場やプライベートでも激怒してしまうことが出てしまい、煩悩(貪瞋痴)を滅尽させるために瞑想をしているのに怒ってしまう。時には怒ることを楽しんでいるかのように怒ってしまう。何のための瞑想か?自分には瞑想のセンスが無いのか?やり方が間違っているのか?本気でやる気があるのか?等々紋々と考えしまう事が続いていました。(続く)

サンガの言葉

覚りの道への出発 2022年1月号

今月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話を掲載いたします。今月はその第1回目です。

 覚りの道への出発

1.自然な心を読む
 私たちの修行方法は物事を念入りに観察し、その本質を明瞭にすることにあります。私たちは粘り強く、絶えまなく実践します。しかし急いだり、慌てたりはしません。もちろんゆっくりし過ぎることもありません。徐々に私たちが進むべき道を手探りし、まとめあげていきます。しかしこの道をまとめていく作業には方向性があります。私たちの修行には目指すものがあります。
 私たちのほとんどは単なる欲から修行の道に入ります。私たちは何かを欲して修行を始めるのです。この段階では私たちの欲は正しくない欲です。別の言葉で言えば思い違いをしているのです。それは誤った見解が混じった欲です。
 もし欲がこのような誤った見解と混じることがなければ、それを私たちは智慧(paññā)を伴った欲と呼びます。それは思い違いではなく、正しい理解を伴う欲です。このような場合私たちほその人物が持つ波羅密(pāramī)ないし過去の蓄積によるものと言います。しかしこれはすべての人に当てはまるわけではありません。
 一部の人々は欲を持つことを嫌います。別のことばで言えば欲を持たないことを願うのです。なぜなら修行というものが何も欲しない、ことを目指していると考えているからです。しかしもし欲が無ければ修行することも出来ません。
 欲は私たち自身のためにあると見ることができます。ブッダとその弟子たちは煩悩を終焉させるために修行をしました。私たちは修行したいと思い、煩悩を終焉させたいと思わなければなりません。心の平穏を願い、混乱がない状態を願わなければなりません。しかしもしこの欲求が誤った理解を伴うなら、それは積もり積もって困難を増すだけとなるでしょう。
 誠実な言葉を使えば、私たちは何も知らないのです。あるいは私たちが知っている事は何の結果ももたらさないのです。なぜなら知っている事を正しく用いることが出来ないからです。
 ブッダを含め、誰もが皆このように欲から修行を始められました。心の平穏が欲しい、混乱や苦を避けたいという欲です。この二つの欲はまったく同じ価値を持ちます。理解が伴わなければ、混乱から逃れたいという欲求、苦しみたくないという欲求は共に煩悩となります。これらは愚かな欲求の形、智慧の無い欲です。
 私たちの修行においてはこの欲は官能的耽溺、あるいは自己抑制という形をとります。まさにこの軋轢のなかで私たちの師であるブッダはジレンマに陥られたのです。ブッダは数々の修行法を試みましたが結局これらの両極端に終わるだけだったのです。現代の私たちも事情はまったく同じです。私たちはいまだにこの二極化にさいなまされ、そのために正しい道からはずれてばかりです。
 しかし私たちはこのように修行を始めざるを得ないのです。私たちは煩悩にまみれた俗世間の人間として修行を始めます。智慧を欠いた欲求、正しい理解のない欲を持って。正しい理解を持ち合わせていなければ、この二種類の欲は私たちに良くない働きをします。それが欲することであろうが欲しないことであろうが渇愛(taṇhā)の域を出ないのです。
 私たちがこの二つの事を理解していなければ、これらが立ち上ってきた時にどう対処したら良いか分からず途方に暮れることになるでしょう。私たちは前に進むのも正しくない、後ろに引き下がるのもまた正しくないと感ずることになるでしょう。何をしても更なる欲求を見いだすだけとなるのです。これは智慧の欠如が原因であり、また渇愛が原因です。
 私たちはまさにここ、欲することと欲しないことによって法(Dhamma)を理解することができるのです。私たちが探し求めている法はまさにここにあるのです。しかし私たちにはそれがわかりません。むしろ欲求することを止める努力に固執するのです。私たちは物事をある型にはめたいと願い、それ以外を嫌うのです。あるいは物事が型にはまらないことを願いながら別の型にはめたいと願うのです。本当はどちらも同じことです。同じ二極化の一部なのです。
 私たちはブッダとその弟子たちすべてがこの種の欲求を持っていたことを実感できないかもしれません。しかしブッダは欲すること、欲しないことがどのようをものか理解したのです。ブッダは欲することも欲しないことも単なる心の活動で、瞬時に現われては消えていくものであることを理解したのです。この種の欲は絶え間なく続きます。智慧があればそれらを自分と同一視することはあはせん。欲すること、欲しないこと、いずれもただあるがままにみるだけです。現実にはそれは単なる自然のままの心の働きです。注意深く観察すれば自然なこころとはこのようなものであると明瞭に見てとれるのです。(続く)