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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『病気になったら……』(1)

 現在休止中ですが、かつては10日間の瞑想合宿を定期的に行なっていました。ある合宿の時に、一人の瞑想者の具合が悪くなり、病床に臥せてしまったことがありました。合宿が始まってから風邪を風邪を引いたり体調を崩した方は、それまでにも何人かいましたが、この方はかなり深刻でした。
 合宿前夜の23時にニューヨークから帰国し、時差ボケに過労が重なった最悪の状態で参加された男性の方でした。
 良い瞑想をするためには、事前に体調を整えて合宿入りするのが望ましいのですが、在家の悲しさ、直前までヘトヘトになって休暇の段取りをつけなければならないのが実情です。せっかくの瞑想合宿が始まったのに、最初の一日二日は頭の中で世俗の残響音が鳴り続けて妄想が氾濫、ダンマモードになかなか切り換わらない人も少なくありません。
 この瞑想者はそれどころではなく、身体レベルにまで無理が及んで、2日目の午後から発熱と嘔吐、頭痛、全身の倦怠感に襲われダウンしてしまいました。体調不良や風邪程度なら瞑想で治す方法があるのですが、この方は、そのような瞑想ができる状態ではなかったのです。そこで、飲料水以外に何も口にしない短期の断食を試みてもらったところ、予想にたがわず約48時間後にはほぼ完治し、瞑想修行を再開することができました。


*断食


 私は、50時間ほどの短期の断食なら年間40回も繰り返すような断食マニアだったので、その効能も危険性も心得ているつもりでした。のみならず、そんな道場主に倣って、多くの瞑想者が合宿最中に一日断食を試み、体の浄化をはかったものでした。その結果、断食の進行も、反応も、身体の個人差というものがどれほど大きいものか、期せずしてデータが集積されていきました。
 断食の最初から最後まで、何事もなく瞑想修行を続けながら終了する人もいれば、まる二日間寝てばかりで、まったく修行にならない人も実にさまざまなのです。しかしほぼ全ての人が、やらないよりは断食をやって良かったという感想を述べました。長期間の断食になるほど効能も危険度もいや増し、終了後の復食期に死亡する人さえいるのですが、短い断食ならどんな荒っぽい解き方をしても死ぬことはありません。
それでも、他人の身体には予想もつかない事態が起き得るので、この瞑想者には非常に神経を使い、消灯後、深い瞑想に入って痛切に回復を祈りもしました。ハラハラしながらも結果的には、断食のデトックス効果が見事に現れて、彼の体はきれいに浄化され、意識も冴え渡り、長らくの課題だったヴィパッサナーのサマーディ体験まで得られて合宿を終えることができました。


*病気に謝る瞑想


 病気が軽症だった場合には、まず慈悲の瞑想を試してみるとよいでしょう。
 慈悲のコンセプトを確認するだけでも、心身にもたらされた不調和が是正される可能性があります。どんな病気にも心理的要因があり、思い違い心得ちがい考え違いに気づいて、認識が改まるだけで身体症状に影響が及び始めるものです。これは私自身が何度も検証を重ねて確認してきたことです。そこで、合宿で風邪を引いた人や体調を崩した人には、まず慈悲の瞑想をやりなさいとその意義を念入りに説明します。
 もし身体が外界の環境と完全に調和して命の営みがなされているなら、人は基本的に健康であり、不具合が生じたり病むことはないのです。大自然の宇宙的現象の必然の流れで発生してきた生命は、本来的に自己完結しているはずだからです。
 しかるに実情はどうでしょうか。宇宙の摂理に反する諸々の愚行を繰り返していることに気づかず、暴飲暴食を重ね、自分自身を傷つける考え方や心理状態を放置していなかったでしょうか。病むのも健やかなのも、どのような事象にも生起する原因があり、具合が悪くなったからには必ずその病因があったはずです。
 だから、まず自分の体に謝りましょう。愚かにも自分で自分の体を傷つけ、負荷を与え続けてきた監督不行き届きを自分の体に謝るのです。細胞の一つひとつに対して申し訳なかった、苦しめてしまってゴメンナサイ、大変だったね、悪かったね、とお詫び申し上げるのです。このように自分自身に対して心から懺悔と慈悲の瞑想をして、さらに周囲の人にも、有縁無縁の全ての人々にも、慈愛のバイブレーションを及ぼしていくのです。
 一切の私語が禁じられた沈黙行に徹する瞑想合宿で一人病んでいる時に、このようなことを言われると大抵の方は心に沁みるものがあり、反省モードお詫びモードになります。そして懺悔モードから慈悲モードになって瞑想が深まっていくと、翌日には治りました!元気になりました!と目を輝かせて報告され、こちらが驚くほどでした。


*病の床でのサティ


 病床でのオーソドックスなサティの瞑想はどうやればよいのでしょうか。
 気づきのテクニックは基本的に変わりませんが、中心対象を定めない「六門開放型」が推奨されます。病を得れば気力・体力が衰えるので、注意を一方向へ注ぎ続けるのが難しくなるからです。心は基本的に散乱しやすく、一点集中にはエネルギーを要します。努力して集中力を高めていくサマーディよりも、受動性に徹するサティを重視した方がよい所以です。中心対象は設定せずに、とにかくサティが続けばよしとして、眼・耳・鼻・舌・身・意のどの門からの情報にも必ず気づきを伴わせていくのです。体が動けば必ず影も動くように、です。
 意識に触れたものは全て無差別平等にサティを入れる。
 たとえ気力も体力も落ち込んで集中する力が萎れてしまった時でも、なんとかこの仕事だけはやれるものです。例えば、「触れている(背中が)。触れている(ふくらはぎが)。聞いた(物音を)。痛み。不安。連想。(リタイアして帰ろうか)と思った。熱い(体が)。寝返り。当たった。重い(布団が)。ねじる。圧迫感……」といった具合です。
 病気になれば力んだり気負ったりするエネルギーも無くなるので、受け身に構えて淡々と観じきっていくサティが平素よりやりやすくなるかもしれません。弱々しいサティであっても<現象→サティ→現象→サティ→>の持続・維持だけに特化すれば、思いの外きれいにサティが続いていくものです。


*仮作された苦、真実の苦


 ここで最も重要なポイントは、気づきの矢印を生理的・肉体的実感のみに向けていくことです。事実から来るセンセーション(身体的実感)と、思考やイメージ、感情など心の想いがごちゃごちゃに投影された苦痛(心理的印象)との質的差異を感じ分け、見究めることがポイントです。すると、現実の感覚にダブって付随している心理的混乱や不安、恐怖などの妄想部分がきれいに分離され、識別され、剥がれ落ちて雲散霧消していきます。
 病気の苦(ドゥッカ)が超克できるか否かは、実にこの一点に懸かっています。
 肉体的苦痛をただ苦受のみに止めて、心理的・精神的な苦の要因を介入させないことが眼目であり核心です。悟りを開いた後に病を得た阿羅漢の聖者たちが、その病苦をどのように見送って凌いでいたのかもここから推察できるかもしれません。


*病という修行現場


 具合が悪くなれば、ヘラヘラ笑ったり、にやけている余裕はなくなり、誰でも真剣に病状と向き合わざるを得ないでしょう。身の随観をする絶好のチャンスです。身体が無常に変滅していくものであることを否応なく痛感させられ、なぜ体調を崩したかに思い当たる節があれば、身体現象の無常性のみならず因果性も検証することになるでしょう。
 それまで健やかでいられたのは、無量無数の幸運な条件に恵まれていただけであり、一瞬にして崩れ去っていくものでしかなかったことが思い知らされるのです。
 人を苦しめるのは、病の身体的苦痛ではなく、心の中で化け物のように膨れ上がっていく不安と恐怖の妄想です。どうしよう、どうしよう、と心配や怖れでパニックになれば、痛みが固定的な実体として存在し続け、永遠に、死ぬまで苦しみ抜くのではないか……と妄想してしまうのが、巨大な脳を搭載した人間の宿命です。
 どんなに衰弱し、どれほど意識が朦朧としても、目覚めている限り、人の妄想は止まることがありません。「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」のです。
 それが人の心というものです。心は心の論理と法則によって、妄想は次の妄想を生み、心の反応パターンが叩き出す連想が必然の力で次の連想に繋がっていきます。
 だが、心得ておきましょう。ヴィパッサナー瞑想の真価が発揮されるのは、まさにこんな時にです。毎日、毎夜、たとえ時間は短くても、野生の暴れ馬のようにワイルドな心を制御し、調教し、浮かんでくるどんな妄想にもサティを入れ、淡々と見送っていく訓練を重ねてきたのではないですか。
 熱病も、激しい痛みも、胸苦しさや息苦しさも、苦痛の肉体的実感だけを純粋に知覚し、最強の痛点部分を確かめ、その一点に痛みが生起してくる一瞬と、滅し去る一瞬にサティを入れ、その痛覚の質や度合いが変滅していく過程を観察し、検証していくのです。
 その現場で本当に起きているのは、何なのでしょう。高熱や苦痛に喘ぐ『ワタシ』が本当に存在しているのでしょうか。それとも、苦痛の感覚を知覚する心と、その事実を認知するサティの心だけが、刹那刹那に生滅しているだけなのでしょうか……。(この項続く)

Web会だより

『心と向き合って -赦し、懺悔、そして慈悲の修行へ-』 (2) 匿名希望

(承前)
 実はこんなこともありました。赦しの瞑想を始めたころ、集中してやり終わった後に心は軽くなったのですが、何故か自分がとても無防備なってしまった感じで、心細いような怖いような気分になったことがあるのです。例えるなら、今まで憎い相手に対してこちらも敵愾心をもって刃(やいば)を手にして立ち向かっていたのに、急にそれを捨ててしまったような感覚です。相手を赦すのは良いけれど、それを機会に憎い相手が自分に攻撃をしかけてくるのではないか? 敵愾心や憎しみを捨ててしまって自分の身を本当に護れるのだろうか? そのような恐怖感でした。そんな気持ちになったのは初めてでしたが、それでも私はそのまま赦しと懺悔の瞑想は続けていきました。

変化
 変化が現れたのは、会社での人間現関係においてです。
 以前なら、これは絶対にムカムカしたり嫌っていたに違いない他者の行動を、反応せずに受け流し、手放すことができる頻度が増えてきました。ちょっとしたことに対して刃を向けて戦闘態勢に入っていた自分が、その刃を鞘に納めたまま自分と他者を観察できるようになってきたイメージです。それはまた、他者の行動に反応し、蒸し返して怒り続けるよりも、手放した方がはるかに自分にとって楽なのだという視座が新たにインストールされたような感じでした。
 もちろん、まだすべての状況でそうしたことが観察できるわけでなく、嫌悪や怒りが出てしまうこともありますし、また、「戦闘態勢にならなくて大丈夫かな?」という恐怖感や違和感も少しは残っています。ですが私は、こうした恐怖感を自覚することで、他者を赦す修行をする以前には「赦し」という鞘をもたずに怒りという刃をいつも手にして家族や職場の人たち、そして友人ともずっと接してきたのだなとわかり、ショックを受けました。
 また私はこれまで、この人は優しくて素敵だなと感じたり、また仲良くなりたいと思った時に、なぜか空回りしてしまってうまくコミュニケーションが取れなかったことが多くありました。なぜそうなったか。それは、特定の誰かに怒りの刃を向けながらそれを手にしたまま、それとは関係ない人とも接していたのだな、また、潜在意識のレベルでは向けるべきでない相手にも怒りの刃を向けてしまっていたのではないか、と気づきました。そのため、私が仲良くなりたいと思った人でも誰かを憎んで刃を握っている私に気づき、自ずと距離を置くようになってしまっていたのだと思い至りました。まだ完璧に刃を捨てるまでにはなっていないのですが、赦しの修行を実践することで怒りの刃を鞘に納めた状態で他者と接することもできるようになり、自分自身が楽になったと最近では実感しています。
 このように、憎んでいた特定の人に対して赦せるようになっていったことで、そうでない人とも接しやすくなり、また自分が楽になったのを実感できたことも、私がこの赦しの修行をもっと深めていきたいと思う強い動機になりました。
 でも、赦しの瞑想に取り組めば取り組むほど、今まであえて観ないようにしていた憎しみや嫌う心にサティが入ります。そのことからも、これは短期間で終わる修行ではなく、これからの人生を通して10年、20年と続けていかなければいけない修行だと痛感しています。

懺悔の瞑想
 赦しの次に私が取り組んだのは懺悔の瞑想でした。
 実は、その懺悔の瞑想と並んで心随観の瞑想をしている時に、不善心に鋭くヒットした気づきがあったのです。それは「自己欺瞞」という言葉でした。
 坐っているうちになんとも言えない重苦しい気持ちになり、サティを試しているうちにハッと衝撃を受けたのがこの言葉です。「自分は、自分を抑圧し偽っていた」こうはっきり理解しました。この言葉が出てきたのは、自分の思うところでは、懺悔、悔い改め系のキリスト教関連のウェブを読んでいたこと、そして朝カルで聞いた「アングリマーラ経」の法話の影響が大きいのではないかと考えています。
 ではなにをもっての「自己欺瞞」なのか、なぜその言葉がヒットしたのだろうか、です。それはおそらく、仏教から離れてしまって段々と心が汚れていき、煩悩を抑制しようとしないまま身口意で不善業をおかしたりしたこと、そしてまたそれから目を背けたり誤魔化したりしていた自分自身の在り方だったと思います。致命的に世の中の法に触れるような悪事を行ったわけではなくとも、再び瞑想を始めたことで、振り返って「あれは不善業だったよな」というような過去の行動が数多く思い出されてきました。
 当然ではありますが、仏教から離れていたころの私の人生は、緩(ゆる)やかに苦に満ちた方向に向かっていっていました。そのころには、実は頭ではこちらが悪いとわかっているのに、「あの時は周りがああいう態度をとったからだ」とか、「自分だけではなく外部の環境にも原因がある」と誤魔化していたのです。「自分は悪くないし汚れてもいない」「たとえ汚れていたとしても周りも一緒だし……」「自分よりもっと汚れている人もいるじゃないか」と。
 しかし仏縁を戻そうと決心し、朝カルを受講して仏教を学べば学ぶほど、本当は不善なカルマを作っている自分のせいで心が汚れていったために人生が苦しくなっていったのだと洞察され始めました。もちろん客観的な観方がきちんとできていたなら素直にそれを認めなければなりません。でもその時は、それでもなおエゴが抵抗して抑圧していました。
 ブッダに帰依したアングリマーラが改心し、未来へ向けて善を積んでいく法話が心に響いたのはその時でした。
 「愚かな自分を認めてしまおう。そして、悔い改めよう」「アングリマーラのように仏教に信を定めてからは、罪を犯していませんと言えるような人生に変えていきたい」と思うようになりました。
 また、「赦しよりも懺悔の瞑想のほうが大変なんですよ」という先生の言葉も自分を後押ししてくれました。それまでは、「自分が汚れるのは成育歴や環境のせいであって、それを赦さなきゃ」という考えにとらわれていた構造もわかってきました。 (続く)

サンガの言葉

みんなのダンマ 1

 「月刊サティ!」2006年3月号、4月号に、アチャン・リー・ダンマダーロ師による「みんなのダンマ」が掲載されました。これは、「パーリ戒経」中にある仏教徒が自らを善き人間に鍛える実戦の指針で、6つの項目に分けられています。今月は6回目です。

 六番目の指針adhicitte ca āyago (アディチッテ チャ アーヤゴ 心に関することどもにつとめはげむ)とは、自己満足になるな、ということです。adhicitte、すなわち「心を高める」よう、精進して禅定の実践をしなさい。しばしば禅定を実践し、仲間の人たちの手本となるよう所に触れて高い集中力の中で坐りなさい。
 話をするときは、瞑想の課題をいかに発展させるか、助言を求めなさい。禅定によって得られたことについて話し合いなさい。心から障害(*訳注)を取り除く訓練をしなさい。こうしたことを行えば、「心を高める」という原則に従っていることになります。
 「心を高める」ことのもう一つの段階は、心が障害から解放され、一切揺らぐことのない禅定に入った時です。それは堅固で頑丈、強固で、何物にも汚されません。これが「心に関することどもにつとめはげむ」こと、つまり「心を高めることへの誓い」です。ですから自己満足にならないでください。このように修行し続けてください。
 etam buddhāna-sāsanam. (エダン ブッダーナ サーサナン これがもろもろのブッダの教えである)とは、あなたがこのように行えばお釈迦さまの教えに沿っている、ということです。これらはお釈迦さまが実際におっしゃった言葉です。ですから私たちは皆、自分の中にこうした原則が生まれてくるように修行していかなければなりません。
 正直に誠実に、この教えを自らの中にしっかり確立するならば、たとえ苦しみから完全に心を解き放たれなかったとしても、少なくとも正しい方向に自分を尊いていることになります。日に日に悪い習慣はなくなり、代わりにこれまでなかったような善い習慣が生まれてくるでしょう。すでに持っている善い習慣はさらに育っていくでしょう。
 さあ、この話をみなさんお聞きなのですから、どうぞ実践してみてください。お釈迦さまの説法に則って行動するよう、自らを鍛えてください。そうすれば、その教えに沿って実践するにつれ、幸福と繁栄に出会うことでしょう。

*訳注:障害とは五蓋(感覚への欲望、瞋恚、惛沈睡眠、掉挙、疑)のことを言っていると思われる。