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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『懺悔物語 極悪の聖者-アングリマーラの光と闇 ②』

 ●折しも母を殺して満願成就しようとしていたアングリマーラにブッダは近づいていった。ブッダとアングリマ-ラは長い輪廻のなかで幾度も出会い、常にブッダの精神の力がアングリマーラの肉体の力を圧倒するという関係だったが、時には叔父と甥の関係だったことすらあった。


 「沙門よ、この道を進んではいけない。この道にはアングリマーラという殺戮に明け暮れる無慈悲な兇賊がいる」
 と警告する街道の人々を三たび振り切って近づいてくるブッダの姿を見るやアングリマーラは、
 『他に人がいるなら母を殺す必要などない。この沙門を殺れ』
 とブッダの背後から襲おうとした。


 そのとき不思議なことが起きた。どれほど全力疾走しようともアングリマーラは、『神足通』という神変を使うブッダに追いつくことができなかったのである。息を切らして彼は叫んだ。
 「止まれ。沙門よ、止まれ!」
 「アングリマーラよ、そなたこそ止まるがよい。私は止まっている。
 あらゆる生き物に対する私の暴力と危害の意志は永久に捨て去られ停止しているのだ。
 しかるにそなたの生命破壊の凶暴な意志は荒れ狂い止まっていない。そなたこそ止まれ。鎮まるがよい!」(中部経典 第86経「アングリマーラ経」)


 このブッダの言葉を耳にした瞬間、アングリマーラの心に突然の回心が起きた。
 「おお。ついに待ち望んでいた偉大なる師が私のために出現した」と彼は直感し、ただちに武器を投げ捨て、あらゆる悪から出離することを誓って出家を願い出たのである。


 ブッダの一言で、なぜ、この血塗られた殺人鬼がここまで劇的に豹変したのだろうか……。不自然なほど唐突な印象を受けるが、ブッダの巧みな方法が功を奏したと見るべきなのだろう。
 強烈な思い込みで殺人マシーンと化していたアングリマーラの心を回心させるために、ブッダはまず六神通(神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)の中でもとりわけド派手な神通力で圧倒したのではないかと思われる。


 神変を目の当たりにして衝撃を受けたアングリマーラの心に、たたみ込むように説かれたダンマは、知的理解のレベルを超えて深く心に沁み入っただろう。それまで蓋をかけられ抑圧されていた良心や生来の聡明さにアピールしたのかもしれない。だが、最も強力にアングリマーラの心を揺さぶったのは宿業の力だったのではないか……。
 前科13犯の暴力団組長だった内観指導者・橋口勇信が、師匠の吉本伊信に初めて対面した時、「なんとも懐かしいお方だな……」と感じ入ったと述懐しているように。
 あるいは、バクティ・ヨーガの聖者ラーマクリシュナが、彼の偉大な後継者となったヴィヴェーカナンダとまみえた時に「遅かったじゃないか……」と呟いたように……。
 あるいはまた、真言密教第七祖の恵果が、入唐して間もない一介の留学生に過ぎない空海を一目見るや「あなたが来るのを待っていた」と呟き、並み居る高弟を差し置いて第八祖の後継者に定めたのも、過去世から互いに何度も師となり弟子となりの輪廻転生を繰り返してきた因縁の故によると言われるように……。


 いずれも科学的に検証できない主観的印象に過ぎないと言われればそれまでのことだが、過去世を想起する「宿命通」の発露とも考えられるのではないか。少なくともブッダの過去世を想起する能力は、どんな大阿羅漢達の宿命通も及びもつかない桁違いだった。そのブッダとアングリマーラは、遥かな過去世から幾たび師弟関係となり伯父と甥の関係となったか知れないほど因縁浅からぬ仲だったという。
 伝承の通りであれば、どんな神通力や説法よりも強力にアングリマーラの心は揺さぶられ、ブッダにひれ伏したくなっただろう。
 光と闇の両義的資質が激烈だったアングリマーラの人生は、最悪のグルとの出会いによりどん底まで暗転したが、今、至高の徳が結晶したブッダと再会することにより、暴悪から聖性に向かってチャンネルが切り換わったのである。
 最下層の無間地獄に堕ちるしかない殺人鬼に一条の光が射し込み、解脱への道が緒についた人生最大のターニングポイントの瞬間となった。 


 われわれの人生は、無限の過去から放ち続けてきた業のエネルギーに否応なく押しやられていくが、その因果が帰結するまでには補助因とも言うべき無量無数の縁が働かなければならない。
 立派な種があれば自動的に果実が実る訳ではない。土中に落ちなければならず、雨が降り陽が射し、水も光も空気も、諸々の補助因が縁となって働いた総合的な所産として実を結ぶのだ。
 完全な種子が首尾よく芽を出しても、嵐に吹き倒され、草食獣に食べ尽くされ、害虫の襲来や土砂崩れもあるだろう。たとえ強力な善業が組み込まれても、さらに諸々の善をなし、衆善奉行を心がけなければ、縁に触れることなく立ち消えてしまうかもしれないのだ。


 もしその日、パセ-ナディ-王が軍隊に出動を命じなかったなら……、もし命をかけてまでわが子のもとに向かおうとする母の決心がなかったなら……、その母すら殺そうとするほどアングリマーラの心が狂っていなかったなら……、もしブッダが天眼通に入定していなかったなら……、もしブッダの言葉がアングリマーラの心の扉を開かなかったら……。
 私たちが日々瞬々刻々経験するどのような些細な出来事も、複雑系の極みとも言うべき諸法無我の宇宙網目のなかで生起し滅している。ブッダに救い出されるだけの稀有な善業を荷っていたアングリマーラだったが、紙一重ですれ違い、実を結ぶことなくち立消えになっていたかもしれない……。


 さて、光明に向かったアングリマーラだったが、当然の報いとはいえ彼の托鉢の鉢に食を施す者のいるはずはなかった。のみならず石を投げられ棒で打たれ、頭部から血を流し、鉢を壊され外衣を引き裂かれた。
 何よりも彼は日夜、瞑想に専念しようとしたが、罪悪感と悔恨と自責の念に苛まれ、与えられた瞑想対象に正しく心を集中させることができなかった。
 彼の目の前には、街道沿いの山中で彼の手にかかって次々と殺されていった人々の姿が浮かび上り、いくらサティを入れても見送れず、心を突き刺す印象に思わず反応しては胸が締めつけられた。耳には、命乞いをする人々の悲しい呻くような声が鳴り響いて止まなかった。
 「命だけは助けてください!私は貧しく、子供が多いのです。私が死ねば子供たちも生きていかれないのです。お願いです。命だけは許してください……」
 と訴え求める男をめがけて、ギラリと光を放ちながら振り降ろされていった刃。絶望と恐怖のなかで絶命していく男の足が、腕が、痙攣のように震え、ほとばしる血の海のなかで蒼く土気色に変色しながら動かなくなっていく光景が一つまた一つと激しく心に焼きついてくる。
 酸鼻を極める記憶イメージに叩きのめされ、深い後悔に心をワシづかみにされて、彼は座禅から起ち上がりその場を立ち去る他なかった。


 アングリマーラほどの悪をしてはいない私たちにも、これは他人事ではないのだ。取り返しのつかないことをしてしまったと感じている心がある限り、懺悔の修行によって過去に清算をつけなければ、サティはおろか慈悲の瞑想をやる積極的な心も生じないだろう。
 普通の生活をしていれば、朝から晩まで目に、耳に、次々と情報が乱入し、連想が飛び散り、心は刺激から刺激へと目まぐるしく吸い寄せられ、自らの所業を内省的に振り返る暇もないのが私たちだ。
 瞑想などやらなければ、そうして日に夜を繋いで流されながら死んでいくこともできるだろう。だが、五戒を守ってヴィパッサナー瞑想を始めた者はそうはいかない。普段なら気にも止めない微罪でも、棘となって心に刺さるからだ。
 タイやミャンマーの森林僧院で修行をしていると、いくら気をつけていても、禅堂に向かう小道に歩を進めながら蟻を踏んでしまったかもしれない一歩がある。すると、瞑想中に殺生戒を犯したのではないか……と罪悪感が心に拡がり、懺悔の瞑想をしなければ治まらなくなるのだ。
 瞑想中のアングリマーラはいかばかりであったろうか……。
 そして、アングリマーラに対するブッダの指導はどのようなものだったろうか……。(続く)

Web会だより

『私にとってのブッダの教え』(後) Y.Y.

 (承前)
「私」の引き算
 ある日、ふと昔の不快な出来事を思い出しました。数年前、ある人にちょっと失礼なことを言われた時のことです。
 「そういえば、あの時あの人は私にこう言ったんだっけ……」
 すると 当時の情景がまざまざと甦り、何やらムカムカと腹立たしい気分になりました。
 私はちょうどその時、自我や無我についての本を読んでいたので、「そうだ、私という言葉を消して言い直してみよう!」。そう思いついた私は、頭の中で文章を書き直しました。「あの人は私にこう言った」というのを、「あの人はこう言った」と、「私」を削除してみました。
 すると、「あら不思議……!」、全然腹が立たないのです。そしてこちら側は、「何を言うかはその人の自由だから、別に…………」という気分になってしまいました。
 「あの人はあの時こう言った」
 ただそれだけです。どうと言うこともなく、まったく怒りの感情が出てきません。
 「私」という一文字を削除しただけで、嫌な出来事の記憶はただのニュートラルな過去のデータの一つになってしまいました。
 「これは使えるかもっ!!!」と、それ以来このやり方を愛用しています。
 たとえば、私の料理を家族が残した時には、「私が折角作った料理を家族が残した!!!」と思えば腹も立つでしょうが、「家族が料理を残した」と言い換えると腹が立ちません。お腹があまり空いてなかったのか、量が多すぎたのか、他の何かかな……?と軽く流すことができます。「家族は料理を残した」ただそれだけです。
 挨拶して無視された時も、「あの人は私に挨拶しなかった」ではなく、「あの人は挨拶しなかった」それだけ。私の声が聞こえなかったのかもしれないし、挨拶が苦手な恥ずかしがり屋さんなのかもしれないし。腹はまったく立ちません。
 足を踏まれたとしても、「あの人が、私の足を踏んだ!」ではなく、「あの人は踏んだ。痛み」でおしまいです。
 よくよく考察してみると、頭の中で 「私が〜!」「私の〜!」「私に〜!」と叫んでいる時はぷんぷんモードになっていたことがわかってきました。
 「怒っているのはつまりは『自我』なんだ。『私』のひと言を取っちゃえば自我の奴は出て来られなくなるんだね、ウシシシシシ……」
 以来、私はこの方法で怒り撃退生活を送っています。
 長年複雑に絡み合ってしまっているような複雑な問題には効き目は落ちますが、日常の些細な出来事には絶大な効果ありです。
 ご興味があったらぜひ一度試されたらいかがでしょうか。

さんちゃん すごいね!
 私には、「この人もしかしたらすごい人なんじゃないか!!!」と、密かに思っているお笑い芸人がいます。その名は明石家さんま!!
 たまたま見たテレビ番組で、さんちゃんはこんなことを言っていました。
 「すごく腹が立つことありますか?」と言う質問に、
 「ないないない。人に対して嫉妬心がないから。自分も過信してないし。なんやねんこいつ、と思うことはあるけど、すぐ『こいつアホやねんな』と思う。人に腹を立たす奴ってアホ。人に怒らす奴ってアホ」
 「ふーん、人に腹を立たせたり怒らせたりするのって、アホかぁ……。ちょっと面白い考え方だけど、慢だなぁ」と、最初は思いましたが、「いや待てよ、これはもしかしたら仏教的にすごく当を得ているのでは?」
と思い直しました。
 アホ……これを仏教用語に置き換えると、無明、貪瞋痴の痴……・でしょうか。ということで、「こいつアホやねんな」を仏教語に翻訳すれば、「この人は無明の闇に覆われ、貪瞋痴の三毒がかなり回ってしまっていますねぇ」となります。
 人間社会で暮らしていれば、時として嫌な人に出会うことがあります。そんな時、仏教を知る前の私は「怒り心頭!」「ぷんぷんぷん!」となっていましたが、今は、ちょっと深呼吸して考えます。「この人、毒がかなり回っちゃてる……」
 そして、因果法則に則って如理作為を試みます。
 「今腹を立てると私の心が汚れます」→「心が汚れるといつまでも輪廻の輪を苦しみながら回り続けることになります」
 仏教娘の私がプンプン娘の私にこう問いかけます。
 「本当にこんなことで輪廻の輪っかを回り続けるつもり?」
 「今怒ると、この人がアホ(無明)なことが原因となって、今度はあなたが永遠に苦しみ続けると言う結果になるけれど、それでいいの? それ、何だかおかしくありませんか?」
 「アホなのはこの人なのだから、輪廻の輪っかをクルクル回るのはこの人一人で充分なのでは? なぜあなたまで一緒にクルクルしようとするの?」
 「今、腹を立てると言うのはそう言うことですよ。せっかくがんばって毎日瞑想修行を続けているのに、その苦労も水の泡になってしまいますよ!」
 「あなたが苦しみ続けるに値する価値が、この三毒に侵されたアホの人に本当にあると思うのですかぁー?」
 「今怒ってこの先も苦しみ続ける、あなた、本当にそれでいいんですか?」
 プンプン娘はしばし絶句、「そっ、それはちょっとぉ……」と答えます。
 「だって腹を立てるとそうなりますよ。それでいいこと何もないでしょ。それなのに何故あなたは怒りたがるのですか?」
 プンプン娘はまっとうな怒る理由をみつけることが出来ません。時には、「そう言えば、何で怒りたいのか自分でもよく分からない」と言ってしまう時もあったりします。こうしてだいたいはすごすごと引き下がっていきます。
 このようにプンプン娘を説教しながら私は暮らしています。
 たまにはプンプン娘に一本取られることもありますが、こちらも負けじと頑張っています。いずれはめんどうくさい説教などがなくても、「怒り」と一言で消えてくれるようになるいといいな、と思います。しょっちゅうお説教するのもやっぱり面倒なんで……。
 他にも、さんちゃんは、
 「(腹は)立たない立たない。腹を立てる器でもない。そんなに偉くない。腹立って怒りたい人は偉いと思ってるんじゃないの、自分のこと」と言ったり、「俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いている人を笑わせて幸せにしたいんや。これが俺の笑いの哲学や」とも言っています。まさに慈悲の心ではありませんか。
 最近ではとうとう「ワクワク死にたい」と言い始めました。
 「おっ!」と思う発言の多いさんちゃん。もしかしたら、修行僧だった前世があるのでは?とつい思ってしまいます。
 でも、おしゃべりなさんちゃんには、黙って瞑想する生活はかなりキツかったろうな……。
 ついでながら、さんちゃんのインタビューはyou tubeでも見ることができますので、ご興味ある方はどうぞ。(完)

サンガの言葉

「縁起」4 2021年12月号

9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」を再掲載しています。今月はその第4回目です。

精神と物質(名色)――Nāma-Rūpa
 「意識(識)に繰って精神と物質(名色)が生じる」
 「精神と物質」は心と身体からなる生命のための用語です。再生の意識が妊娠と同時に生じる時、それは単独では発生しません。心と身体からなる生命の全体とかかわって生じ、そしてその生物もまた妊娠と同時に現れます。生命は五つの集まり(五蘊)からなります。
 つまり、形態である物質的要素(色)と、感受(受)、知覚(想)、心的形成作用(行)、意識(識)の四つの心的要素です。
 人間の再生の場合には、物質的要素、つまり形態とは、新しく生まれる生命の身体、つまり1つの受精卵です。一方心的要素の方は、その再生の意識の他に、感受、知覚、心的形成作用の三つの要素があります。これらの五つの集まりは互いに依存しながら死までずっと存続します。

六つの感覚器官(六処)――Salāyatana
 「精神と物質(名色)に縁って六つの感覚器官(六処)が生じる」
 心と身体からなる生命が成長し発展するにつれて、五つの身体の感覚器官が生じます。つまり眼、耳、鼻、舌、身です。心的器官、つまり思考の器官もまたあります。それは他の感覚の情報を調整し、思考、イメージ、概念などの心独自の対象も認識します。
 六つの感覚器官は世界についての情報を集めるための手段という役割を持ちます。各々の器官はそれぞれにふさわしい種類の感覚情報を受け取ります。眼は形を、耳は音を、鼻はにおいを受け取る、といった具合です。このようにして私たちは次の連鎖に到達します。

接触(触)――Phassa
 「六つの感覚器官(六処)に縁って接触(触)が生じる」
 接触は、たとえば眼識が限を通して形に接触するように、感覚器官を通して感覚の対象と意識が一緒に現れることを意味します。

感受(受)-Vedanā
 「接触(触)に縁って感受(受)が生じる」
 感受は、心がその対象を経験する時の「感覚の音色」です。感受が生じる時に係わる器官によって、六種類の感受に分けられます。たとえば、眼の接触から生まれた感受や耳の接触から生まれた感受などです。またその「感覚の質」によっては、感受は「楽、苦、中立(不苦不楽)」の三つの型に分けられます。私たちの過去のカルマ(業)はこれらの感受を通して働き、その結果としての実を結びます。

渇愛(愛)-Tanhā
 「感受(受)に縁って褐変(愛)が生じる」
 この連鎖において、私たちは生存の車輪の動きの中で重要な一歩を踏み出します。私たちがこれまで述べてきた要素――意識、精神と物質、六つの感覚器官、接触、感受――はすべて過去の業の結果を表します。それらは、過去からの業、意志的な形成作用による業の成熟によって生じます。
 しかし今や渇愛の発生によって、経験は過去のものから今現在働き始めた原因へと移ってきました。この原因によって、将来新しい存在が生み出されることになります。私たちが楽の感受を経験すれば、私たちはそれに執着するようになります。私たちは感受を楽しみ、喜び、それがずっと存続することを切望します。このようにして褐変が生まれます。私たちが苦の感受を経験すれば、それによって嫌悪を催し、その源を根こそぎにしたいという欲望、あるいはそこから逃げたいという欲望が生まれます。
 しかし、必ずしも型どおり感受から渇愛へと至るよりほかないというわけではありません。これは非常に重要な点で、感受と渇愛の間には、存在の循環を終わらせる戦いの場になりうる空間、隙間があります。ここでの戦いによって、束縛が将来に渡り無期限に続くのか、あるいはそれが悟りと解脱に取って代わられるのかが決まります。
 というのは、もし渇愛に従う代わりに、注意深く気づいていることによって感受を観察し、それをあるがままに理解するならば、私たちは渇愛が生じて将来に新しい存在を生み出すのを防ぐことができるからです。

執着(取)――Upādāna
 「渇愛(愛)に縁って執着(取)が生じる」
 では次の動きを見てみましょう。執着は渇愛の強化されたもので、四つの型があります。
 (a) 感覚の喜びに対する執着
 (b) 見解、理論、信念に対する執着
 (c) しきたり、規則、儀式に対する執着
 (d) 五つの集まり(五蘊)を自己と見る観念に対する執着
 渇愛と執着の違いは次の例えによって説明されています。「渇愛とは泥棒が盗もうとしている対象をつかむために手を伸ばしているようなものであり、執着とはその対象をつかんで自分のものにしているようなものである」

存在(有)――Bhava
 「執着(取)に縁って生存(有)が生じる」
 Bhavaは存在における業の蓄積という側面です。つまり、私たちが行勤して業(カルマ)を蓄積し、さらに意志的な形成作用(行)を発生させ、それを強め、意識の流れの中に蓄積していく、そうした人生の側面のことです。これらの業が蓄積されると、死の後に新しい存在がもたらされます。

老死――Jarā-Maraṇa
 「誕生に縁って老、死が生ずる」
 未来において生を受けることにより、私たちは老と死、そして、悲しみ、悲嘆、痛み、嘆き、絶望という避けられない代価を支払うことになります。