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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『懺悔物語 極悪の聖者-アングリマーラの光と闇 ①』

 編集部より:今月から【懺悔物語】を3回に渡って連載していきます。これは、本誌の読者の目に触れたことのない文書資料で、過去の原稿を執筆当時の文体のまま掲載いたします。


👑「おお、季節よ! 城よ! 無疵な心がどこにある!」(A.ランボー)


 大きな悪であれ小さな悪であれ、かつて悪を行なってしまったと自覚している者にとって、アングリマ-ラ尊者ほど心に救いをもたらしてくれる存在はいない。
 999人もの人を殺害した殺人鬼でも、仏弟子となり、悟ることができたのか……。それなら、彼ほどの悪をしてはいない私たちにも希望があるだろう。
 「以前にはわが手は血に染まり、アングリマ-ラ(指鬘:指の首飾り)として世に知られていた。私がブッダに帰依した姿を見よ。迷いの生存に導く輪廻の環は断ち切られた」(テーラガータ 881)
 「悲惨な境涯へ、悪い生存へ、と行かねばならぬ多くの悪行をなし、その悪しき行為の報いにも触れたが、今や私は負債をなくして(托鉢の)施食を受ける身となっている」(テーラガータ 882)
 「誰でも、そのなした悪い行為が、善い行為によっておおわれる者は、雲間から出た満月のようにこの世を照らす」(テーラガータ 872)


 30歳で修行を開始するまで、頽廃の美を追求しながら酒を飲み、悪いことばかりしていた私は、自身を穢らわしい存在と感じ、罪業感と自責の念から解放されずにいたが、このアングリマ-ラ尊者の言葉にどれほど救われたことか……。
 『やってしまったことは仕方がない。私は、償っていこう』と、何度も決意を繰り返していた。
 『12年の長きに渡って、私はただ自分のためだけに生きたのだから、これからは人のために生きよう』とも思った。


 アングリマ-ラの悟りへの道筋は、清浄道を完成させるために<懺悔>の修行がいかに必要不可欠であるかを物語っている。
 この極悪と聖者の両義的資質をもった男がコーサラ国に誕生したとき、生地シュラヴァスティ(舎衛城)の全ての刀槍がギラギラと輝きを放って人の目を射た、とも言われる。


 バラモン階級に生まれた聡明で屈強な青年アヒンサ(→アングリマーラ)の悲劇は、同門の学友達の狡猾な中傷誹謗により、師匠の妻と姦通しているという讒言を三度に渡って流されたことから始まった。
 別の伝承によれば、端麗な容姿のアヒンサに邪恋の心を抱いた妻が夫の留守中に誘惑したものの拒絶されたことに怒り狂い、自らの衣を破り裂き、アヒンサに乱暴されたと泣いて夫に訴えたからだったとも言う。


 「1000人の命を絶ち、その右手の小指を繋いで首飾りとせよ。すでに学ぶべきことを学び終った汝に、それで真の道が備わるであろう」
 讒言を真に受け、復讐心をたぎらせた師のこんな狂った命令を、なぜアングリマーラは敢然と実行してしまったのだろうか。
 1つには、生来の生真面目な性向があっただろう。
 2つには、現代でも「地下鉄にサリンをまけ」というグル(師匠)の言葉を愚直に実行した者たちがいるように、師の命令には絶対服従という外道の伝統の影響がある。
 3つには、グルの言葉を聞いた瞬間、兇暴な印象が彼の心に拡がり、無数の因縁の束のなかに眠っていたもう一つの過去世の資質と傾向性が喚起され、邪悪な宿業のドミノが倒れ出してしまったからではないかと思われる。
 それは、阿羅漢になれる聖者の素因を持った男の人生が、グラリと暗転していくターニングポイントの瞬間だった。
 すべての物事には因果の連続性があり、人は過去の全経験を通して発したエネルギーとまったく無関係のものを突然、何の脈絡もなく発生させることはできない。たとえ自分の命が奪われようとも、たった一人の人間だって殺せない者が大半ではないか。
 1000人もの人を殺めるなどという所業が遂行できる者には、そうなるだけの資質も宿業も背景も条件も整った上での必然の力に押しやられる展開があったはずである。縁に触れてしまった業・異熟の塊が、いかんともし難い力で帰結していく因果の構造があっただろうと思われる。


 別の伝承によれば、彼のグルはただ指飾りを要求しただけで殺人の命令は下していなかったともいう。死体置場の指でもよかったのに、なぜ彼は大量殺人に走ってしまったのか……。
 封印されていた蓋が開けられたかのように、アングリマ-ラの深奥で目覚めてしまった無慈悲と暴力への性向は、人肉を常食とするヤッカ(鬼霊)だったときの過去世に由来するとも言われる。


 さらに別の伝承によれば、かつて天界にいたアングリマーラが悠久の時を経て、人間界に王子の身をもって再生したことがある。浄らかな天界にあまりに長く住し過ぎたため、愛欲の煩悩は忘却の彼方に忘れ去られ、その清廉さから<清浄太子>と呼ばれるほどであった。
 長じても一向に女性に関心を示さず、国の将来を案じた父王達が一計を案じ、男を迷わす道にかけては国随一の女の巧みな技によって愛欲の煩悩を目覚めさせ、婚姻や世継ぎの誕生に導こうとした。
 ある夜、城外ですすり泣く女のか細い声を耳にした清浄太子は、哀れに想い女を招き入れ、仔細を聞くうちにいつの間にか妖艶な女の巧みな技に篭絡され、気づいてみれば男女の関係に導き入れられてしまっていた。
 完全な随眠状態だった煩悩に一たびスイッチが入るや、清浄太子は一転、国中の女を漁り尽くすほどの色魔と化し、ついに積年の恨みと怒りが爆発した大勢の民衆の手になる瓦石をもって打ち殺されてしまったのである。
 その最期の断末魔の間際にも、両義性の遺志が洩らされたという。撲殺した民衆に必ず復讐する怨念の闇と、いつの世にか必ず悟りを開いてみせるという光の道心だったという。
 ジャ-タカの伝によれば、アングリマ-ラの手に落ちた999人の犠牲者はこのとき王子を撲殺したその民衆であったともいう。


 こうした伝承の真偽のほどは定かではなく、検証が極めて困難な前生譚や過去世物語などを鵜呑みにできる訳もない。
 タイの僧院でお世話になった比丘の師は、コメンタリーに注釈されていないダンマトークは一切しないと言明され、その私見を差し挟まぬ正確さへの潔さに感服したことがある。
 しかし同時に、そのコメンタリーがどこまで史実に合致するのか、果たして厳密な検証がなされて伝承されてきたのか……という疑念も浮かんだ。たとえいささかの悪意はなくても、敬愛の念が嵩じれば仏弟子伝にも尾ひれが付き、粉飾されていく危険性は常に免れないのである。
 では、どう受け止め、どのように解釈していけばよいのだろうか。歴史に限らず、この世のことは何事も、本当のことは決して見ること能わざる無明長夜の暗昏々たる闇の中に封印されているのがわれわれ凡夫衆生であれば、たとえ作り話であっても、因果論やチェータナー(意志)が具現化していく構造の理解に資するものがあれば、学ぶべきは学んで精進していけば良いのではないかとも愚考している。
 ヴィパッサナー瞑想者も真実を確かに見極められる瞬間が到来するまでは、痴や無明の煩悩と悪戦苦闘しながらサティの瞑想を深めていくしかないのだ。


 さて、あと一人で1000本の指の満願に達するという時、ついに国軍の出動が発布され、それを知ったアングリマ-ラの母はわが子の命を救おうと彼を目指して近づいていった。
 折しもブッダは天眼通の禅定に入り、ことの次第を見渡していた。解脱できる機根を有するアングリマ-ラが満願成就のために母をも殺そうとしている。五逆罪の母殺しをしてしまえば解脱の可能性は断ち切られ、永遠の長きに遠のいてしまう。
 すべてを見て取ったブッダはためらうことなく救いに出立した。二人

Web会だより

『私にとってのブッダの教え』 (前) Y.Y.

それでも地球は回っている
 地橋先生の朝日カルチャー講座に通い始めてしばらくした頃、最後の質疑応答で、「心を浄らかにするには、如理作意が何よりも大事」というアドバイスを頂いたことがあります。如理作意というのは、パーリ語でヨニソ・マナシカーラと言って、その意味は「理の如く心のドミノが倒れていくこと」だそうです。外界から心に情報が入った瞬間、心のドミノが欲望や嫌悪や煩悩の悪い方向へパタパタと倒れていきがちですが、それを「真理の方へ」「善なる方へ」「真の原因の方へ」正しく倒していくのが「如理作意」だといいます。
 仏教の因果法則から言えば、理に叶うように冷静に分析し、因と果の面から正しく考えていくことだろうと思い、やってみました。当時の私の悩みの種に対してです。なぜなら、悩みの種を思い浮かべるだけで苦を感じていたからです。
 そこで、「この苦の原因は何か?」「どうして私はこのことを考えると苦を感じるのか?」「苦を感じている時の心と身体の状態は?」「どんな欲や執着がこの苦を生み出しているのか?」等々……、しっかり考えました。
 そして発見しました。「無常や因果法則を受け入れきれていないから苦を感じている」ということを。
 気に入ったものごとはずっとそのままであって欲しい、ものごとは自分の願い通りになって欲しい、心の底でそう思っていました。しかし、当然そうはなりません。だから苦を感じていた、ということでした。
 「結局、因果法則しかないのですよ」という有名なお坊さんの言葉を思い出しました。世界は因果法則だけで回っていて、私の願いや都合なんてどうでもいいことだったというわけです。私の願いや都合、そんなものはそもそも因果法則から見たら塵や埃みたいなものでしかありませんでした。ちっぽけな私の思惑など完璧に無視されて、因果法則だけが平然と作用していく……、ここはそういう世界なのだと。
 因果法則や無常を受け入れられないと言うことはどういうことなのか……? それは、地球の自転を止めようと素手で地面を必死に押さえているようなものだったということです。ということは、「期待通りにならない」と腹を立てるのは、「なんで太陽は東から昇るのだ!私は北から昇って欲しいのにっ!!!」と騒いでいるようなものでしかなかったわけです。
 こんなことがだんだんわかってきてからは、「ずーっとバカなことをやって来たなぁ……」と思えてきて、願い通りにならないことに腹を立てたり悲しんだりしていることに気づいた時には、必死に地球を抑えている自分の姿を想像します。すると何だかバカバカしくなって、「しょうがないな〜」という諦めの気持ちが出てきます。
 こうして私は因果法則にパタパタと白旗をあげることにしました。以来、私の苦はかなり減ったと実感しています。

心の水やり
 「いいですか、悟れるのは人間に生まれた時だけなのですよ! 人間に生まれるのはなかなか難しいのです! 次はどんな生命に生まれ変わるかわかりません。だから、人間でいる間に悟りを開かなければならないのです! 頑張ってください!!!」と、最初の仏教の先生に言われました。
 単純な私は、「そ、そうなのか……じゃあ頑張ろう」と、かなり真面目に修行していました。毎日1時間歩いて、5分立って、30分坐って、と。仏教の本を読み、合宿にも参加しました。
 しかし何だか変なのです。一所懸命頑張れば頑張るほどものごとが空回りして、変な方向に進んで行きました。老人介護のストレスも加わってノイローゼ状態になってしまったのです。
 そんな時、アーチャン チャー大長老の本を読みました。そのなかには、こんなことが書かれていました。
 「私たちは自分で植えた木の成長をコントロールすることができないように、智慧の果実がすぐになるか、ゆっくりなるかをコントロールすることはできません。智慧の木は、自分自身のペースで成長します。あなたの仕事は穴を掘り、水や肥料をあげ、木を虫から守ることです。それがあなたの仕事であり、信(サッダー)なのです。しかし、木の成長の仕方は、その木次第です。もし、あなたの修行がこのようであるなら、すべてはうまくいき、自身の木は育つと確信することができます。
 このように、私たちは自分の仕事と木の仕事の違いを理解しなければいけません。木の仕事は植物に任せて、自分自身に責任を持ってください。もし、私たちが何をすることが必要なのかを知らなければ、一日で木に花を咲かせ、実をならせようと無理強いすることになってしまうでしょう。これは間違った見解であり、苦しみを生じさせる主たる原因です。ただ正しい方向性に則って修行をし、あとはあなたのカルマに委ねなさい。そうすれば、一回の、百回の、千回の生を経てかは分かりませんが、あなたの修行は、やがて平安へと達するのです」(増補版『手放す生き方』、サンガ出版より)
 今から思うと私は「欲」で修行していました。種を蒔いたばかりだというのに、まだ実がならないと怒っていたのです。「悟りたい。解脱したい」と、修行を始めたばかりにもかかわらず、大それた目標を掲げてしまっていました。
 「そう、私は庭師なんだね。毎日丁寧に木に水をやり、色々お世話をするだけ。木の成長は木に任せて見守るだけ。文句言っちゃいけないのね」
 そう反省しました。
 「空手の時と同じなのかも……」
 今ではそう思っています。
 「昇段したい、黒帯が欲しい」
 そう思っている間は昇段の話は全然ありませんでした。
 「もう帯なんて何色でもいいや。ピンクでもシマシマでも水玉でも。私は空手が好きでやっているんだもの」
 「一所懸命に稽古して、昨日より今日、今日よりも明日、少しでも強くなれたらそれでいい。帯なんて何色でも良いから、空手着が乱れないように一本紐があればそれで十分」
 そう思い直して楽しく稽古を続けていると、ある時、昇段審査を受けさせて頂けることになりました。空手を始めて10年後でした。
 今は、悟るとか解脱とか、そういうことは考えず、空手の時と同じように、「昨日より今日、今日より明日、心が少しでも清らかになれたらそれでいい」、そう思って修行しています。
 「瞑想は心の歯磨き。毎日コツコツ磨きましょう。やらないと心が汚れてしまいますからね」
 そんな感じです。決死の覚悟で修行に邁進するより、こちらの方がのんびり屋の私には合っているようです。
 コツコツ稽古していたら気がつくと黒帯を締めていた。仏教の修行も、気づいたら悟っていたというふうになれたら良いなと思いっています。(そうなる前に、あと何百回 何千回と生まれ変わる必要があるだろうとは思いますけれど……)
 とりあえず今しばらくは、虫歯にならないよう心の歯磨きをコツコツ頑張ろうと思います。(続く)

サンガの言葉

「縁起」3 2021年11月号

9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」 を再掲載しています。今月はその第3回目です。

縁起の理論の実践
 さてこの教えの実践について考えてみましょう。すでに見たように、最も重要な点は感受と渇愛をつなぐ連鎖にあります。それが、ブッダが四聖諦の中で苦の起源として渇愛を選び出した理由です。ですから私たちが自らの実践の中でしなければならないことは、感受が渇愛を引き起こすのを防ぐことです。
 私たちは生じてくる感覚に注意深くし、はっきりと気づかなくてはなりません。感受を喜ばず、しがみつかず、執着しないことです。もし楽の感受が生じた時に気づきを欠いているならば、渇愛が生まれる結果となります。私たちはその対象を楽しみ、それに執着するようになり、それが与えてくれる楽しみをもっと望むようになります。
 しかし、もし私たちに気づきがあり「楽の感受が生じた」と知るようになれ、それに屈服せずに気づいて立ち止まることができます。そして、智慧をもって見ることで、私たちはその感受を、「無常、苦、無我」として理解します。こうすることによって感受から渇愛が生まれるのを防ぎます。智慧をみがき続けるにつれて、智慧は根本にある無知を断つまで、より鋭くより深く成長します。智慧は無知の積み重なりを一つ一つ断ってゆき、すべての無知が削除された時に、悟りの状態に達します。縁起の終わりです。

無知(無明)――Avijjā
 ブッダは無明(Avijjā )をもって要素の連鎖を説き始めました。過去世において私たちの心は根本にある無明によりものごとがよく見えなくなっています。この無明について、いつから始まったのかを見つけだすことはできません。過去世をどこまで遡っても、私たちの心はいつも無明によってものごとがよく見えていなかったことが分かります。
 無明とは何でしょうか。ブッダは無明を、「四聖諦を知らず、理解しないこと」として定義しています。四聖諦とは「苦、苦の起源、苦の滅尽、苦の滅尽への道」という真理です。無明とはこれら四聖諦について単に概念的に理解していないというだけではなく、十分な深さと範囲において理解していない精神的な無知のことを指します。
 いつから始まるともなく遥か昔から、私たちは無知によって物事を永遠で、楽しく、魅力があり、「私」であるものとして見るよう導かれ、「無常、苦、無我」という本当の性質を見ることができなくなっています。
 この無明から食欲、嫌悪、慢、間違った見解、嫉妬、わがままなどのようなすべての煩悩が出て来ます。「無明は、それ自体は他に原因を持たないような、物事の最初の原因ではない」ということを強調しなければなりません。無明もまた条件によって生じます。心の要素(心所)として、無明はこれら生き物たちの心と身体に依存しています。
 それは条件によって生じますが、無明は最も根本的な条件なのです。
 それゆえに、ブッダは説明のための最初の要素として無明を取り上げました。私たちが完全に解脱に至るまでこの無明は私たちの心を支配し、行為に導き、その行為が将来また新たな誕生を引き起こします。こうして、最初の二つの要素をつなぐ第一の縁起に至ります。即ち、「無明を縁として意志的な形成作用(行)が生じる」です。

意志的な形成作用(行)――Sankhāra
 精神の無知である無明により、私たちは行為に引き込まれます。私たちは自らの意志を活性化します。サンカーラ(Sankhāra:行)は「形成する、建設する、創造する、組み立てる」ことを意味し、ここでは特に心的な形成作用のことを言っています。サンカーラという要素は業と同じものです。業は「意志的な形成作用」や「意志的な行為」を意味し、それは身体や言葉を通して外部に表現されます。
 無明を包含する心が生み出す意志的行為はいつも、その心の中に痕跡を残します。つまり、それが熟し、将来に実を結ぶ力を持った形成作用を残します。それは潜在力のある種子、つまり将来に発芽し結果を生む力のある種子として心にまかれます。
 縁起という関係の中で、意志的な形成作用(行)の最も重要な面は、将来に新しい存在を発生させる力、つまり再生をもたらす力です。この意志的な形成作用はそれが善なる意志作用か不善なる意志作用かにより、善い再生か悪い再生をもたらします。こうして十二縁起の次の連鎖へやってきます。「意志的な形成作用(行)に縁って意識(識)が生じる」です。

意識(識)――Viññāṇa
 もし、意志的な形成作用(サンカーラ)が心に蓄積され、無明がまだ存在するならば、死が起きた時、引き続いて新しい意識の瞬間が生じるでしょう。これは新しい生の最初の意識の瞬間です。仏教徒の見解では、意識は「永続性のあるひとつの実体、あるいは自我や不変に続く魂」としてはみなされていません。
 意識とはむしろ「意識の出現の連なり」であり、海の彼のようにそれぞれ生じては滅して行くものです。死が起きた時、この生涯で最後の意識の出現が生じ、そして滅して行きます。しかし、無明と意志的形成作用(行)によって、最後の意識の出現(死心)から新しい意識の出現が生まれます。それは母の子宮の中で生まれ、未受精卵と結びつき、そして新しい存在が始まります。
 妊娠と同時に起こる最初の意識の出現は「Pawisandhicitta」、すなわち「再結合する意識(再生識)」と呼ばれています。なぜならばそれは現世と過去世とを、つまり新しい存在とすべての過去とを結びつけているからです。再生の意識が生じると、それは短い瞬間続き、そして滅して行きます。しかし、その再生の意識のあと即座に、これと同じ基本的な形をもつ意識が、全生涯を通じて一連の心的活動として流れ始めます。それは私たちの心のすべての活動状態の基礎にあって、死までずっと続く意識の受動的な流れとして流れます。この受動的な意識の流れはbhavvanga(バーヴァンガ:有分心)、「存在の流れ」と呼ばれています。