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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『病気になったら』(3)-悟るしかない……-

*悟っても苦があるの?


 凡夫であれ悟った人であれ、病気になれば肉体的苦痛は同じように生起してきます。悟ればすべての苦(ドゥッカ:Dukkha)がなくなり、神通力などを使いながら無病息災、不老長寿の元気印になれるのではないか。誰からも悪く思われず、尊敬され、愛され、大事にされながら幸せに、苦しみのない生涯を全うできるのではないか。要するに、悟ればあらゆる苦しみから解放されるのではないか。そんな誤解をしている人も少なくありません。
 経典に窺われる聖者は、独り他人から遠ざかり、怠ることなく精励し、専心し、やがて「生まれることは尽きた。無上の清浄行は完成した。なすべきことを成し終えた。もはや再び迷いの生存を受けることはない」と悟り、証し、具現し、静かに残余の日々を送りながら入滅していったようです。
 しかし中には、阿羅漢の悟りを得たのちに強姦されたり、癩病を病んだり、耳を引っ張られたり、殴り殺された聖者達もいたのです。
 大量殺人鬼だったアングリマーラが阿羅漢の悟りを得てからも、托鉢に出ると石を投げられ、棒で打たれ、血だらけにされたのはよく知られています。大阿羅漢のモッガラーナ(目連尊者)は刺客の手にかかって命を落としたし、比類なき徳の結晶したブッダですら、背中の疼痛、足指の棘、食中毒や激しい下痢等々の病苦を知覚する瞬間があったのです。


*苦はあるが、苦しみは無い……


 究極の悟りの段階である阿羅漢果に達すれば、もはや新しいカルマは何も作らない特殊な意識状態<唯作心>で残余の生涯を生きていると言われます。しかしこの世に留まって生存を続けている限り、たとえ悟りを開いて特別な人になっても、現象世界を貫いている物理法則や因果法則の支配を免れることはできないのです。凡夫も聖者も、こぼしたミルクを元のコップに戻すことはできないし、頭をぶつければ瘤ができます。
 貴賤凡聖にかかわらず誰であれ、過去の悪業が縁に触れて帰結すれば苦の現象が生起するのは普遍的な法則です。阿羅漢の聖者といえども因果の理法どおりに痛みを感じたり、罵倒されたり中傷誹謗されたり、諸々の苦受の現象に襲われてしまうのです。
 しかし苦受の襲来を受けてはいるものの、完全に解放され自由になった心が心理的に苦しむことはなく、ただ一瞬一瞬の苦受を経験しながらその変滅を見守っているだけと考えられます。
 苦は存在しているが、苦しむことはない……。卑近な例ですが、病気や体の不具合を治療するために、鍼灸院で鍼を打たれ、灸をすえられ、束の間の苦受を感じるのに似ているかもしれません。痛みや熱感を覚えても、ただの苦受に過ぎず、精神的な苦悩を感じることはないでしょう。もしこれがイジメやリンチだったら、針で突かれ煙草の火で虐待された苦痛は深刻なトラウマになるかもしれません。
 身体に苦痛が生じ、痛いのだが、痛みから派生する苦しみがまったく存在しない境地……。これが、この世で到達できる解脱の限界です。


*負のスパイラル


 私たちは一日に何度も嫌悪や不満足感に襲われ、時には怒りに体を震わせ、あるいは欲望や愛執に縛られ、恨みやトラウマに心が暗く翳ります。そうした一瞬一瞬のネガティブな心が作り出す不善業はやがて苦の現象となって帰結し、不快な経験をさせられます。
 すると苦受を受けた瞬間、反射的に怒り系のネガティブな反応が惹き起こされ、そのエネルギーが未来にさらなる苦の現象を創り出し、悪因→苦果→悪因→苦果→の負のスパイラルに引きずり込まれ、苦の極限に向かって堕ちていくのです。
 貪りや欲望系の悪業は不満足性の果てにある餓鬼の世界に堕ちていく因となり、人を見下していた高慢のカルマは反転して見下され蔑まれる業果を得ます。欲望系の不善業で身を滅ぼし、人生が破綻していくのも怖ろしいですが、病気の苦しみは何に由来するのでしょう。


*人はなぜ病むのか


 怪我や病気や事故などによる身体レベルでの苦しみは、生命の内的秩序や環境との調和が乱れ、損傷し、壊れていこうとしている状態です。その元凶となる原因は、怒りのエネルギーであり、怒りの本質は破壊性です。
 人や生きものを叩いたり、刺したり、撃ったり、殺したり、踏み潰したり、さまざまに害し、傷つけ、虐げる行為を実行させているのは、破壊の衝動です。
 病気とは、生命に苦痛を与えた瞬間のエネルギーが自分自身に跳ね返ってきた状態です。他者の身体を傷つければ自分の身体が傷つき、病み、破壊される法則です。物理的な破壊のエネルギーが身体に加えられたのだから、思いっきり投げたボールが壁にぶつかってバウンドするように、同じ強さのエネルギーが自分自身の身体に返ってくるのです。通常は、はるか昔から累積していた同類の業がまとめて現象化しようとする傾向があるので、直近の不善業の何倍にもなって返ってきた印象になりがちです。
 心を病むのも、身体を病むのも、同じ構造です。怒りの暴力性と破壊性が心や精神に向けられた場合には、自分の放ったエネルギーが因果法則のメカニズムにより、自分自身の心を傷つけ、破壊し、メンタルな病を罹患して帰結したと考えられます。
 罵倒された瞬間も、裏切られ信頼が壊された瞬間も、ハメられ、脅迫され、恫喝され、辱められ、プライドをズタズタにされた瞬間も、心に受けた苦痛というものは、身体的苦痛を圧倒するものかもしれません。体の傷は癒えても、心の傷はトラウマとなって死ぬまで苦しみ続けることが多いのです。心なのか身体なのか、病んだ状態に優劣がつけられるでしょうか。


*元気印か病弱か


 精神的苦痛と心の病を厳密に仕分けるのは難しいでしょう。いずれにしても、出力したエネルギーが自分自身に返ってきて、同じものを受け取る因果の構造は同じです。
 病弱に生まれるのも、病気になりやすい遺伝的素因を持つのも、輪廻転生論を大前提にした仏教では、同じ因果法則の構造で理解されます。
 比較的微弱な<現法受業>のタイムスケールは今世に限定され、来世にまたがって結果を出す力はありません。しかし<次生受業>のレベルになれば、今世で因果が帰結しなくても、縁が触れれば来世でその結果が現れます。
 どのような遺伝的素因をもって誕生するか。仏教では、それがまったくの偶然に過ぎず、デタラメに起きているとは考えないのです。
 生涯に渡って多くの人の命や動物の命を救った医療系の人も、暴力や殺しに明け暮れた武闘派の人も、出力したエネルギーに応じた結果を受ける構造はいつの世も変わりません。「死後、来世に持ち越せるのは業だけである」とブッダも説かれています。


*病気の根本原因


 病気になる原因は業だけではありません。身体の病気に限って言えば、カルマは原因の4分の1でしょう。アビダルマでは、身体現象を起因させている要素は、①業+②心+③時節+④食と言われています。身体現象に不具合が生じた状態を病気と定義すれば、この4つは全て病気を起こす原因になるでしょう。
 ①の<業>については既に述べましたが、②の<心>が原因になるのも分かりやすいです。憂鬱なのか、恋愛しているのか、自己嫌悪にまみれているのか、楽しくてキャーキャー騒いでいるのか、戦闘モードなのか、感動しているのか……。心的状態が体の細胞にもホルモンや内分泌系にも影響を及ぼし、病気や健康の原因になるのは言うまでもないことです。
 ③の<時節>とは、外的な環境因子です。極寒の地ではたちまち凍傷になるし、熱帯では大量に発汗するし、喉の渇きも熱中症も深刻です。
 ④の<食>は、最も直接的に身体現象を左右しているでしょう。<医食同源>と言われるように、食物は薬にもなれば死因にもなるものです。
 痩せるのも太るのも、腹痛も下痢も、早死にするのも健康に天寿を全うするのも食物しだい、フグや毒キノコなど死に直結するものもあります。
 病気とは逆に、栄養バランスの整った浄らかな食物が適量摂取できるとどうなるでしょう。やがて到来する意識の透明感と心身の充実感は、最高の瞑想修行を強力に後押ししてくれることは間違いありません。


*病気にならないために……


 食物や環境も病因になりますが、変な物を食べてあたるのも、滋味豊かな食に恵まれるのも、業の結果と言うこともできます。貧しい土地や豊かな土地に生まれるのも因果の帰結です。色法(身体現象の変化過程)の起因は上述した4要素ですが、<心>が最重要と考えるべきでしょう。善き心や悪しき心が業を作るからです。
 心身を病む原因は、他者の心や身体に苦を与えた結果と理解すべきです。そのように納得がいけば、これから苦のない人生を切り開くにはどうしたらよいかが見えてくるからです。
 怒り系のエネルギーが美しい命の輝きを破壊するし、正反対に、バラバラに離散し壊れたものを一つにまとめて統合し、和合させ、調和させていく慈悲系のエネルギーが病気を遠ざけ、生命本来の自己完結した美しさをもたらすでしょう。
 「諸悪莫作」「衆善奉行」と説かれるように、悪を避け善をなしていく決意と実行こそ仏教の本来です。仏教を基軸に浄らかな生き方をしていけば、自ずからカルマが良くなり、病気を遠ざけ、健康に天寿を全うする道が開かれていくでしょう。さらに徳があり波羅蜜の熟した人には、聖なる修行を完成し、輪廻から解脱していく道が続いています。


*解脱への道


 不善業を作る煩悩は、この世に誕生した時から初期設定されており、人は誰でも苦しい人生に向かってスタートを切っています。どんな人も動物も、誰に教えられることも努力することもなく、貪って、怒って、幸福を求めながら苦の種を蒔くという愚行を繰り返し、煩悩路線をひた走るように設計されています。生命という残酷なシステムは、幸せになろうとすればするほど、必然の力で一切皆苦の泥沼にハメられていく定めです。
 その悪しき流れから脱出するには、不善業の再生産をストップさせるしかありません。本能のプログラムと生命意志に逆らい、悪しき反応を止め、煩悩を抑止するのです。負のスパイラルに巻き込まれて輪廻していくか、ブッダの示した道を歩んで修行するか……。


*2種類の涅槃


 在家の者には遠い道のりですが、聖なる修行を完成し、煩悩の束縛を根絶やしにしてしまう悟り体験の瞬間を、仏教では<涅槃>と言い、まず解脱の第一段階である<預流果>に達した聖者となります。さらに2度目の涅槃が体験されると<一来果>、3度目の体験で<不還果>と覚りのステージをアップさせ、4度目の涅槃で最終段階の<阿羅漢>となり、全ての煩悩が滅尽状態となり輪廻の流れから解脱することが確定的となります。
 その阿羅漢の聖者の状態には2種類あります。
 ①は、まだこの世に留まって肉体的存在を続けている「有余依涅槃」と呼ばれる状態です。煩悩の束縛から解脱した境地に達しているのですが、身体には物理法則や業の法則に支配された苦楽の受が生滅している状態です。
 つまり解脱しても、一切の心理的ドゥッカ(苦)が滅し尽されるだけで、肉体的存在にともなう苦受の瞬間は<般涅槃>(はつねはん:完全なる涅槃・parinibbana:パリニッバーナ)しない限りいかんともし難いのです。
 ②は「無余依涅槃」と呼ばれ、阿羅漢の身体に死が訪れ、全てが絶無に帰した状態です。煩悩の炎がことごとく吹き消され、無限に続いてきた心の変滅するプロセス(名法)と身体現象の変化過程(色法)に終止符が打たれ、生存の流れの中に輪廻してきた一切が空無に帰した状態です。精神と物質の変滅するプロセスが完全に静止し、寂滅の静けさと絶対的な沈黙……。


*経験する瞬間


 強い意志(チェータナー)が出力されて業が作られていく瞬間の心は<行(サンカーラ)>と呼ばれます。作られてしまった善因や悪因は、諸々の条件が整って縁に触れた瞬間、現象化してその結果を出してきます。業の結果を経験する心を<異熟心(ヴィパーカ・チッタ)>と言います。
 目を開けば真っ赤な夕陽が見えてしまうし、赤ちゃんが泣き、女の人が叫べば耳に聞こえてしまうし、裏通りを歩けば焼鳥の匂いがしてくるのがこの世です。たとえ悟りを開いても、現象世界に存在している限り<異熟心>が生起してくるのは止められないし、悪因があれば苦受が、善因があれば楽受が生起してしまうのです。
 「仏も昔は凡夫なり……」という戯れ歌があります。どんな偉大な阿羅漢も昔は凡夫だったのだから、どんな悪業を作ってきたか解りません。悟りを開いて心理的な苦しみはゼロになっても、「有余依涅槃」でいる限り必ず異熟心が生じてしまうのだから、痛いし、臭いし、汚いし……と、苦受の瞬間が皆無になることはないのです。
 苦を超越する清浄道を完成しても、「無余依涅槃」に入らない限り、苦受を伴う異熟心を経験する瞬間を免れることはない……。


*生存からの撤退


 存在を現象の流れとして捉える仏教的観点からは、病気という独自の存在がある訳ではありません。最高に輝いた健康な状態から、死に瀕した最悪の状態まで、ただ生命現象のグラデーションがあるだけです。
 病んだ状態も元気な状態もその中間も、瞬々刻々変化していて、何が病気でどこから健康なのか厳密な線引きはできないのです。
 普通に生きている時と病気の時にさしたる差がないのであれば、病の苦も生きる苦しみも同じなのだと考えられます。
 一切皆苦から逃れようと修行を始めたものの、病の苦を乗り超えても老いの苦しみがあり、死の苦しみがあり、愛する者と別離する苦も、憎き者と出会う苦も、欲しいものが手に入らない苦もあります。
 こうした苦しみを全て乗り超えた阿羅漢の聖者も、眼耳鼻舌身意の現象世界に生きている限り、好むと好まざるとにかかわらず、無量無数の対象が瞬時も止むことなく乱入し続け、異熟心がかってに引き起こされていきます。のみならず、生起したその心は刹那々々に変滅し崩れ去り、無常の苦を突きつけます。
 涅槃の静けさを熟知している阿羅漢の聖者は、そんなコントロール不能の、怖るべき意識の生と滅の奴隷状態をどのように堪え続けているのでしょうか。
 ブッダは、光り輝くような波羅蜜の結晶した阿羅漢たちが自ら命を絶つことは厳しく禁じました。生存から完全撤退できる日が来るまで、大慈大悲の心をもって、世の人々が苦から解脱できる道を説き示すように厳命されたのです。かくして、2500年後の今も私たちに仏教のダンマの道が開かれてきました……。(完)

Web会だより

『心と向き合って -赦し、懺悔、そして慈悲の修行へ-』(4) 匿名希望

(承前)
慈悲の瞑想へ
 このような諸々のことから、自分の中に強い劣等感や承認欲求があるのは母に褒められなかった過去が関係していると考え、地橋先生に相談すると、「それなら人を褒めたり、認める修行が必要です」との言葉を頂いた私は、人を褒め認めるには、「まずは自分も含めた人々の幸せを願うことから始めねば!それならば基本である慈悲の瞑想しかない!」と考えました。
 偶然その時読んでいた上座仏教の比丘の本に、「朝出かける前に慈悲の瞑想をすると一日が穏やかに過ごせるようになります」と書いてあるのを見つけ、毎朝の瞑想を慈悲の瞑想に充てることにしました。
 まずは、劣等感の強い自分自身への慈悲の瞑想を真剣に行い、そして、家族、友人、法友、職場の同僚、嫌いな人々と順々に広げていきました。会社員である私は特に、当然苦手な人もいる職場の同僚には意識的に強く慈悲の瞑想を行いました。好き嫌いを問わず慈悲の心をもって接しなければ、他者を認めたり褒めるのを習慣とすることなど到底出来ないと思ったからです。
 ところが、最初に効果が感じられたのは意外にも自分自身への慈悲でした。「私はまだ未熟で劣等感や承認欲求も強い。でも、それが今の『あるがまま』だ。そんな自分にも幸せを願おう」と思えるようになったのです。
 このように修行を続けているうちにまた発見がありました。それは、自分が仏教から離れた期間を取り戻そうと、本を読んだり瞑想する時間を増やそうと必死になるあまり、自分を美化したり聖者コンプレックスのような状態になっていたんだなと気づいたことです。自分なりに修行を積み、先生にも褒めて頂いたことで、私は仏教徒でそれなりの修行を積んでいるんだという慢心が現れ、瞑想者である自分のあるべき姿はこうでなければならないというような妄想を抱き、それが知らず知らずのうちに本当の自分との乖離を生んで苦しくなっていたのだなと自覚されたのです。
 このことに気づいた時には、懺悔の瞑想をした時のように心が軽くなる感じがありました。そして、「瞑想修行に取り組む人間にはこういうことはよく起こることだと、確か本で読んだことがあるな」と思い、そんな状態になった自分を素直に認めようと、これも受け入れることができました。
 慈悲の瞑想をすると未熟な自分でも認めてやることが出来、受容的で優しくなれ、それに加えてその気持ちを周囲にも同じように広げられるんだなと感じました。悩んでいた時に先生から教えられた、「まずは堂々と自分の幸せを願いなさい。そして、自らを清めてから他を清める順番です!」という言葉の意味がすっと腹に落ちました。
 自分で自分を認めてやる。すると他者への祈りも義務感のようなものでなく、少しづつですが、祈りたいなという優しい気持ちになっていきました。その結果、周囲との関係性の中で変化も生まれました。それは、他者を「積極的に褒め」たりするようなことではなく、他者への怒りや怨み、復讐心のような悪い気持ちを「自然と手放しやすくなった」ことでした。かつては、人から悪意のようなものを向けられるとこちらの劣等感からか感情がストレートに刺激され、「何だとっ!」という怒りの心が即座に立ち上がり、それに巻き込まれて気づきを失い、手放せずにいたのです。自分ではそれをどうにかしたいなと思いながらもできなかったのですが、このごろは少し手放せるようになってきたなと感じています。
 この些細な変化が現れただけでも周囲との摩擦が減ってきました。そして、自分でも気持ちが軽いし、なんか笑顔になれる時間が増えたな、鏡で見ても表情が柔らかくなったなとも思えます。それが他の人にも不思議と伝わるのか、職場で人に話しかけられたり、親切にしてもらえることが増えてきました。また自然と良い縁にも触れたり、忙しさから疎遠になりかかっていた学生時代の友人たちと関係が戻ったり、仏教の話ができる法友もできました。
 地橋先生は「瞑想をすると人生が変わる」と言われていますが、人生が変わるとは、世界が変わるのでなく、自分自身の心や考え方や視座が変わることなんだなと考えが及ぶようになりました。また、この瞬間瞬間にも自分は変化し続けている、悪い反応をするか善心所で反応するかでこれからの人生が変わっていっていくのだと、法話で繰り返し教えて頂いたことが少しづつ体感出来るようになりました。そしてこんな変化を、不善な方向にではなく、清らかな善なる方向に向けるための方法がブッダのダンマと瞑想にはあると、これが私が修行を通して確信することになったひとつの検証ではないかと思っています。
 そして今思うことは、まだまだ未熟で弱い心のある私は、朝カルに通うことやさまざまな媒介を通して法話に触れること、そうした仏教から離れないための仕掛けを自分で意識して作らなくてはならないんだな、そこも含めての瞑想修行なんだな、と言うことです。
 自分は独覚タイプではなく、周囲の影響を受けやすいので、周りの方々との縁を大切に、仏教の修行を通して、残された人生と自分自身を善なる方向へ変容させていければと強く思っています。(完)

サンガの言葉

「縁起」2 2021年10月号

9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」を再掲載しています。今月はその第2回目です。

存在の車輪のスポーク
 ブッダは縁起を単なる理論として説いたのではありません。ブッダが縁起を説いたのは、縁起がダンマの目的、つまり苦からの解放にとって中核となるからです。
 さて、ブッダはこの輪廻(サンサーラ)の起点を見つけることは出来ないと言っています。どれほど時を遡っても、更に遡れる可能性が必ず出てきます。ただし、輪廻が時間的に明確な起点を持たないとはいっても、明確な因果構造はあるのです。
 この因果構造は厳密にいくつかの条件の集まりによって支えられ、動き続けています。ブッダはこの条件を「十二の要素」(十二縁起)で示しました。そして、縁起についての教えの実践的な側面を作り上げているのはこれらの要素です。「十二の要素」とは、次のものです。
 無知(無明)、意志的な形成作用(行)、意識(識)、精神と物質(名色)、六つの感覚器官(六処)、接触(触)、感受(受)、渇愛(愛)、執着(取)、生存(有)、誕生(生)、老死です。
 これら十二の要素は存在の車輪のスポークで、そのすべてを私たち自身の中に見出すことが出来ます。私たちが輪廻の中を繰り返し流転し、様々な苦と出会うのは、これらの要素によるのです。私たちはこれらの要素のことを知らないので、束縛の中に捕われ続けます。この真理、縁起の真理を見出すことによって、繰り返される生と死のプロセスを止めることが可能になるのです。

このようにして、苦が生じる
 ブッダはこう指摘しました。
 無知(無明)に縁って意志的な形成作用(行)が生じる。
 意志的な形成作用(行)に縁って意識(識)が生じる。
 意識(識)に縁って精神と物質(名色)が生じる。
 精神と物質(名色)に縁って六つの感覚器官(六処)が生じる。
 六つの感覚器官(六処)に縁って接触(触)が生じる。
 接触(触)に縁って感受(受)が生じる。
 感受(受)に縁って渇愛(愛)が生じる。
 掲愛(愛)に縁って執着(取)が生じる。
 執着(取)に縁って生存(有)が生じる。
 生存(有)に縁って誕生(生)が生じる。
 誕生(生)に縁って老、死、悲しみ、悲嘆、痛み、嘆き、絶望が生じる。
 すべての苦はこのようにして生じるのである。

縁起(パティッチヤ・サムッパーダ)(ニ)

私たちの現世は過去世の結果
 この「十二の要素」の働きを分かりやすくするために、ブッダはこれらの要素が過去・現在・未来の三世に配分されると説明しています。十二の要素は、連続するどんな三世にも当てはめることが可能です。
 仮に、「識」から「有」(三番目から十番目)までの要素を現世に当てはめたとすると、最初の二つの要素は過去
世、つまり直前の生に相当し、最後の二つの要素である生と老死は来世、すなわち未来の存在を表します。
 この区分は十二の要素の働きを分かりやすく説明するための単なる便宜的な手段としてなされたものです。これを文字通り受け取って、「無明と行は過去にのみ起こり、現在には起こらない」と思ったり、「生と死は未来にしか起こらない」と思ったりしてはいけません。後で説明しますが、十二の要素は互いに連動しているので、十二の要素すべてを実際に各世で見出すことが出来ます。
 では、私たちが現在生きている現世から説明を始めましょう。現世は第三の要素である「意識(識)」から始まります。私たちの人生は意識を基本的な要素とする経験の流れです。生命は受胎時に、意識発生の瞬間とともに始まり、意識は死の瞬間まで生きている間ずっと続きます。
 すると、疑問が浮かびます。どのような条件によって私たちはこの現世に生まれたのでしょうか。意識はどこから生じるのでしょうか。私たちはどこから来たのでしょうか。私たちが生まれたのは単なる偶然なのでしょうか。私たちが生まれたのは創造主である神の意思によってなのでしょうか。こうしたことは縁起の教えによって明らかになります。
 ブッダは、私たちの現世は過去世の結果であると説明しています。過去世における私たちの「無知(無明)」と「意志的な形成作用(行)」のために、私たちは生まれました。その後、現世においては、私たちの渇愛(愛)と執着(取)によって、また私たちの行為、即ちカルマによって、将来に新たな生を生じさせる力が動き始めます。そして、老いと死に続いて新たな誕生が起こります。このようにして、生成のプロセスが何回となく換り返されます。

悟りにおける驚くべき発見
 この輪廻のプロセスをいつまでも繰り返す必要はありません。繰り返し続けるかどうかは、その根元にあるたった一つの原因が鍵を握っています。その原因とは無明です。ブッダの悟りにおける最も驚くべき発見は、その無明を根こそぎにできるということです。現象の本質を正しく認識し理解すること、すなわち現象を実際あるがままに捉える認識を、生み出すことができます。この智慧による認識を呼び起こすことによって、無明は根絶させることができます。
 無明の消滅によって、意志的な形成作用(行)はもう生じません。そして意識(識)が消滅します。意識(識)の消滅とともに精神と物質(名色)は存在しなくなり、精神と物質(名色)の消滅によって、六つの感覚器官(六処)、接触(触)、感受(受)ももう存在しなくなります。感受(受)がなければ、もはや褐変(愛)と執着(取)は存在せず、業の蓄積もなく、誕生(生)もありません。誕生(生)がなくなるので、老と死ももう存在しません。つまり、苦の消滅ということです。