第一章 これが最期……
昨日は、春秋社という出版社の社長がお亡くなりになり、葬儀に参列しました。春秋社は、私が初めて書いた『ブッダの瞑想法』という本を出してくれた出版社で、その最初の本が好評だったので、その後何冊か刊行していただいたというご縁があります。私がこうして瞑想や仏教の話ができるのも、無名の私の本を上梓してくださった春秋社のお蔭さまでもあり、法事ではこれまでの思い出がよみがえり、感慨をもよおしました。今回はダンマトークで「死」についてお話しようと思っていたところ、はからずも死者に思いを馳せ、人の生き死にを考えさせられた翌日の講座になりました。
*人生が苦しくなる構造
さて、ヴィパッサナー瞑想で最も大事なのは、現在の瞬間です。今この一瞬に鋭くサティを入れて、正確な対象認識を目指します。それが人生の苦しみを乗り超えていくブッダの方法なのです。なぜ正確な対象認知なのかというと、実在するリアルな世界と、思考がまとめあげた概念世界をゴッチャにすることから人生の苦しみが始まるからです。普通に生きていれば、人は誰でも事実の世界と想いの世界を混同する傾向があります。脳内フェイクの妄想世界と真実の世界を取り違えやすい認知システムで生まれてきたからです。事実であっても誤解であっても、反射的に怒ったり、貪ったり、嫌悪するので、その瞬間に不善業が作られ人生が苦しくなると見ているのです。どうしたらよいか。意識を研ぎ澄ませて、一瞬一瞬をありのままに、正しくとらえることから始めればよい。その具体的な方法を、ヴィパッサナー瞑想が教えてくれるということです。
*崩れ去っていく事実
心に止めておいていただきたいのは、リアルな実在として存在するのは、たった一瞬の刹那でしかないことです。今この瞬間に確かに実在していたものが、次の瞬間には過去になってしまう。そして過去になった瞬間、記憶イメージや妄想と同じ素材になってしまうのです。目の前の事実が、一秒後には無いのです。リアルな現実が次々と崩れ去って、妄想と同じものになっていく……。
よく考えれば、これは驚くべきことです。ボーッとしていたら、真実の一瞬をありのままに捉えることはできません。事実と妄想の混乱状態である「無明」に陥りやすいのは当然であり、一瞬の洞察に命を懸ける真剣さが求められる所以です。
その通りだ。よし、命懸けでがんばるゾ。とヴィパッサナー瞑想を始めてみても、どうでしょうか。ものの5分も経たないうちに、眠気に襲われたり、妄想に巻きこまれたり、急につまらなくなったり、あーあ、と溜息をついてみたり……、結局かけ声だけで、本気の命がけになど簡単になれるものではありません。
*メメント・モリ(死を想え:死を忘るなかれ)
ではなぜ、本気になれないかというと、なんの根拠も保証もないのに、だらだら長生きする予定でいるからなのです。(笑) 人は基本的に未来を楽観視する傾向があり、自分だけは大丈夫と考える「正常性バイアス」を搭載して生まれてきています。大変だ、大変だ!と頻繁にパニックを起こしたり、過剰反応をしていれば疲弊してしまうので、多少のことでは大騒ぎしないように楽観視する心のメカニズムが備わっていると考えられています。
瞑想必死でがんばろうと思っても、まあ、人生百年時代やし、今からスパートかけられへん。のんびり、マイペースで行こうかい……となる訳です。(笑)
でも、もし本当にあと一年しか生きられない、いや、半年後に確実に死ぬとなったら、どうでしょうか。だらだらお笑い番組観てられますか? 無駄な時間は一瞬たりともないはずです。
*死随念ー死を想う仏教の瞑想
アップル社のCEOだったスティーブ・ジョブズも「今日が人生最後の日だとしたら、今、本当にやりたいことをやろうとしているか?」 と自らに問いかけていたようです。癌告知をされて以降のジョブズにとっては、「今日が人生最後の日……」は冗談でも想定でもない、本気の実感だったことでしょう。自分が死んでいくのは確実で、その最後の日、終末から振り返って今日やるべきこと、やらなければならないことは何かと考えてみると、けっこう真剣さが出るような気がします。
しかし今日も元気でご飯が美味しい人が想定すると、その瞬間は身が引き締まりますが、たちまち甘い考えが浮かび、なーに、まだまだ……と正常性バイアス包まれてしまうでしょう。そこで修行法が必要となり、原始仏教では「死随念」という念仏やマントラ系の瞑想法が今でも実践されています。
これはサティの瞑想とは異なり、イメージや思念に集中し続けていく瞑想です。仏を念じる「仏随念」や、甘い欲望に打撃を与え貪りタイプを修正する「不浄随念」、慈悲の心を定着させる「慈悲随念」など、瞑想者の資質や反応系の心を組み換える修行と考えてよいでしょう。
私がスリランカで習った死随念は、「死は確実、生は不確実」という意味のパーリ語を唱え続けるものでした。しかしパーリ語が苦手な人には、意味もイメージも心に刺さってこないので、随念効果が弱いと感じました。一瞬一瞬、死んでいくのだ、ボーッと生きてられないゾ、と自分を戒めるメメント・モリの効果がないと死随念の修行としては弱いのです。
そこでグリーンヒルの道場での合宿では、瞑想者の方々に、例えば「死にます、死にます……」と日本語で唱えるように提案したら、多くの人に効果的でした。昔、10日間合宿で「死にます、死にます、死にます……」と一日中、死随念に取り組んでいた人がいました。その人は真剣だったし集中力もあったので、本当にそんな気持ちになって、食事の時間になっても、とても食べる気がしない、と食堂に降りてこられなくなりましたね。(笑)
随念の修行をやってみると、言葉やイメージに強く反応するタイプの人とそうでない人とがきれいに分かれます。言葉に反応するタイプの人には、ラベリング効果も随念効果も鮮やかな傾向があります。
言葉の脳とイメージ脳のどちらを多用するかで、概念重視派と実感派に分かれますが、どちらも一長一短です。両方の脳がバランスよく使われるに越したことはなく、その訓練に最適なのがラベリングありのヴィパッサナー瞑想と言えます。概念のフィルターを通さずあるがままに観る訓練と、ラベリングで言語化する訓練が並行して繰り返されていくからです。
心の反応パターンを根本から書き換えるには他の修行が必要ですが、それほど深刻な問題を抱えていなければ、随念系の瞑想によって反応系の心は上書きされていきます。
死を想定するだけでは、実際に死を宣告されたような衝撃はありません。どうしても甘くなってしまうのですが、一日中えんえんと「死にます、死にます……」と繰り返していると、心に去来する連想や妄想が必ず影響され、否応なしに死について想いを馳せることになるでしょう。理論的に納得しなければ先に進めない人は「エンディングノート」などがよいかもしれませんが、同じ言葉とイメージを繰り返し心に上書きしていく随念が効果的なタイプの人もいるのです。
*想定から本気
先ほどのスティーブ・ジョブズの言葉は、正確には次のようなものです。
If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?
「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは、本当に自分のやりたいことだろうか?」
これは、2005年スタンフォード大学の卒業生に贈った有名なスピーチの一節です。この時ジョブズは50歳でしたが、30年間毎日、この言葉を鏡に向かって語り続けたとも言われます。
若い頃から座禅の修行をしていたジョブズは、真剣にこの言葉を呟いたでしょう。しかし48歳で膵臓癌を告知された2年後のこのスピーチでは、「もし今日が人生最後の日だとしたら」はもはや想定ではなく、リアルな本気の詰問となって自身に迫ってくるものだったはずです。その後、56歳で亡くなるまでの6年間の人生は、不安や怖れと戦いながらも一日一日、一瞬一瞬、完全燃焼しようとした日々だったように思われます。まさに「メメント・モリ(死を想え:死を忘るなかれ)」の有無を言わさぬ力に支えられもよおされ、人生を輝かせたであろうし、瞑想をする一瞬一瞬も命を懸けた真剣勝負だったのではないでしょうか。
人は本能的に死を怖れ、忌み嫌い、縁起でもない、と考えようとさえしない傾向があります。メメント・モリの正反対で、死を想うな、死を忘れろ、自分だけは大丈夫、と何の根拠もない正常性バイアスで楽観的になり、愚かな煩悩に振り回されて不善業を作りながら死んでいきます。ダラダラした気持ちで瞑想をしても、睡魔に襲われ、妄想に巻きこまれ、どうもノラナイな、やる気が出ない、と怠けてしまいます。(笑) もしジョブズのように、真剣に死を想うことができれば、いかなる人生の現場であれ、その一瞬一瞬を最高に輝かせられるのではないでしょうか。
*暗闇に独り漂う……
最近私は、保山耕一というカメラマンを取材した番組を観ました。この人は、生まれ育った奈良の風景を美しい映像の詩のように撮っている方です。ヴィパッサナー瞑想者として、どうしたら今この一瞬に命を懸けられるか、と自らに問いかけるときに参考になるのではないかと思い紹介します。
この方は、2013年に直腸癌の告知を受けました。腕のいいカメラマンでしたが、ある日突然倒れて、診断結果は、このまま放置すれば余命はあと二カ月と言われたそうです。放射線治療や化学治療を受けて手術ができる状態になり、いちおう成功したのですが、5年後の生存率は、わずか5%から10パーセントと告げられました。死の宣告同然の確率です。
印象的だったのは、仕事ができなくなった時、この方には友達と呼べる存在が一人もいないと気づいたことです。「仕事でつながっている人間関係はあったけれど、心でつながっている人は、誰もいてなかった」と愕然としたのです。仕事仲間は結局お互いにライバルばかりでしたから、保山は癌でダメらしいとなれば、ただ忘れ去られていくだけです。
ご家族がいるのか不明ですが、映像で観るかぎり、結婚指輪もしていないし家族の話がまったく出なかったので、独身なのかもしれません。もし妻も子もいない上に、心の通じ合う友達がゼロだとしたら、その孤独感はいかばかりかと思いました。「暗闇の中でたった一人ポカーンと漂っているような、社会の中で自分の存在が孤立しているような印象を持った」と述懐していました。
*研ぎ澄まされていく眼
そんなある日、スマホで動画が撮れることに気づいたのです。プロのカメラマンなのに、スマホに動画機能があることを知らなかったのだそうです。(笑) 体調も悪いし排便障害もある今の自分にできることは何だろうと思いあぐねていて、ふとスマホで映像が撮れるやん、と閃いたのでした。スマホだったら軽くて持ち運びに負担がかからないので、毎朝始発電車に乗り、その日の直感にしたがい、生まれ育った奈良の美しい風景が撮れそうなところを訪ね歩くようになったのです。
ほどなく撮影された動画を、その日のうちにインターネット上にアップロードすることも始めました。すると、それまで生きているのか死んでいるのかわからないような灰色の毎日だったのに、何かが変わり始めました。
カメラマンの仕事しかできない自分が、お金やビジネスとは無関係の動画を撮影している。ただ純粋に撮りたいと思う大好きな奈良の、最も美しい一瞬をカメラにおさめていく。子供のように無心に没頭している。「ああ、こんな感じ、久しぶりだ!生きてるやん!」と実感したといいます。
死期の迫りつつある人の感覚が鋭く研ぎ澄まされてくるからでしょうか。仕事を離れて純粋に風景の中に立ってみると、ああ、風が吹いている。雨が降っている。歩いたら、落ち葉の音がザッ、ザッ、ザッと鳴る。曇っていて寒いなと思っていたのに、日が差してきたらこんなに暖かいのか……。それまで気にも止めなかった当たり前の光景が新鮮に感じられてくる。まるで生まれて初めて世界を眺める幼児のように、極上の美の瞬間を見出して撮影していることがすごく幸せだったのです。
この番組は、絶望的な5年後生存率を告げられてから6年経過した頃のものです。もう亡くなっていてもおかしくないのに、保山さんはとても元気そうでした。本当にやりたいことが見つかり、それが存分にやれているからでしょう。生き甲斐が感じられ、心が充実している時の体の細胞は活性化し、はた目にも生き生きと輝いて見えるのではないかと思います。
保山さんは天職に選んだカメラマンを30年間続け、死の宣告をされて初めて自分の人生に本気で向き合うことになり、最後に見出した答えは、長年続けてきた同じ撮影でした。仕事やお金や何かのためではなく、純粋に自分の心に響いてくる瞬間をカメラに切り取っていく作業でした。迫りくる死が意識されると感覚は鋭敏に研ぎ澄まされ、保山さんの目は一瞬の美を逃さずにとらえ、おそらく彼にとって最高傑作の映像をカメラにおさめ撮っていったように思われます。喉元に短刀を突きつけられたように、死と向き合った時に生が最も輝くメメント・モリの力だと言えるでしょう。
*鉛筆で描いた月
保山さんの奈良の映像には繊細な美しさが感じられました。
「自然の移ろいはすごく正直で、規則正しくて、春が来て、夏が来るというように、ちゃんと順番を守っている。でも、春が来たり、夏が来たり、そのように季節がめぐっていることは、今の自分には当たり前とは思えなくなった。春が来るのは奇跡だし、花が咲くのも奇跡だし、この環境がずっと続いているのがものすごくありがたく感じられる」。
このような言葉は、死が迫りくる人に特有のものでしょう。来年この桜が見られるかどうかはわからない。これが最期の桜……と思えば、今この一瞬に命を懸けて向き合えるでしょう。十五夜の月がきれいだと言う人は多いが、保山さんにとって一番美しい月は少し違うのです。
昔、ミャンマーの森林僧院で修行していた時に、満月の夜がどれほど明るいかに驚きました。煌々と照らし出される月光の世界に、夜の美しさを感じました。ところが新月になり月明かりがゼロになった夜は、ミャンマーの山奥ですからね、太古の昔を思わせる凄まじい暗闇にすべてが包まれるのです。漆黒の闇の世界の広がりです。しかし頭上を見上げると、夜空一面に物凄い星が息を呑むような輝きで燦めいて、文字どおりギンギンギラギラ状態です。あの満天の星々の輝きには思わず立ち尽くしたのを覚えています。
そんな真っ暗闇の新月の翌日が、保山さんにとっていちばん美しい月なのですね。それは、先の尖った鉛筆で描いたような淡く、細い月なのです。西の空に沈んでいった太陽を追いかけるように、繊細な月が微かに現れてくるのを見た瞬間、ゾクッと身震いするような美しさを感じるのだそうです。この状態の月は真剣に探さないと見つからないのですが、存在感の最も希薄な極細の月に最高の美を感じる感性は素晴らしいと思いました。
たいていの人は三日月くらいで月の存在に気づくのでしょうが、保山さんは誰も注意も払わない新月の翌日の細い線のような月に目が吸い寄せられていくのですね。春日大社の社殿の軒先に深まっていく黄昏の中に、淡い微かな極細の月が映し出されている美しい映像でした。
なぜ、このような繊細な美しさに目が吸い寄せられていったのでしょうか。そのポイントは次のようなことだと思われます。
真っ暗闇の新月は全ての存在がかき消された暗黒の死の世界の象徴です。しかし、その闇の中から復活し、再生してくるものがある。闇の中に消滅した命が甦ってくるかのように、鉛筆で描かれたような月が微かに姿を現してくる……。死が迫りくる中で最後の仕事をしていた保山さんなのでしょうが、それでも再生してくる微かな月の美しさに一縷の望みを託しながらカメラを回し続けたのではないかと私は解釈したのです。
死が命を輝かせ、一瞬の刹那をとらえる無常の美学につながっていく。遠からず冷たい闇の中に沈んでいく自分の人生の最期に、真実の瞬間を焼き付けておきたい。死は覚悟しているが、それでも命ある限り生きていきたい……。
そんな保山さんと同じ感覚で、一瞬一瞬に命を懸けてサティを入れていくのが真の瞑想者ではないか。存在の究極に迫り、生存の流れから解脱する一瞬に向かって修行しなければならない。そう教えられたように思いました。(次号に続く)