(承前)

6.「悲しみ」という名の「怒り」を手放す


 前述した未亡人ですが、悲嘆に暮れた母の様子を見かねた娘が『瞑想クイックマニュアル』出版記念講座の1dayコースに母親を連れて来ました。その後しばらくして、この未亡人は夏の10日間合宿にも参加されたのですが、娘から強引に背中を押されて渋々来たようで、瞑想ができない状態でした。ボーッと物思いに耽ってしまう感じで、リタイアするかもしれないと思いましたが、それでもなんとか踏み留まってがんばっていました。
 この方は、壁に手を付きながら歩く瞑想をしていました。「(手を)のばした」「(壁に)触れた」「(足が)離れた」「進んだ」「触れた」「圧」と繰り返しながらゆっくり歩いていました。
 印象的だったのは、この方は壁から手を離すと漠然とした不安を感じるらしく「不安感」「恐怖感」とラベリングしていました。面接で何度も確認したのですが、「奈落の底に落ちていくような漠然とした恐怖感」ということでした。「恐怖感」の他にも「(暗闇に落ちていくような一瞬の)恐怖」「(どこまで落ちていくかわからない)不安感」など、微妙に言葉が変わりましたが、足が床に着き、手が壁に触れると「安堵感」というラベリングに変わるのでした。
 「恐怖感」から「安心感」まで毎日毎日、えんえんと繰り返していたのです。すると、手足が宙に浮いている寄る辺ない感覚と、自分の置かれている現状がダブってきたのでしょうか。自分の悲しみや苦しみの構造がだんだん理解されてきたようです。
 どんなに恐怖があり不安があっても、やはり手が壁に触れる瞬間が来るし、足も必ず床に着いて両足で立てる瞬間が来るのだという安堵感です。誰にも頼ることのできない、孤独にひとり宙に浮いている感覚にも終わりがやってくる。必ず到着できるときが来て安堵することができるし、どんなことにも終わりがあるのだ……ということがわかってきたのです。
 こうして、合宿が終わりに差しかかったある日の午後、真夏の陽射しがパタリと途絶え、辺りがにわかに暗くなって夕立ちが襲来しました。激しい雨が降るだけ降ると、やがて黒雲が破れて再び陽光が射し始め、すっかり晴れ渡りました。グリーンヒルはわりと緑の多いところですが、そこかしこの木々の緑からしたたり落ちる雨滴がキラキラキラキラ光り輝いているのが見えました。その時なぜか、この方の言葉だと、夫は成仏したと感じたというのです。
 夫は成仏したというのは、私の言葉に翻訳すると、悲嘆が手放せたということです。自分の中のどうしようもない喪失感と悲しみが終わりにできたのではないか、と。この方は、夕立の後に辺り一面の景色がキラキラ輝くのを見ながら「つかんでいて放せなかったあの人の腕を、私は今、放そうとしている……」と感じ、涙がこぼれたと言っていました。
 この時からなぜか心がシーンと静かになって、瞑想が本格的にできるようになり、その次の日には、少女時代に描いていた絵をもう一度描いてみたいと思ったそうです。合宿が終わったら、絵筆を取ってみたい……。今までは、とてもそんな気持にはなれなかったけれど、何かが確かに終わったと感じられたのです。
 合宿が終了し2回くらい瞑想会に来たのですが、その後はもう来られなくなってしまいました。苦しみが乗り超えられると、瞑想をやらなくなる方が多いのですが、この方もそのタイプだったようです。人生に躓いた人の大きなドゥッカ(苦)がこうして癒されるならば、たとえその後、瞑想から離れていったとしても、苦を癒すためのシステムとして、仏教はひとつの役割を果たしたと言えるでしょう。
 この合宿に入るまでは、誰に会っても突っかかっていたと言っていたこの方も、あれだけの体験をなさったのですから、たぶん優しくなっているのではないでしょうか。

7.自己否定感覚を乗り越える
 いずれにしても、怒りが渦巻いている限りは優しさや慈悲が発露することはありません。その乗り超え方はいろいろありますが、もし誰かの悲嘆に立ち会うことになった場合には、余計な慰めは言ってはいけないというのが鉄則です。グリーフケアに携わっている方によれば、不用意に励ましの言葉などをかけてもまず良い結果にはならず、「あんたに何がわかるのよ」というふうになるそうです。
 傾聴してあげること、何もできないがただ聞いてあげるのがよいと言われています。信頼できる共感者の存在は、悲しみが癒される重要なファクターですが、誰でも簡単にめぐり会えるものでもありません。難しいところですが、ヴィパッサナー瞑想には希望があります。サティの瞑想では、ひたすら自分に向き合い、ありのままに客観視することが求められています。その結果、他人の助けがなくても、自分自身で負の情念を解き放つことが可能なのです。事実を正確に把握し受容するプロセスでは、他人に指摘されて気づくよりも、自分自身で気づいた衝撃の方が何倍も強烈な印象となります。それが、観察の瞑想の威力です。
 悲しみを乗り超えるためには、まず悲嘆という負の情念を解放しなければなりません。そのためには、辛く苦しい真実に向き合い、悲しみの涙に暮れるプロセスを経なければならないでしょう。悲しみを抑圧し、このプロセスをカットしている限り、いつまでも引きずることになります。悲しみも「対象を嫌う」怒りの心に分類されますので、悲嘆が抑圧されている心に慈悲の優しさは発露しづらいのです。
 悲嘆という怒り系の心を乗り超え、真の慈悲を体得していく上で最も大切なのは、自己肯定感です。悲嘆とトラウマ(心的外傷)と劣等感に共通するのは、怒りと、自己肯定感の乏しさです。自分は劣っているという認識も、嘆き悲しんでいる自分も、ズタズタに傷ついた自分も、当然肯定できようはずもなく、その状態を嫌悪している怒りと言えるでしょう。
 劣等感の場合、それが自分のキャラクター(性格・気質など)に関するものであれば「自己否定感覚」になるだろうし、自分が失敗したことによる単発的な出来事に起因するものであれば「自己嫌悪」になるでしょう。先ほどお話した4歳の娘が交通事故にあった方のケースでは、自分は母親失格ではないかという罪悪感と劣等感とトラウマと悲嘆がゴチャ混ぜになって、強烈な自己否定感覚に襲われていたので能面のような表情になっていたと思われます。それゆえにこの情況では、まず大いに泣くことによって悲嘆を手放すことがどうしても必要なのです。
 怒りの対象となるマイナス感情や負の情念を解放する仕事が終わったら、積極的に自己肯定感を高める営みが必要不可欠です。優しさを阻む否定感情が無くなり、ゼロになりました……。それだけでは、積極的な慈悲の発露には弱いのです。自分を受け容れ、自分を愛することができ、自己を積極的に肯定できる心から、他者への優しさは生じやすいということです。
 では、自己肯定感を養うのに必要なものは何でしょうか。それは自己有用感です。私は無用な存在ではない。私は人のお役に立てる存在であり、私の存在にも価値があるのだという感覚です。そしてこの自己有用感を養うには、当然のことですが、どんな些細な善行でも躊躇せずに実行することです。義捐金を送ったり、ボランティアだけではありません。自分の家のトイレ掃除やゴミ出しからでも構いません。席を譲るのも、ネットに有用な情報を書き込むのも、他人の家の前の道路を清掃するのも、ゴミを拾いながら駅に向かうのも、最初は戸惑っても、しだいに人のお役に立てることが自然にできるようになります。
 さらに、自己肯定感と大いに関係があるのは達成感です。何事も投げ出さずに最後までやり遂げ、「やったぞ」「やればできるんだ」という気持ちです。常識的に考えても、自分のなすべきことを途中で投げ出してしまえば、そんな自分が嫌になって自己否定的な傾向に陥りがちです。やり遂げたという感覚は、なんとなく自分を褒めてやりたくなるし、自己肯定感覚につながっていきます。

8.善行を積むことの意味
 以上のようなことを大局的にみれば、大切なのは人との関係性だと言えるでしょう。やはり人間というのは孤立した孤独な情況では生きるのが苦しく不安定になる存在です。人は、人との関係性や繋がりの中で生きるように、遺伝的にプログラムされているのです。
 では、人との関係性を築いていくには、具体的にどのようなことを心がければよいのか考えてみましょう。
 まず第一には、前述した善行です。善行を行なうと気持ちが良いし、達成感があり、自己肯定感を高めてくれます。自分自身の心を浄化し、向上させていくのに強力な効果を発揮するでしょう。しかし、それ以上に大事なことは、善行をすれば、他人や社会との関係性が良くなり、素晴らしい絆ができるということです。相手のためになることや世の中に貢献する善行をしている人は必ず好かれるし、尊敬されるし、評価されるし、良い絆が培われ関係性がよくなっていくものです。その結果、世の中や人と関わることができている安心感や自己肯定感がさらに増していくでしょう。
 自分の心の闇に目を背けてそんな善行をするのは、偽善ではないかと言う人もいるかもしれません。だから何もしない方がよいのでしょうか? 何もしなければ、現状に何も変化は生じません。心の闇を根絶するのはライフワークと心得て、まず諸々の善行に着手し、人との関係性を良好にすることです。人間の幸福度や長寿の原因に指摘されている第一位は、良好な人間関係なのです。これは世界中に共通です。人というものは、人間関係や絆の良し悪しで幸福が左右されてしまう存在です。互いに協力し合って生き延びてきた700万年の人類史の結論なのでしょう。
 慈悲の瞑想も、本来は心の闇を一掃した人から発信されるべきものかもしれません。自ら浄められてから他を浄めよ、というブッダの教えからしても、それが正論です。しかし、誰もが修行第一の道を歩む訳ではありません。ほとんどの人は、ライフワークとして心の根本問題に取り組み、人生を閉じるまでにやり遂げることができれば大成功といったところでしょう。
 心の土台が浄らかな人は、慈悲の瞑想の上書き効果が鮮やかに現れます。しかるに、深刻な心の闇を抱えた人の上書き効果には限界があるのも確かなことです。では、そういう方の上書き効果はゼロかと言えば、そんなことはありません。繰り返され習慣化されたものは、必ず反応系の心を形成していきます。多くの場合は、繰り返された反応パターンが一番で起動するものです。
 土壇場に追い込まれた情況では、もっと深い心のプログラムが解除されますから、豹変し、本性が出た……ということになるかもしれません。だから、どうだと言うのでしょう。慈悲の瞑想は虚しいもので、やらない方が良いと言えるでしょうか。土壇場の極限情況など滅多にあるものではありません。たとえ不完全な上書き効果であっても、心を浄らかにするあらゆる営みは価値あるものです。そのように、必ず心は変わっていくのです。
 たとえ不完全、不徹底でも、衆善奉行、諸々の善行を行じ奉るべし、です。何よりも、行為の実行ほどカルマが良くなるものはないのです。世のため人のために善行を積み重ねていけば、人生の流れが好転し、運が良くなったラッキーな日々が到来した印象を受けるでしょう。現実として日々、好きことが起きれば心は良い方向に傾くものです。それとも毎日、嫌なこと、苦しいこと、最悪な現象が続いた方がよいのでしょうか。善行をすれば、カルマが良くなり、穏やかな優しい心が立ち上がりやすくなるのですから、それだけでも心がけるべきでしょう。
 慈悲の瞑想の文言を繰り返すだけでも素晴らしいことなのだと、ぜひ言っておきたいと思います。たとえ悲しみや劣等感が心の奥底に残っていても、慈悲の瞑想の文言を繰り返していくだけで優しいモードになれるのです。それが不完全で脆くても、怒りモードでいるよりも、優しいモードになった方がよいのだと心得て慈悲の瞑想をしていきましょう。カルマが良くなれば、やがて素晴らしい共感者やカウンセラーや、安全基地になってくれる人との出会いにも恵まれてくるでしょう。そうして心が整い、環境が整い、時の流れ、因縁の流れに助けられて、成しがたきライフワークを成し遂げていくのです。
 心の奥深くに抑圧されている劣等感やトラウマや悲嘆に向き合い、その事実を直視して受け容れる人生最大の難事業をやり遂げるのです。始まりがあったものには終わりがあり、悪くなった原因に匹敵する良い条件や原因が組み込まれれば、完全に乗り超え終わりにできるのも確かなことです。長い間、黒くわだかまっていたものが完全に解体し、解き放たれたとき、素直で自然な優しさに満ちた慈悲が溢れていくでしょう。

9.エゴを乗り越える
 ここまで、悲しみや劣等感やトラウマという名の怒りを手放すことを強調してきました。では、怒りさえなければ自動的に慈悲の人になれるのでしょうか。残念ながらその保証はありません。怒りや残酷さが引き算されたニュートラルな状態から、温かい慈愛がこぼれる場合もあるし、そうでない場合もあるでしょう。確かなのは、ネガティブな悪いものが発信されなくなっただけです。
 それでは、優しさを充分に与えられれば、誰でも自動的に優しい慈悲の人になれるのでしょうか。多くの場合は、その通りです。虐待も慈愛も、暴力も優しさも、人は受けてきたものを反射的に出力してしまうものです。
 しかし、小さい頃から大事にされ、まるで王子様か王女様のように育てられたのに、ただワガママなだけで、やりたい放題のゴイストになり、慈悲も優しさも発信されない愚か者もいるようです。大事にされ、優しさを受けたのに、まるでダメ夫やダメ子になるのはなぜでしょうか。
 一つには、純粋で賢明な優しさではなく、愚かな溺愛や盲愛を受けてしまった可能性があります。もう一つは、我執やエゴ感覚や自我意識の問題です。ギブアンドテイクで取引される優しさもあれば、正直や優しさを戦略として利用している人たちもいます。
 薄汚れた優しさと慈悲が決定的に異なるのは、エゴ感覚の有無と言ってよいでしょう。エゴ性を乗り越えなければ、純粋な慈悲の心は育まれないのです。自分に被害を与えた人、敵対する人のためにも幸せであれと祈る、慈悲の瞑想のむずかしさがここにあります。純粋な慈悲の瞑想を体得するには、エゴを乗り超え、仏教の究極の到達点でもある「無我」を目指さなければなりません。
 こうして、慈悲の瞑想が完璧にできるのは、悟りを完成した人だけなのだと絶望的になります。まあ、致し方ありません。仏道を極めるのは至難の業であり、聖者のみが慈悲の完成形を体得するのであれば、われわれ泥凡夫は、自分の立ち位置から一歩づつ歩んで、果てしなく遠いゴールを目指して日々なすべきことを一つづつやり遂げていくだけです。途方もなく巨大なグラデーションですが、1ミリでも心が浄らかになれば、慈悲の純度も向上しているのです。それに正確に比例して、人生の幸福度も確実に上がっていくのです。

10.優しさのために
 慈悲の瞑想に真剣に取り組むことは、怒りを引き算し、エゴを引き算し、智慧を養い、捨の心を組み込んでいく修行であり、自己実現の道そのものとなります。この全人格的な営みがうまくいけばいくほど、優しさも智慧も崇高さも慈悲の心も深くなり、自己完結していくのです。
 この自己実現の悟りの道であり心の清浄道を歩み出すスタート地点は、私たちの顔が異なるように、長い輪廻の中で集積してきた宿業により千差万別です。優しくて賢明な両親や家庭環境に恵まれ、細胞レベルで優しさが自然に組み込まれた、生粋の慈悲の人もいるでしょう。正反対に、幼い頃から虐待を受け、トラウマや怒りを心中に深く抱えてきた人もいるでしょう。それは、カルマの相違であり、現象世界にこうした落差が生じているのは否めない現実です。
 だが、あらゆる存在は互いに己の分を守りながら公平であり、万物万象は平等にそれぞれの役割を果たしているのです。生来の優しい慈悲の人がその役目を果たすように、トラウマに深く傷ついてきた人は怒りを乗り超え、自らの運命を受容して「悲(カルナー)」の瞑想の達人として、世界中に溢れている虐げられた人々の等身大からの共感者となり、癒やしの仕事をやり遂げていくのです。
 銀の匙をくわえて生まれてきたおめでたき幸福の王子たちには、本当に傷ついてしまった人の悲しみは分かりません。経験が皆無なのだから、心底からの共感も同情もできないし、「慈しみ」の名人ではあっても「悲」の達人にはなり得ないのです。愛された者も、虐待された者も、人間として平等に、ただ異なった役割を果たしながら、因果法則を学び、エゴを乗り超え、自己実現の道を歩んでいくのです。
 誰も自分の運命を呪うことはできないし、手放しではしゃぐこともできないのです。肉食獣が獲物を倒して数の淘汰に一役買わなかったら、あっという間に草原は食い尽くされ増えすぎた草食獣も死滅するでしょう。他人の糞を日がなまるめていくフンコロガシが存在しなかったら、アフリカのサバンナはたちまち枯渇し、ガゼルもシマウマもチータもライオンも全滅するのです。カルマが違い、役割が違うだけで、フンコロガシもライオンも存在するものは全て、そのありのままで、公平で平等な立ち位置にいると心得、自分に与えられた運命や情況を受け容れ、なすべきことをなしていくということです。
 優しく愛され、悲嘆も劣等感もなしに来られたのであれば、それはそれでお人好しのような優しさが出るだろうし、苦渋の人生を歩んできた人は、それゆえに深く傷ついてきた人たちに奥深い優しさを発信できるようになります。ただ、自然にそうなるのではありません。
 放置しておけば必ず汚れていくし、悪くなっていくのが人の心です。汚れれば汚れるほどドゥッカ(苦)の分量が増し、浄らかになればなるほど苦しみが引き算され幸福度が増していくのも確かなことです。心を浄らかにする瞑想は、苦を乗り超えて無くしていく瞑想であり、心を浄らかにする修行も、優しい慈悲の人になるための行法も、同じ一本の道なのです。遠大な計画の下に、その道を歩み抜いていきましょう。

関連質問
Aさん:
 慈悲の瞑想をしているとき「私を嫌っている人の悩み苦しみがなくなりますように」と唱えていると、私のことを嫌っている人の顔がまず浮かんできます。そのあと、その人の悩み苦しみってなんだろうとか、その人の願いは何だろうとかの考えが浮かんで、結局それはわからないというふうになってしまうのですが、どう対処すればよいのでしょうか。

回答:
 慈悲の瞑想は、テーマから外れなければ、たとえ考えごと的になってもよいのです。事実検証ができず、妄想や想像力の域を出ないものであっても、嫌いな人や自分を嫌っている人を受け容れ、好きになれるというのは良いことなのです。慈悲の瞑想は、嫌いな人が嫌いではなくなり、好きになっていくプロセスであるとも言えるでしょう。
 しかしそうは言っても、普通は好きになれません。嫌いな人を好きになるためには、認知が変わらなければなりません。認知が変わるためには、価値観や世界観や考え方など、心の中で事実上の自己変革をしていくのと同じようなものです。一方的なエゴの視座から眺めれば、嫌な人はいつまで経っても嫌なままでしょう。
 どうしたら視座を変え、発想の転換ができるのかという問題です。この時に大事なのは情報です。相手に関する情報が乏しく、その内容も劣悪なものであれば、結論は悪い人だ、残酷な人だということになり、頭の中にはモンスターのようなイメージが作り出されてしまうかもしれません。例えば、嫌いな相手というのは、こちらに対して優しさの反対の行為、冷たかったり被害を与えたり、こちらが嫌がることをしている人でしょう。しかし、もし相手の情報をたくさん持っていれば、なぜそんな態度を取るのかその背景が推測できるかもしれません。どんな人にもそれなりの事情があり、相手にもそうなるだけの理由があるでしょう。あるいはその人の来し方や現在置かれている状況がわかってくれば、悲しくも哀れな過去に同情的になり、受け入れて認めることもできるかもしれません。
 しかし嫌いな人の情報を客観的な立場から収集するのは、やはり難しいことです。情報が得られないのであれば、たとえ妄想であってもこちらに慈悲の気持ちが芽生えてくれば、それを活用すればよいという考えもあります。相手をゆるせず、こちらの怒りが永続するのはお互いのために不幸なことです。
 グリーフケアの高木さんが「私には、マリア様にしっかり抱かれて守られているように感じられる」と言ったのは、たぶん嘘ではなかったでしょう。私は、これは嘘の戒律に触れない巧みな言い方だと思いました。見えている訳ではないからわからないが、私にはそう感じられるし、そう確信している……。人のケアに携わる人だったら、こう言うべきだと思います。もし「わからないですよ。ひょっとしたら地獄に行ってるかもしれません」などと答えたらどうでしょう。聞かされた方は救いようがありません。「私のせいで死んだ上に地獄で苦しんでいるのですか!!」となったら、どうしようもないですね。
 高木さんのこの言葉によって、能面のようになっていた母親は「本当ですかーッ!!」と号泣することができました。抑圧され押し込められていた悲しみの解放が始まれば、乗り超える可能性も開けてきます。こうしてグリーフケアが終了できるのでしたら、それはそれで素晴らしいことだと思います。
 情報が得られないなら、致し方ありません。大事なのは、怒りの認知を慈悲の認知に転換していくことです。たとえ事実かどうか不明な勝手な妄想でも、それでお互いにいがみ合いや怒りから解放されていくのであれば賢明なことでしょう。あの人があそこまで悪くなるのにはこんな背景があって、のっぴきならない事情からあそこまで荒れ狂っているのだと、頭の中で想像すればよいのです。そして、私は私のカルマによって、このような情況にめぐり合わせているのだと理解するのも大事なことです。こちらも苦受を受けることによって不善業の解消をさせられているのですから。
 たまたま入ったコンビニの店員の態度が非常に悪かったら「なんだあの態度は!」と憤慨するでしょうが、ちょっとでもこちらに余裕があれば「どうしたんだろう、あの人。あそこまで接客態度が悪いのは、どんな原因があったのかな」と思うことも可能でしょう。すると反射的に怒りに巻き込まれることなく、冷静に達観できる感じになるのではないでしょうか。
 サティの一瞬と、智慧の一瞬が問われるところですね。想像力の乏しい人、エゴの強い人には難しいわけです。相手の立場に立って眺めてみる視座の転換が求められます。自己中心的な視座を換えることができれば、共感能力も増大するでしょう。「客に対してあんな態度を取ってしまうのは、あの人は本当にもういっぱいいっぱいになっているのではないか……」と発想が変われば、怒りから優しさへシフトできる可能性も開けてきます。
 また、人は、お腹が空いていたり体調が悪い時などには、余裕がなくなって怒りが出てくるものです。血糖値が下がってくると想像力が働かなくなってくるし、そうなるとエゴの立場からしか見られないので、どうしてもキレやすくなったり荒れたりします。体調もまた条件であって、それが安定していればやはり心にも余裕が出てきますので、相手の側に立つ想像力も働きやすいのです。
 そして、このような共感能力を体得しさらに高めていくには、やはり訓練をするしかありません。慈悲の瞑想が深くなるのも訓練です。慈悲の一点に絞り込んでイメージを浮かべ、そこから外れないようにいかにしてのめり込めるかが大切です。しみじみとした情感の込められた慈悲の瞑想の方が効果的なのです。情動脳が働きウルウルするほど優しい想いが深くなっているし、深く集中するほど自分の心が慈悲の色に染められ、その心のエネルギーは不思議に相手にも届いていくものです。
 慈悲の瞑想は、怒りを乗り超え優しい人になるためだけのものではありません。慈悲の究極を目指して修行していくことが、仏教全体の悟りの階段を上りきっていくことに通じています。サティの瞑想と並行し、日々修行を深めてまいりましょう。(完)