◎不安感が消えない
Aさん:
私は漠然とした不安感を持っています。この瞑想を始めてから2年間でだいぶ薄まりましたがまだ残っています。
私には完璧主義のところがあって、自分自身に対しても会社の同僚に対しても高い水準を求めてしまいます。そして、これまでは貪りというと物欲のこととばかり考えていましたが、完璧主義から高水準を求めることも貪りなのかもしれないと思うようになりました。もしそうなら、常に上を求めすぎる心の傾向が原因で、漠然とした不安感を手放せなかったのかなと思い当たりました。
アドバイス:
今のお話は、サティの瞑想修行中に洞察されたものではありませんね。ということは、考察や内省などが深まって、心の反応系や生き方系に新たな認識が出てきたことだと思われます。知的な認識だけでは不完全ですが、心が総体的に変わっていく一環として重要なものです。
常に不安感があるということですが、それは愛着障害などの特徴でもあり、自己肯定感が乏しく、不安があるからこそ完全主義者になりがちなのです。幼い時期に親からの愛情を十分にもらってありのままに受け入れられてきた人は、何をしていても、どのような状態でも、自分の存在そのものをネガティブに捉えることはないので完全主義にはならない傾向があります。
ところが愛着障害があって自尊感情に不安要素があると、悪い子では愛してもらえないのではないか、と考えるようになりがちです。100点を取り完全なら愛してもらえるが、そうでないとダメだ。完璧に愛されるためには完全でなければならない。自分で自分に対して駆け引きを行ない、常に漠然とした不安感に怯えるようなメンタリティになることがよくあります。
Aさん:
私の中にある不安感というのは愛着障害の名残りという可能性が高いのでしょうか。
アドバイス:
その可能性は高いように思われますが、いかがでしょうか。愛着障害は、生後1~2年くらいの母子関係に起因すると言われています。その頃に、母親から丸ごと受け容れられ、存在の絶対肯定をしてもらった安心感が植え付けられているかどうかなのです。
自分はただ存在していてOKなのだという感覚があると、安定型になります。ところが、母親が病気だったり、仕事の関係でスキンシップが十分にされなかったり、兄弟姉妹との関係で相対的な不公平感を持つなど、何らかの事情によって愛着障害が発生すると、心は不安定になり、健全な自尊感情が育まれなくなります。そうなると、基本的に不安を抱えるようになります。
不安になると、もっとがんばって完璧にならないと愛してもらえないのではないかと子供ながらに思うようになり、さらには、自分が愛してもらえないのは不完全だからだという発想になるのです。ここが不安感の一番の原点になっている場合が多いように思われます。
Aさん:
完璧主義になると、どうしても求める心が強くなって、貪瞋痴の貪もひどくなるということですか。
アドバイス:
完璧主義の傾向が一度始まってしまえば、それは癖になりますので、人間関係に関しては絶対的な絆を作りたいという方向に傾くでしょう。そうすると相手にとっては重くなってくるのですね。人間関係を長続きさせるコツは、あまり近づき過ぎず、濃密にならない腹六分目くらいに抑えておいた方がうまくいくと多くの人が言っています。「君子の交わりは、淡として水の如し」ですね。
Aさん:
完全主義のそういう傾向は、貪瞋痴でいうと貪に当たるのですか。
アドバイス:
そうですね。より完全なものへとエスカレートしていくところなどは、貪りの要素が入っていると感じます。80点で合格点に達しているのに、いや、ダメだ、なぜ100点取れないのだ……となっていくところで貪りの心所が入っていませんか。
ただ、その引き金を引いているのは、自分は生きていて良いし、存在していて大丈夫なんだ、という基本的な安心感の欠落ではないかということです。それが何らかの原因で十分に得られないと、いつでも不安感が通奏低音のように鳴り響いている状態になります。
愛着障害があると、不安感を他の何かで補わなくてはならないと感じてしまい、人生全般に影響を及ぼす傾向がありますね。人間関係でも仕事の達成感でも、いつでも完全を求めて頑張り抜いてヘトヘトになりがちです。そんな自分を変えようと自覚的にならないと、どんな傾向も自然にエスカレートしがちです。
完璧主義の人に対しては、不完全性を受け入れなさいというインストラクションもあります。ジグゾーパズルの完成まであと一つ残したところでやめておくというように。しかし、基本的に不安感がある人にとっては、なかなかそれができないのです。ですから、不安感を徹底的になくす方向に振り切るしかない。満を持して自分の問題の根っこに正面から向き合い、ありのままに受容するために、内観で発想の転換をしたり、認知を変えることによって乗り超えるのです。
歳を取ってもこうした傾向が手放せないのは、幼少期の問題が尾を引いているからです。
愛着障害の問題を解決していくのは一生かけてやる仕事といえるほど大変なことですが、死ぬまでの間に乗り超えることができれば、成功した人生だと言えるのではないでしょうか。
◎夢に向かって
Bさん:
自分の夢ややりたいことに向かって、実現可能な範囲で努力するというのは、悪い意味での欲にはならないのでしょうか。
アドバイス:
やるべきことをやり、見るべきほどのものを視なければ、無執着の心にはなれません。
私利私欲に突き動かされ、エゴイスティックな欲望の充足をほしいままにすれば破綻するのは明白です。そうした苦の原因になる欲望と、夢の実現のための努力は、近似した紛らわしい状態です。果たして正しい精進なのか、不善なる欲のエネルギーがほとばしっている状態なのか、見極めなければなりません。
ポイントは2つあるように思われます。
①今やろうとしていること、やりつつあることが煩悩の欲望なのか、それともやるべきタスクであり正しい夢を成就させる努力なのか、を見極めることです。
②正しい精進のエネルギーなのか、貪りの要素が混入した執着のエネルギーなのか、を明確にする。
まず①ですが、これは目的論と言ってよいでしょう。あなたの言う「悪い意味での欲」になるか否かは、やろうとしていることがエゴイスティックな私利私欲なのかで決まります。言い換えれば、他人に苦しみを与える要素が含まれているか否かです。自分の夢がかなうことによって、誰かが陰で泣いていないか、苦しんでいないかを問わなければなりません。もしそうであれば、悪い欲でしょう。そのまま実行していけば、夢がかなった時点で一時的な幸福感や達成感が得られるかもしれませんが、最終的には不幸になり、苦渋を舐めるでしょう。
この世界を貫いているのは因果法則ですから、他人を苦しめる行為や意図は必ず自分自身に返ってくるのです。苦しみの原因になる行為が不善業を作ると理解しなければなりません。それに努力すればするほど、実現すればするほど、誰かが苦しみ、最後は自分自身が苦しむことになるのであれば、不善なる行為であり、直ちに止めるべきでしょう。
②は、自分のやろうとしていることが誰にも苦しみを与えないし、五戒にも抵触しない、正しい目的の善なる行為であれば、努力しエネルギーを傾注することに間違いはありません。
目的にも意図にも問題はなく、他人に対しても社会に対しても自分に対しても苦を与えるものではないなら、一所懸命がんばるべきだし、その夢がかなうことによって、自分も他人も多くの人も幸福になっていくでしょう。
しかし例えば、多くの人の苦しみを取り除く医療の世界でも、醜い出世争いがあり、医療に従事することが劣等感の代償行為に過ぎなかったり、名誉や権力志向の本意が隠されていることもよくあります。結果的に病気から救われる人がいて、福利がもたらされている善行為なのですが、不純な心が不純な執着のエネルギーをほとばしらせていることになっていないか。そうであれば、悪い意味での欲になっていくでしょう。
結局、どんな分野であれ、きれいな心で意志決定し、いつでも心が汚れていないかチェックしながら、よく気をつけて生きていなければ、いつの間にか道を踏み外し、最初は正しかったことが不善なる薄汚れたものになりかねない危うさがあるということです。
揺るぎない悟りの境地にでも達していない限り、今は浄らかな心もいつ不純な心や煩悩に汚染された心になってしまうかわからないのです。
その意味で、自分の心を信じてはいけないと戒めるべきかもしれません。
多くの人が、正しい道をきれいに歩んで成功したのに、いつの間にか傲慢になったり、それまで存在しなかった欲望や煩悩にやられて転落していきます。ブッダが「修行僧よ、汚れが消え失せない限りは、油断するな」と言い、「よく気をつけておれ」と繰り返し説かれた所以でしょう。
◎ネガティブな発想に悩まされる
Cさん:
何でも良くない方へ考える癖があります。何か良いことが起こってもそれを素直に受け取れず、ネガティブに考えるだけでなく、瞑想中のラベリングでも「恐怖」というような言葉が浮かんできます。
アドバイス:
人の思考パターンや発想の基本傾向は長年の繰り返しによって組み込まれたものです。あなたの場合にも、ネガティブな思考回路が形成された原因があるのでしょう。一般論的には、幼少期にネガティブな考え方が刷り込まれていくことが多いようです。両親がネガティブな考え方をする傾向にあれば、子供は自然にその影響を受けます。褒めるのが下手な親もいます。95点を取ってきても、なぜ100点取れないのだ、と叱責するように励まそうとするタイプの親も珍しくありません。「世の中甘いものじゃないぞ」とか「どうせ上手くいく訳がない」とダメ出しばかりする親もいます。
そうしたネガティブ思考形成の歴史があれば、意識的にそれを組み替えていこうと決意し、努力し、やり遂げていかないと変わるのは大変です。
どのようなケースであれ、いちばんの切り札は、安全基地になってくれる人に出会うことです。絶対に裏切らない信頼できる人、プラス思考で必ず激励してくれる人、見守り寄り添ってくれる伴走者を見つけることができれば、自己変革は成功していくでしょう。良き友、師友(カラヤナミッタ)に出会うことができるように心から祈るべきです。切に願うことは必ず遂げられるし、真剣に祈ればやがて成就するものです。
幼少期から何十年も繰り返されてパターン化したネガティブ思考を乗り超えるには相当なコストがかかりますが、そんなに根が深くない「思い癖」なら、正しく理解して、発想の転換を心がければ遠からず変わっていけるのではないでしょうか。
この世のものごとはすべて崩れて無くなり、失われていくからこそ、今この瞬間を最高に輝いて生きようと考える人もいます。今この瞬間の状態と同じものは二度とないのだから、一瞬一瞬の今を充実して生きるという発想ですね。
一方、苦労してやっと幸せになれたのに、失われ崩れ去っていくことを心配する人もいます。試験に合格したり、昇進したり、結婚が決まったり、幸せの絶頂のはずなのに、鬱的な傾向に陥る人がかなりいるようです。幸せな状態におびえてしまう。プレッシャーに押し潰されそうになる。夢がかなうまでは幸せに向かって努力するだけだったのに、その夢が具現化するやこの幸せが失われたらどうしよう、いつか必ず無くなる日が来るにちがいない、とせっかく手にした幸せが壊れていくことに不安になる……。そんなネガティブ妄想をしていれば、最後は「恐怖」というラベリングになるのもわかります。
しかし、われわれは仏教の瞑想をしているのですから、発想の転換をしましょう。この世を貫いているのは無常の法則であることを思い出しましょう。やっと手に入れたものかもしれませんが、失われたら失われたで、壊れたら壊れたで、いいじゃないですか。形あるものは壊れるのが現象の世界です。壊れて、失われて、茨の道に放り出されたら、またそこから歩み始めればいいのです。復興した時には、前よりもはるかに良くなっているものです。そうなるために壊れたと考えるのです。
発想の転換をすれば、ある意味どんな状態も楽しめるものです。主人公が愛する恋人と楽しそうに過ごす場面ばかりが延々と続いていく映画を想像してみてください。敵対する人も、妨害する人も、嫉妬する人も皆無で、嫌なことは何ひとつ起こらず、すべてが順風満帆、何もかもがうまく行って、いつまでも笑いが止まらず、それでザ・エンドの字幕が出る。……そんな映画観てられますか?「ウワー、どうしよう、大変だ!」と手に汗握って、ハラハラしながら乗り越えていくストーリーがあるからこそ楽しめるのでしょう。昔、登場人物が全員美男美女だった北欧の映画がありましたが、途中で観るのを止めました。(笑)
スポーツにしても同じことが言えます。圧倒的な強さで、ハラハラ、ドキドキの場面が一つもなく、はじめから終わりまでワンサイドゲームという試合は馬鹿らしくて観戦していられないのではないですか。
このことから言えることは、一見不幸なネガティブ現象も発想を変えれば、同じ現象のままで意味は逆転するということです。それが認知を変えるということであり、それが徹底されれば、どんなことも与えられたものだけで満足でき、起きた通りで楽しめるという心境になれるのです。しょせん私たちの人生は自分の作ってきたカルマに応じたことしか起きませんからね。
Cさん:
今先生がおっしゃったことは、仏教を勉強していると頭ではわかってくるのです。でも、実際の現場では、なかなか理解通りにはいかないものだということが痛感されることが多々あります。
アドバイス:
知的に理解されるのと、深層意識が完全に受け容れているのとは違いますね。深いレベルの心でいまだに執着していることは、土壇場で現れやすいですね。何かにこだわってそれをつかめば、そうでなくなるのが恐くなります。
間違った考えや思い込みがいつまでも執着の手を放させないのですから、さまざまな角度から心に言い聞かせ、納得させ諒解させていくのが大事です。この現象世界で起こるべくして起きてくることは、ネガティブなこともポジティブなことも全部カルマなのですから、避けられないのです。それが因果論の理(ことわり)というものです。
私がいつも、起きてしまったことは仕方がない。あるいは起きたことは全て正しいと言うのは、結局そういうことだからなのです。因果論を徹底的に腹に落とし込んでいけば、起きたことは受け入れるしかないと諦観というか、達観されるでしょう。自分のカルマに逆らっていくらジタバタしても、どうにもならないのがカルマというものです。業によって起きたことからは、逃げ切れないのです。それゆえに、ネガティブなものをポジティブなものへと、こちらの認知を変えるしかないということです。
私も昔は完璧主義で、自分は完全でなければならないと思い込んでいましたから、当然心配症の傾向がありました。自分で自分の人生を苦しくしていたのですが、今は、起きたことはそれでいいと即座に認知を変えられる自信もあります。
どのようなことでも、視座を変え、別の角度から観れば肯定することができるものです。肯定し、受け容れることができれば、不安や心配は起きてこないのですね。なぜそんなことが即座にできるようになったかと言うと、瞑想をするようになってから、人生のさまざまな場面で認知を転換させる練習を膨大にやらされたからです。ものすごく嫌なことが起きたり巻き込まれた時に、いったいどう考えたらこんなこと受け容れられるのだ……と理解不能なわけです。それも当然で、いわゆる思考モードでいるときには、基本的にエゴモードですから、視座の転換ができないのです。そこでやむなく瞑想をする。瞑想をすれば思考が止められていきますから、エゴの視座からは思いもよらない一瞬の閃きが生じたりするのです。
「なるほど! そういうことか!……そう眺めれば自分が悪いと思えるし、受け容れることができそうだ」と固執していた考え方やものの見方が瞑想の閃きで打開できたことが多々あります。こうした練習問題を数多く解いたことで、今、人に視座の転換をうながすようなアドバイスをやらせていただいたりしているのです。
まあ、この瞑想に出会って心配症はなくなりましたね。修行の成果だと自分では思っています。自分の人生は悪くなりようがない。たとえ悪くなったように見えても、認知を変えれば受け容れることができるし、当初はネガティブだった出来事が最終的には大きな飛躍につながっていくし、必要不可欠なことだったと心から思える日が到来するものです。まさに、「瞑想のフシギな力」ですね。
ということで、まず思考モードで結構ですから、意識的にものの見方を変え視座の転換を試みる練習をします。上手くいかなかったら、智慧ある人とその件について論議してみる。すると自分には思いもつかない視点を提示してくれたりします。それを参考に、同じ事柄をまったく異なった視点から眺める練習をします。そういう問題をたくさん解いていくうちに、外界の力や他人のアドバイスなしに、自分ひとりでできるようになるでしょう。どういう風にかと言えば、瞑想することによってです。瞑想をして思考を止めることです。思考が止まれば、エゴモードとは異なる見方や発想が閃いてくるようになります。がんばってください。
◎こだわりを捨てるには
Dさん:
自分の生き方などの信念もこだわりの一つなのでしょうか。
アドバイス:
「こだわり」という言葉は本来ネガティブな意味で使われます。「ささいなことを必要以上に気にする」とか「いつまでも過ぎ去ったことにこだわる」などの用法が本来だったのですが、昨今では「香りにトコトンこだわった一品」などと肯定的なニュアンスで使うケースもあるようです。
あなたのご質問のされ方は、言葉の本来の意味に即しているように思われます。正しいことを貫き通す、揺るぎない信念を持つのは良いことなのに、エゴイスティックな執着になっていないか。信念が悪い意味での「こだわり」になることもあるのだろうかというご質問と理解してお答えします。
例えば、仏教の五戒を守り抜くと世間一般の常識的な方々と軋轢が生じないだろうか。自分は仏教の提示する倫理を貫き通すのが正しいと思っているが、皆とも仲良くやりたいし、仏教の正義を貫こうとするのは、悪い意味での「こだわり」になっていないだろうか……。こうしたお悩みは多くの方が感じられているようです。
世間の多数派から浮いてしまっても、正しい生き方を貫くのは大事だと考えます。どうでしょうか。「みんなと仲良く一緒にやっていきたいので、みんなが赤信号を渡るなら自分も一緒に渡るし、戦争をやるなら一緒に戦う。とにかく仲良くやりたいのだ」という人がいたら、ちょっと変じゃないですか。
この世を貫く理法に反すれば、確実に苦がもたらされるのです。殺せば殺されるし、奪えば奪われるし、欺けばあざむかれます。みんなが地獄に行くなら、ひとり浮いてしまうのは嫌だから、一緒に地獄へ行きますか。あなた達は間違っている、と説教するのは大きなお世話だと取られるなら沈黙すればよいでしょう。しかし、自分の生き方に信念を持っているなら、黙って独りそれを貫くのが正しいのではないでしょうか。
それを悪い意味での「こだわり」と解釈するのは正しくないと思います。自分の信念の内容を精査して公正なものであるならば、それを貫くのは悪い意味での「こだわり」とは違います。智慧があり、美学があります。信念を曲げるべきではないでしょう。
人と争わず、柔軟に妥協点を見出して、和をもって貴しとなすが、道理にもとることは断じてやらないという信念は貫くべきです。それを「こだわり」とネガティブに評価することはありません。
ご質問は、別の意味に理解することもできます。
今まで信念を持って生きてきたのだが、どうにも苦しくなってきて、どこか間違っているのではないか、変にこだわっているのではないか。信念ではなく、ただの執着ではないか……。
信念は、執着と紙一重のところがあります。
一つの目安は、自分が拠りどころとしているものが法(ダンマ)に照らし合わせて逸脱していないか否かです。自分のたんなる欲望にしか過ぎないものに向かって頑張っている場合には、煩悩の執着やその根拠になっているエゴ感覚に特有の、あまりよくない感じがどこかにあるものです。別表現をすれば、万人にとって善となる理法を貫こうとしている瞬間には、正しいことを実行している吹っ切れた爽やかさや、天に向かって恥じるところのない堂々とした矜持のような感覚があるはずです。
エゴイスティックなものや煩悩系の不善心所には、重く、暗く、硬く、濁った印象が伴うからです。
その反対に、善心所には透明で、柔軟で、軽やかで、爽やかな印象があります。
どうやら自分が拠りどころとしてきたものは「信念」ではなく、たんなる「こだわり」に過ぎないということであれば、全力で頑張ってみて、それでもどうにもならない時には潔く諦めるしかありません。諦めるというのは、発想の転換をするしかない情況に追い込まれるということです。
私も若い頃に、それまでの過去に復讐するような不善心所バリバリのこだわりで生きていた時代がありました。当然のことながら、すべてが破綻し暗礁に乗り上げてしまい、苦が極まったところで、自分の敗北を認め、やるだけのことはやり尽くした、もういい、もう十分だ、とどこか吹っ切れたものを感じながら、その生き方に終止符を打ちました。こだわりを手放し、諦観というものを学び、以来、修行者として今日に繫がる新たな生き方が始まりました。
妄執がドゥッカ(苦)の原因であることを骨身に沁みて叩き込まれたように思いました。諦めるということを学び、瞑想者として歳をとるに従って、執着を手放すことに長けてきたので、今ではストレスもほとんど感じないし、何が起こってもそれでいいと受け容れることもできていると思っています。
その根拠は、因果論が徹底的にわかっているからでしょうね。こうして仏教の因果論を教えている立場なので当然といえば当然ですが、人生というのは、自分が組み込んだカルマ通りのことしか起きないことは熟知しています。このことは検証し尽くしました。
そうすると、受け入れる能力もついてきて、「自分も過去には人を傷つけ、悪いことをやってきたのだから、こんなネガティブなことが起きるのも致し方ない。因果の帰結として、受け容れるしかない」という発想が速やかになされるようになります。
受け容れる能力というのは、数多くの引き出しを持っていて、いかなる場合にも発想の転換ができる能力と言えるでしょう。ものの見方や発想の転換が柔軟に、自在にできないと、こだわりが強い、頑固者ということになります。多くの場合、エゴ感覚や我執の強いタイプの人ほど、自分の考え方ややり方、好き嫌い、生き方全般にこだわり、それに比例して苦しさを感じるという構造なのです。
もし自分の夢や目標にこだわっているのであれば、実際にその夢を叶えた人の幸福度の追跡調査も大事ですね。ある方が、どうしても夢を叶えられず、そのことに未だにこだわっていて何とかして手放そうとしていました。そこでどうしたかというと、自分が実現できなかった夢をすでに叶えた人達の話を聞いたそうです。そうすると、案外幸福度は低いという場合が少なくないことがわかったということでした。そこから自分の執着している夢を手放す方向が見えてきたということでした。
たとえ長年の人生の夢を叶えたとしても、それによって幸福度が上がらなかったら、何のための人生か、本当にそれで良かったのかという疑問が出てきますよね。
夢を実現している途上では、鼻の先にぶら下がっているニンジンが、この世のものとは思えぬ限りなく甘美なものにイメージされてしまうものです。妄想は甘く、現実は苦く、がブッ飛んで「何がなんでも!」と強烈なこだわりとなって私たちを駆り立てていくのです。これが渇愛の構造であり、それに全力でのめり込んでいって、果たして本当に幸せになれるのかという疑問です。
そうした妄執と、法としてのあるがままの事実を仕分けていく瞑想が、人生苦を根本から乗り超え、この世の幸福と、さらにはその果てにある究極の解放である解脱をなし遂げていくであろうということです。
(文責:編集部)