5.ネガティブな体験は宝物
さらに私が強調したいことは、ネガティブな体験というものは必ず宝物になるということです。宝物どころか人生の必須アイテムと言うべきかもしれません。そもそもネガティブな体験がなければ、人は成長できないかもしれないのです。
人が心底から反省し我が身を振り返るのは、連勝街道を順風満帆に突き進んでいる時でしょうか、それとも挫折し失意のどん底で打ちひしがれている時でしょうか。何もかもうまくいっているときには、上手くいったプロセスを再生しながら、勝利の方程式を確認しがちです。自分の問題点や欠点に目を向けたり、謙虚にそれを改めようと考えたりはしないでしょう。そういう人も時にいるかもしれませんが、レアケースです。そしてそういう人たちはほとんど例外なく、人生の節目で痛切な失敗体験を乗り超えてきているものです。
なぜそんな失敗をしてしまい、痛恨のミスを犯してしまったのか。どのような経緯と由来でそれが起きたのか。その原因を徹底的に究明し、これから何をどうすれば良いのかを胆に銘じて再び立ち上がった経験があったはずです。「最悪のネガティブ体験を、人生最大の学びにしてきた」という共通項があることに気づくでしょう。
どの世界でも超一流の人物は、挫折や失意のどん底を乗り超えてきています。自分の失敗体験だけではなく、生まれつきの障害や先天的なハンディキャップがあったので、逆に成功したという人たちも少なくありません。
例えば、100メートル短距離走で世界最速の伝説を作ったウサイン・ボルトは先天的脊柱側湾症という障害を持っていました。脊髄がS字状に湾曲し、左右に大きく揺れながらしか走れないのです。上半身が揺れ過ぎると力が分散し、効率の悪い走りになり、その結果、左足のスライドが右よりも20cmも長くなってしまうのです。大腿の筋肉が負担に耐えかね何度も肉離れを起こし、そのハンデを筋肉の強化で補うしかなかったのです。しかしまさにそのお陰で、太股の筋力測定数値ではボルトの右に出る人はいないのです。ボルトはこう語ります。
「曲がった背骨は僕に困難を与えた。だが、その背骨が僕を育て、速く走れるようにしてくれたのかもしれない。自分の肉体に感謝し、僕はこれからも受け容れていく。
生きていれば思うようにいかないこともあるが、立ち止まってしまったら、チャンピオンでい続けることはできない。もがいて、そして前に進み続けていく」
ボルトが日頃どれほど厳しいトレーニングをしているかを紹介したTV番組を観たことがあります。常人にはとうてい耐えられない過酷な筋トレに挑んでいました。なぜ、それほどまで凄まじい修練を積むことができるのでしょう。言うまでもなく、アスリートとして致命的欠陥を持っていたからです。ハンディキャップというマイナス要因がなかったら、ボルトのモチベーションが維持されることはなく、伝説の男になることもなかったでしょう。
心に刻んでおくべきことは、ネガティブ体験もハンディキャップも、マイナス要因というものは全て宝物なのだということです。ネガティブ体験こそ智慧の眼差しで受け止めるべきです。それは価値ある情報の宝庫であり、最高の個性や特質になり得るものです。
医学の進歩は、最悪の病気という現実を克服してきた歴史です。病というネガティブな現実が乗り越えられていった輝かしい成果だったとも考えられるでしょう。あらゆるものごとが改善されるのも、困り果て途方に暮れるような最悪な事態が引き金となって乗り超えられているものがほとんどです。何も問題がなければ享楽的になりがちだし、人が最大限のエネルギーを出力し努力するのは、ピンチに陥った時でしょう。
ネガティブな出来事は決して好ましい事態ではありませんが、それがキッカケでもっと良くなっていく法則を見抜けば、宝物という意味が納得されるでしょう。
それだけではありません。苦しいネガティブ体験が骨身に染みているが故に、やさしい人になれるとも言えるのです。苦しんでいる他者の痛みに心から共感してあげられるのは、かつて自分も同じ苦しみを体験してきたからこそです。人の苦しみに心から共感できるやさしさこそ、慈悲の瞑想の2番目、カルナー(悲)の瞑想の真髄です。
「ああ、可哀想やな、この人は今、あの苦しみの渦中にいるのだ……」と一緒に泣いてあげられるのは、自分も同じ苦しみを味わってきたからです。どのように優しさの手を差し伸べてあげればよいのか熟知しているが故に、「悲(カルナー)」の瞑想が深くなるのです。
こうして嫌悪すべきマイナス体験を宝物として見ることができ、認知を根底から変えることができれば、一切を受け容れていく赦しの瞑想が可能になるでしょう。全てのものごとを等価に観る、より高い視座が得られているからです。ポジティブなこともネガティブなことも、快い情報も不快な情報も等しいものと観て、両者ともただの現象にしかすぎないと、公平に達観する視座の確立です。どちらも大事だし、またどちらもどうでもいいという心境は、仏教の奥義とも言うべき「捨」の心に通じています。どのような出来事も経験もありのままに受け容れて心がいささかも乱れなくなったなら、仏教の到達点に限りなく近づいていると言えるでしょう。
人間であるかぎり、ネガティブな経験がゼロだったという人は一人もいないし、もしいたとしたら、そんな薄っぺらな人とは付き合いたくないでしょう。どんなことであれ、起きてしまったことは、起きなかったことにはなりません。ものごとが破綻するのも、崩壊するのも、致命的ミスを犯してしまうのも、ネガティブな事象が起きてしまうだけの原因があり、それが帰結していった結果なのですからどうしようもありません。失うものは失うし、得られないものは得られないし、やってしまったことはやってしまったことです。それを否定すれば「対象を嫌う心」と定義される怒りや恨みに苦しむことになるし、否定する精神からは何も生まれてきません。
では、どうしたら認知を一変させ、ネガティブなものを受容していくことができるのでしょう。今までと同じものの見方や受け止め方をしている限り、何も変わりません。エゴに固執し自分中心の視座を捨てないかぎり、人生はこれまで通りです。
ネガティブなものを受け容れ、認識革命を起こすには、大人にならなければなりません。お子さまのエゴのままでは、歳を取るほど人生はさらに苦しくなっていくでしょう。欲しいものは手に入れたい、嫌なものは排除したい、敵対するものは潰したい……。自分の好き嫌いで思い通りにしたいという自己中心的な小児的エゴイズムに固執している限り、ネガティブなものはいつまで経ってもネガティブなままです。認知を変えるということは、お子様を卒業して大人になるということです。与えられる側から与える側になることであり、他人のわがままを黙って受け容れることもできるようになるということです。
昔、若い頃、向上心の強かった私は、もっと教養を身に付けたい、豊かになりたい、成長したい、価値あるものを限りなく得たい……と自己実現に固執していました。するとある日、「お前は、与えるだけでよい!」と天から声が聞こえてきて、衝撃を受けました。とても空耳とは思えない、厳かな強い響きの声でした。この言葉の意味を繰り返し反芻しながら、そろそろお子様を卒業しろということか、と腹を括りました。
思えば、あまりにも自分中心の考え方で生きていたのではないか、と我が身を振り返り始めた頃から、視座の転換ということが本格的に起き始めたように思われます。これが大人になるということか、と納得がいったのでした。もう自己チューの発想はこのへんで止めよう、と本心から決意しない限り、認知が変わることはないでしょう。物理的にも心理的にも、本気で思ったことしか具現化していかないのがこの世です。
エゴの立場に固執する力をゆるめ、相手の立場から観てみようと視点を変えてみれば、すべてが異なった様相で観え始めるものです。認知が変われば世界が変わり始め、嫌だったものが嫌ではなくなり、否定せずにはいられなかったものをありのままに受け容れることができるかもしれない……。なるほど、一切を赦し、すべてを受け容れるとはこういうことか……。「大人」にならなければ、赦しの瞑想はできないと腑に落ちてきました。
自我を確立していくことが大人になっていくことですが、真の大人になったら、諸悪の根源であるその自我=エゴを乗り超えて無我を目指すのが仏教であり、智慧ある人の進むべき道ではないでしょうか。
この世にはどうにもならないことがあるのだと受け容れた上で、嫌なことが嫌でなくなるように認知を変えていくことが賢明な生き方です。そしてやがて気づいていくことでしょう。ネガティブなことが本当にあるのではなくて、ネガティブな認知があるだけなのだと。
よく知られている譬えに、人間の目に映っている川の流れは、餓鬼の世界の住人には血の膿が流れているように見え、天界の住人には砂金が燦めくように光り輝いている流れに見える……と言われます。死ねばいいのにと思うほど憎んでいた人と最終的な和解ができたとき、一転して無二の親友になれた、などという話は枚挙に暇がありません。同じ顔をした同じ人なのです。その人物を見る目が変わり、いったん認知が変われば、まったく異なる世界が開けてくるということです。
世界は血の膿であり、燦めく砂金の流れであり、ただの流水なのです。そのように眺める認知が変われば、同じ現実が異なったものに映じてきてしまう。そんな認知にこだわって、人を憎み、愛執にとらわれ、激突したり争ったりしながら、歳を取って死んでいくのです。その虚しさに気づいて、視座の転換を自在に行なえるようになると、嫌なことが起きてもそれが乗り超えられたときには宝物になる、と説かれていることが検証されるのではないでしょうか。
6.要素に分けること
さて、どうしたら視座を自在に転換し、認知を変えることができるのでしょう。その練習法、修行方法を考えてみましょう。
さまざまな方法がありますが、どんな場合にも必ず、相手の立場に我が身を置いて、そこからこの問題や状態がどのように見えるだろうかと想像し、シミュレーションしてみる習慣をつけることが助けになるでしょう。うまく置き換えられなかったら、実際にロールプレイングをしてみるとハッとさせられるかもしれません。相手の立場に視座を置き換えてみることができないのが子供であり、大人になるということはこの視座の転換ができることです。自己チューの人が小児的な印象を与えてしまう所以です。
このやり方を掘り下げるのは別の機会に譲り、ここでは原始仏教が非常に重視する分析論の発想について考えてみましょう。
混沌としていてよく分からないものごとを要素に仕分け、分析し、その問題を構成しているファクターを精査し、事の真髄や問題の核心部を詳らかにしていく方法です。何がなんだか分からないということは、「分からない」→「分けられない」→「仕分けられない」のです。それがどのように成り立っていて、どんな経緯でそのような問題に展開していったか、真の原因を明らかにするためには、徹底的に分析し、構成因子を洗い出して、なぜそのようなことになっていったのか究明するやり方です。
いろいろなものをゴッチャにして混ぜてしまうことが「法としての事実」からかけ離れていく原因です。例えば、大事な人を失ったとします。病気で亡くなったとしたら、何の病気だったか、亡くなったときの年齢、闘病期間、経済状況など、さまざまな条件によって残された者の気持ちは異なっていきます。治る見込みのない病気だったのか、若すぎる死だったのか、天寿をまっとうした年齢だったのか、突然死されたのか、長年に渡って介護を続けてきたのか……。そうした要因がごった煮状態になって、故人に対する思惑が複雑なものになっていきます。
一人の人が死去したという事実に、さまざまな出来事や愛憎の記憶が上乗せされ、ごちゃ混ぜになって印象が作られ、事実の意味がさまざまに変わってしまう。人は事実を見ない、自分の見たいものだけを視ている……と言われる所以です。
人生の苦しみや愛執や憎しみや怨恨は、こうして人の心が形成していくものです。心が化作したパパンチャ(心に拡がっていく概念の世界)で、人は苦しんでいます。それ故に、心がさまざまなものを自分好みに編集した概念世界と、法としての事実を仕分けることが、苦しみを乗り超える技法になるということです。
もし亡くなった方が病死ではなく、何らかの事件による死だったらどうでしょう。普通は喪失という事実に加害者への怒りが足し算され、とうてい加害者を赦せなくなるのではないでしょうか。さらにその加害者が今まで信じていた人だったりすれば、裏切られた無念さが怒りに上乗せされていくでしょう。
では、人の手にかかったのではなく、自然災害による事故死だったらどうでしょうか。不可抗力の災害死も加害者の手による死も、大切な人を喪った喪失の事実は同じです。しかし、純然たる自然によって惹き起こされた出来事に対しては怒りや仕返しの持っていきようがありません。大自然に怒りを向けることはできないと誰もが心得ているので、悲しいことですが、喪失という事実だけに向き合うしかありません。怒りようがないので、悲しみだけになるのです。恨みも復讐心も起こしようがありません。
このように、失ったものは同じなのに、エゴの思惑で編集された妄想がミックスされると、受ける悲しみの質も深さも衝撃の度合いも千差万別に異なってしまいます。かけがえのない人を喪った悲しみに向き合い、受け容れ、乗り超える仕事に専心すべきなのに、上乗せされた付帯条件に対する怒りや闘争に矛先を向けて、歳月が過ぎ去っていく人たちも少なくありません。大切な人を喪った悲しみと、加害者に報復を企てる怒りは、別々の2つのことです。さらに裏切られた無念さなどが足し算されれば、ネガティブな感情が複雑にコジれて肝心な喪失の悲しみを乗り超える仕事が難しくなっていくでしょう。
なぜヴィパッサナー瞑想が、感覚の実感ではっきり確かめられる事実と、頭の中でまとめ上げられた概念世界とを厳密に仕分けることを重視するのか、その理由の一端がここにあります。純粋に我が身に起きた事実に向き合い、ネガティブな体験を受け容れ、乗り超えていくのに瞑想が必要不可欠な所以です。
7.最後に ―サティの重要性―
これまで述べてきましたように、自分の考えや信念、人生観、世界観に執着している間は、ネガティブな経験を受容することはできません。なぜなら、起きてしまった事実を否定し拒絶する根拠になっているのは自分の信念や価値観であり、それを手放さない限り、嫌なものは永遠に嫌なまま変わりようがないからです。
捨てるべきものは、目の前の現実ではなくて、自分の心の中の考え方や価値観や信念なのです。しょせんエゴの猿知恵で作り上げた認知ワールドです。そんなものにこだわって握り締めていれば、ただ苦しい人生がいつまでも続くだけです。その空しさを心得て手放し、こちらの認識を変更しない限り、黒いものは永遠に黒いままだし、白くなければ嫌だと固執すればいつまでもイライラするだけです。
エゴの立場を離れて、相手の立場に立って観る。ネガティブなことを受け容れる瞬間は嫌な感じがしても、それがやがて宝物になると心得ているのだから、結局「どちらでもいいではないか」と発想が変えられないでしょうか。
もし出来たなら、その達観は「捨」の心に限りなく近づいているかもしれません。こうした視座の転換こそがエゴを捨て去る修行であり、ヴィパッサナー瞑想の本質であると申し上げてきました。
とはいえ、こうした話は聞いている時にはスラスラと頭に入るだろうし、おそらく納得されるのですが、いざ自分自身のことになるととたんにわからなくなり、眼が曇ってしまうのが悲しいところです。頭で理解している100分の1もできないのが私たちです。しかし、もし頭で理解することもなければ、情報すら知らないとなると、もっと絶望的でしょう。たとえ実践できなくても、理念としてダンマを学び、聞法していないと次の展開につながりません。ヴィパッサナー瞑想の進むべき方向性や、心の清浄道として何をなすべきかの基本的理解がなければ、必死でサティの瞑想だけをしても、心は変わらないし、苦しみから解脱する可能性も見えてこないでしょう。サティの瞑想とダンマの学びは並行して習得されるべきものです。
感情的反応を一時停止できるだけでも、サティの瞑想がどれだけ自己制御能力を高めるか量りしれません。しかし心の反応パターンを根底から書き換えていくには、サティの気づく力と洞察の智慧が必要不可欠です。この世の仕組みや存在の本質を目の当たりにする衝撃が、妄想だらけで苦しんできた愚かな人生の流れを変える原動力になっていくのです。あるがままの真実が視えてくるので、認知が根底から変わり、ネガティブなものがネガティブではなくなっていくのだ、と言うこともできます。
サティの精度を高め、学ぶべきを学んで認識の世界が熟してくると、一瞬一瞬のサティに洞察の智慧が伴ってくるということです。智慧の修行は、サティの瞑想やサマーディの確立よりも難易度が高く、総力戦になると心得なければなりません。総合的システムとしてのヴィパッサナー瞑想全体を修行していくことになるでしょう。具体的には、例えば、ネガティブな過去に終止符を打つための懺悔の瞑想や、自分自身を赦し、一切を赦して受け容れていくための赦しの瞑想が欠かせないのです。このようにして心を成長させていくのが清浄道の瞑想です。
心を浄らかにして、苦しみを完全に乗り超えていく瞑想は、一生ものと心得ましょう。究極のゴールに到達するのは無理でも、欲望や怒りや嫉妬や高慢などの煩悩が少なくなっていけば、それに比例して苦しみから解放されていくのは確かなことです。万人に検証されてきたからこそ、2500年の長きに渡って現代にまで継承されてきたその道を、私たちも一歩づつ歩み抜いていきましょう。(完)
<関連質問>
Aさん:起きたことを受け入れることと赦しの瞑想とはどう関係するのですか。
回答:
同じと考えて結構です。赦しの瞑想というのは、自分を赦し、他人を赦し、天地一切のものを赦し、受け容れていく瞑想ということになります。
「起きたことは全て、正しい」といつも私が言っているのは、赦しの瞑想の別名でもあり、真の受容ということでもあります。この世は因果法則に貫かれているので、我が身に起きる好いことにも悪いことにもすべて、それ相応の原因があってのことです。つまり無限の過去から自分が組み込んできた原因エネルギーが、たまたま縁に触れて現象化しただけのことで、善きも悪しきも起きたことは全て、自分にふさわしいことばかりなのだから受けきっていくしかない。善い現象は幸せなのだからそれで良いし、悪い現象もそれで不善業が消えていくのだからこれまたそれで良しとするのです。起きてしまったことは起きなかったことにはできないのだから、すべて受け容れていけばよいと考えます。
これは「捨」の心の実践とも言えるでしょう。全ての現象を完全肯定して受け容れることができるのは、因果法則を心得ているからであり、一切のことを等価に観ているからです。
Bさん:赦しの瞑想と懺悔の瞑想の違いを教えてください。
回答:
赦しの瞑想の中に懺悔の瞑想が含まれています。
赦しの瞑想は、上述したように、一切のものを赦していく大きなコンセプトです。懺悔の瞑想は、ネガティブな過去の所業から解放されるために、自分の過ちをお詫びして謝ることが基本です。過去から解放される瞑想とも言えるでしょう。自分の犯した非を認め懺悔しないと、自分を責める心とそれを打ち消す心が葛藤を起こし、心の中でえんえんと言い訳を続けることにもなります。
忸怩たる思いがくすぶっていたのでは、とても瞑想に専念することなどできません。罪悪感に悩まされるということは、自分を否定する心があり、自分への怒りを抱えているとも言えるでしょう。自責の念にかられ、また別の瞬間には抑圧し、自分は何も悪いことはしていないとシラを切ったり、怯えたり、いつまでも過去に縛られて、なんとも晴れやらぬ心の内です。
そうした自己嫌悪や自己呵責や自責の念から解放されるためには、思いきって自分の非を認め謝ることです。自分はとんでもないことをしてしまった、愚かなことをしてしまったと、天に向かって、あるいは三宝に向かって心から謝り、二度と同じ過ちをくりかえさないと誓うのです。
ポイントは、自分という人間が悪い根性の腐った愚か者だったと考えないことです。そうではなく、仏教を知らず、ダンマを知らず、因果法則も業論も知らなかった無知ゆえに犯してしまった愚行であった。悪いのは自分という人間ではなく、ダンマ(理法)を知らない無知の状態が悪かったのだとするのです。
しかるに今は、ブッダの教えを知り、多少なりともダンマを心得、因果の法則も学んだのだから、もうこれからは殺さないし、盗まないし、不倫をしないし、嘘をつかないし、酩酊しないと、五戒をしっかり守って、仏弟子として正しく、きれいに生きていきますので赦してください……と謝って、謝って、謝って、心からお詫び申し上げていくのです。
無知ゆえに愚かな所業をしてしまったが、これからは、正しくきれいに生きて償っていく、と未来に目を向けさせるのがポイントです。因果応報なのだから、過去の自分がやった通りのネガティブなことが必ず起きるだろうが、それは潔く引き受けていくと覚悟を定めることです。ネガティブな出来事は宝物になると心得てもいるので、何も怖れるものはないし、苦楽を等価に観じきって、一切のものをありのままに受け入れていこう。無知で愚かだった自分もありのままに認め、赦し、受け容れて、心ひろびろと爽やかに生きていこう……。このように自分を赦し、解放されていくのが懺悔の瞑想です。
ネガティブな自分を赦し受け容れることができるからこそ、どんなネガティブな人も赦し、受け容れることができるようになるだろうということです。
過ちを認め心からお詫びして、そんなどうしよもない自分でも赦し、受け容れていくのが懺悔の瞑想。自分も、他人も、善いものも悪いものも、一切を赦し、受け容れていくのが赦しの瞑想ということです。
(終)