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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

大全序章①

 序章
 一. マインドフルネスからヴィパッサナーへ

 (一)マインドフルネス瞑想の功罪

   マインドフルネス瞑想が広く普及し、NHK番組やメディアで喧伝され、関連本があふれ、瞑想研修などのビジネスも盛んになり、瞑想ブームの風潮になってきました。しかし1995年に、私が朝日カルチャーセンターでヴィパッサナー瞑想の講座を始めたころは、オウム真理教事件の影響から瞑想やヨーガにはネガティブなイメージが付着し、危険視されていました。
 例えば、瞑想会の会場予約を申し込むのに「瞑想」という言葉が記載されていると執拗に追及され、借りることができなかったほどでした。瞑想に特化した活動をしている会なのに「瞑想研究所」は表に出さず、「グリーンヒルWeb会」と称して会場を確保せざるを得なかったのです。
 座禅は昔から市民権を得ていたので、「何をやるの?」と訊かれ「座禅会です」と答えると二つ返事でOKが出ました。瞑想者に「Web会」の意味を問われると、「Web」は諸法無我の宇宙網目(cosmic web)を意味し、エゴを乗り超えて無我を目指す人たちの会である、と説明していました。瞑想を隠れてやらなければならない時代に、グリーンヒルは荒野に向かって歩きだしていたのです。

 NHKの影響

 「瞑想」「ヨーガ」「布施」などの言葉は、オウム真理教によって泥だらけにされ口にするのも憚られていました。流れが劇的に変わったのは、2016年にNHK番組「キラーストレス」が放映されてからでした。マインドフルネス瞑想がストレス対策や脳科学の観点から紹介され、大きな社会的反響を呼んだのです。瞑想は危ない・怪しいという従来の印象が一気に払拭され、「マインドフルネス=科学的なストレス対策」という社会的認知が拡がっていきました。
 書籍化された『キラーストレス』が累計25万部のベストセラーになると、書店にマインドフルネス関連書籍のコーナーができ、企業研修や医療現場、教育分野などにも導入が進みました。朝日カルチャー講座の昔の生徒さんが久しぶりに瞑想会に来て、会社の一室に瞑想ルームを作る担当者になったので何かアドバイスを…と求められるような時代になってきたのです。それまで20年間、牛歩のごとくヴィパッサナー瞑想の普及に力を尽くし実践者が徐々に増えてきましたが、ここに来てマインドフルネス瞑想者が爆発的に増大し、またたく間に逆転現象が起きてしまいました。マインドフルネスが世界に及ぼした影響は量りしれないものがありますが、その輝かしい成功の裏に黒い闇の部分も露わになってきています。

 実証された効果

 マインドフルネス瞑想は、米国の生物学者ジョン・カバット・ジンが自身の禅やヨーガ、ヴィパッサナー瞑想実践の経験から1979年に米国マサチューセッツ大学でマインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)を教え始めたことに端を発しています。仏教の指導者に修行法と教理を学び、瞑想とハタ・ヨーガと西洋科学を統合させた8週間のプログラムを開発して目覚ましい成果をあげ、世界的な瞑想ブームの立役者となりました。
 中心的な技法は、現在の瞬間に注意を向けるマインドフルネス(=サティ)の訓練によって、後悔や将来不安などネガティブな反芻思考から解放され、ストレスや痛みなどを劇的に軽減させることが科学的に実証されています。ヴィパッサナー瞑想の気づきと、ヨーガの身体動作の運動性と、科学的な理解をうながす講義などが多彩に組み合わされた8週間のトレーニングを受けた人たちに驚くべき変化が見られたのです。
 ストレス軽減、血圧・血糖値の安定、自己肯定感や集中力の向上など多岐にわたる効能が報告されました。例えば、不安症状が58%、抑鬱症状が47%軽減され、慢性疼痛患者の機能障害が42%改善し、喜怒哀楽の情動と認知の橋渡しを司る前帯状皮質の灰白質密度が5%増加したり、従来の薬理的な医療に限界を感じていた患者が「8年間で得られなかった効果が、8週間で得られた」と絶賛したりもしました。
 こうしたマインドフルネス・ストレス低減法の鮮やかな効果が医療や心理学の現場で検証されると、さまざまな分野へ爆発的に普及し、標準的なプログラムとして世界中で採用され、2024年時点で72か国・720以上の医療機関に及んでいます。
 少年院の更生プログラムや教育現場で暴力事件が56%減少したりする事例も多く、これは気づきの訓練が衝動性のコントロールや感情調整能力に最適であることを証しています。ビジネス現場でも、社員の集中力向上やパフォーマンス改善のメンタルヘルス対策として採用され、インテルなど米国大手企業での導入実績はその勢いを加速させました。特にGoogle社の「Search Inside Yourself」のプログラムが離職率を37%低下させ生産性を19%向上させたデータは大きなインパクトを与え、マインドフルネス瞑想が燎原の火のごとく世界中に普及していったのです。

 成功の要因

 なぜ、マインドフルネス瞑想はこれほどの成功をおさめたのかを検討してみましょう。
 最大の要因は、ヴィパッサナー瞑想から倫理性を排除し、「今この瞬間の気づき」というサティの技法に絞り込んで、誰でも実践できる体系的なプログラムにしたことです。宗教的要素を抜くことによって、企業や学校、医療現場、スポーツ界など、どんな分野にも抵抗なく導入可能となり爆発的に普及していったのです。仏法僧への三帰依をして五戒を守るのが前提の仏教の瞑想では、このような幅広い層に受け入れられることはあり得ないでしょう。
 私が瞑想を教え始めた当初は五戒の厳守を強調していたので、「酒や覚醒剤や麻薬を摂らない」5番目の戒に多くの人がつまずき、酒か瞑想か、と二者択一を迫られると、酒を選んで瞑想会に来なくなりました。世界中の人が酒を飲み、嘘をつきながら不倫をしているのですから、倫理を強調すれば瞑想が敬遠されてしまうのも当然でしょう。
 それ以上に、医療や学問の世界では中立性や公平性を重んじるため、宗教色を抜き、文化的抵抗感をなくして万人に開放したことによって、マインドフルネス研究が加速されていったことも見逃せません。瞑想の学問的研究が急速に進み、2024年現在、臨床研究に関する6200件余の論文がマインドフルネス瞑想の効果を支持しています。fMRI(機能的磁気共鳴画像法)やEEG(脳波計測)で瞑想中の脳の活性化が可視化され、神経科学的な裏付けによる客観的説得力が効果への信頼を高めることになりました。

 技法の統合とメディア

 マインドフルネスの科学的エビデンスは、つまるところサティの気づきの威力に集約されますが、ジョン・カバット・ジンがストレス低減の8週間プログラムに多彩なテクニックを盛り込んだことも目覚ましい効果の得られた一因でしょう。
 個別面談で不安や疑問を解消し、ストレス反応を脳科学的に解説し、ゴエンカ式のボディ・スキャン技法と歩く・座る・食べる瞑想を実践し、マインドフル・ヨーガもあれば、ストレス解消の3分間呼吸法もあり、相手の話を評価せず受け止めるマインドフル・リスニングや、自分の反応パターンを可視化する役割プレイ、ホームワークのストレス日記の作成、グループ・ディスカッション…と、実に多彩な技法が盛り込まれています。
 目的は明確で、ストレスの構造を理解し、注意制御能力を向上させ、自己受容を促進するために、個別面談と瞑想実践と講義とディスカッションによって総合的に心の変容をうながすのです。しかも8週間という長期プログラムなのだから、効果が出やすいのも宜なるかなです。
 さらに、実際に試みたハリウッド女優や起業家たちの体験談が喧伝され、 Forbesやニューヨークタイムズが「科学的安らぎ」として報道し、前述のNHK「キラーストレス」番組など、メディアが果たした意識改革は新しい潮流を作り出し、社会に広く浸透させました。また、スマートフォンのマインドフルネス瞑想アプリやオンラインセミナーなどデジタル時代の普及戦略も万人受けするツールとして成功の大きな要因となっているでしょう。

 マインドフルネス瞑想の光と闇

 マインドフルネス瞑想が現代社会にもたらした恩恵は、誰も否定できるものではありません。上述したストレスや鬱病、不安障害、慢性疼痛などの症状に対する効果は臨床的に繰りかえし確認されており、薬物に頼らず自己調整機能を取りもどす手法として、アメリカ国内だけでも22億ドルの経済効果を生み出したともいわれています。
 その輝かしい成功の要因は、脱宗教化による普遍性と多様な技法の統合、 科学的エビデンスの可視化、メディアの後押し、デジタルツールの市場戦略、等々の相乗効果だったといえるでしょう。複合的ですが、多彩な技法のミックスは気づきの力を強化させるためであり、そのサティの効果を実証したものが科学的エビデンスとして蓄積され、それに付着したものがメディアの後押しやデジタル市場の繁栄に過ぎません。つまりマインドフルネスの成功は、<脱宗教化>と<サティの威力の実証>の2点に集約されます。
 気づきによってネガティブな反応を止める効果は、ヴィパッサナーもマインドフルネス瞑想も同じです。同じ技法なのに、マインドフルネス瞑想だけが爆発的に普及したのはなぜでしょうか。
 脱倫理化によるストレス緩和技法の普遍化に絞り込んだからです。
 マインドフルネス瞑想の大成功は、悪を抑止する倫理的規制を撤廃することによって「戒→定→慧」の三学を骨抜きにし、技法の大衆化に徹したからでした。そして、その眩い光の影には、怖るべき凶器のような闇が拡がってもいるのです…。(つづく)

ヴィパッサナー瞑想をやってみたら―瞑想で訪れた人生の転機(Web会だより 改め)

【グリーンヒルのベスト瞑想者賞いただきました(笑)】(4)飾間浩二

【瞑想しない日は1日もなかった】

 自分で言うのもおこがましいですが、自分は仕事ができるとずっと思っていました。雇ってさえくれればどんな仕事でも人並み以上にこなす自信があった。しかし現実は違っていました。物覚えも悪くなっている。機転もきかない。同じミスを何度もする。この俺が? この俺に限って? こんなこともできないのかと、何度も落ち込みました。こんなはずではない・・・。
今思うと、自分ができないことを棚に上げて、指摘されると「なに、こらっ!」と頭の中で怒りがこみ上げ、今度ああ言うてきたらこう言い返してと、妄想で相手と言い合いをして最後は殴り合い(頭の中で)になってと、こんなことばかり考えては、仕事が終わるとグッタリして帰るという日々が続いていました。
そうか、自分の不甲斐なさを怒りでごまかしていたのか、なんともおめでたい男である。このときも仕事中にもかかわらず、自分が情けなくて泣きそうになリました。あ〜情けない。自分は新入社員で、1から教わって仕事を覚えていくしかないのだと、今の現状を認め、できることをひとつひとつやっていくしかないと、気付かされた瞬間でした。

 その後も、相変わらず同じ相手に怒りは出るものの、慈悲の瞑想やダンマのおかげで多少引き出しも増え、以前のように1日中怒りが出ていることは少なくなリました。先日も朝から怒りが出て、モヤモヤしていてサティも入らず、どうしたものかと、慈悲の瞑想をあの人にも、この人にも、手当たり次第やりまくったら、20分ぐらいで気持ちが落ち着いてきて、気がつけば通常のサティモードに切り替わり、スパスパとサティが入るようになっていました。「おっ!サティが入りだした」と喜んだり、ある時期怒りの対象の1人に対して、その人の前を通るたび「あなたのおかげで、ヴィパッサナー瞑想に戻ることができました。ありがとうごさいました」と日に何度も心の中で繰り返したりもしました。
 私はまだまだ、サティで怒りが消えることはほとんどないのですが、思考で因果論を当てはめたり、カルマのことを考えたり、頑張って視座の転換を試みたり、あるいはお釈迦様の言葉のなかで「ただ耐えるだけの人生であっても良い」と言う言葉を思い出しては「そんなこと言われても、それは無理です」と抗いながらも、なんとか怒りの心を抑え込んでるのが現状です。
結局半年やそこらで心が簡単に変わるわけもなく、イライラしてることは多いですが、そんな中、今怒りの対象は二人いたのですが一人はこの3月に会社を辞め、そのおかげで人の再編成があって、もう一人とも一緒に仕事する時間が半分に減ったりと、現状も変わっていったのには驚いています。

 嫌なこともまだまだいろんなことが次から次と出てきます。ヴィパッサナー瞑想やってるのに、とも思ったりもすることもありますが、結局全部自分の反応系の心が勝手に、怒ったり落ち込んだりしているだけで、この反応系の心を書き換えない限り、苦しみから解放されることはないのだろう。この腐りきった心を変えていくには、このまま本気で仏教を学び、ヴィパッサナー瞑想を続けていくしかないのだろうと思います。

 新たにヴィパッサナー瞑想を始めて半年が経ちましたが、自分の中ではこのヴィパッサナー瞑想は「効く!」と言う感想です。この効くという言葉は本来使うべきではないのでしょうが、自分の中ではそんな感じです。
世の中には、宗教も含めていろいろなメソッドがあります。どれもそうなのでしょうが、こうしなさい、ああしなさい、と言う教えがあって、それをやりさえすればそれぞれメリットはあるのでしょうが、ただ合うとか合わないとかも含めて、続けられるかどうかが一つの縁なのかなと思います。私もいろいろやってきましたが、簡単なことでもなかなか続かない事が多かったです。  

続かないから変化が起きない
変化が起きないから、やらなくなる。
やらなくなって、だめだったと諦める。
また次の事に手を出す・・・。

 私にとってのヴィパッサナー瞑想は、前回の時もきちんとやったとは言えませんが、三年間1日もやらない日がなかったというのが、すごく自分の中で縁を感じているのと、今回も半年やそこらですが、何もやらない日はほとんどありませんでした。中には10分だけのサティの瞑想しかやらない日はありましたが、前回との大きな違いとしては、常にダンマに触れていることが大きな違いです。
スマホのおかげで、YouTubeやグリーンヒルの月刊サティを含め、先生の「X」や今日の一言など簡単に目にすることができるのが、本当に助かります。
今回この体験談を書かせていただくことになり、日によって完全に不善心モードになっては自分にこんな投稿する資格がない、と落ち込んでいる時でもいろいろ考えながら文章を書いていると、知らず知らずに不善心モードが治まっているのに気づくことも何度かありました。

 本も、月刊サティで紹介されたものや、先生が勧められるものを読んだりと、この半年ヴィパッサナー瞑想にドップリ浸かった生き方になってきたことに感謝しています。まだ食事の制限や、クーサラはほとんどしてないので、これからの課題として自分に課せるつもりです。

   今回この文章を書かせていただくにあたって、この数十年の自分の歴史といえば大げさですが、じっくり振り返ることもできました。思い起こすと、結構瞑想に関わってきたなぁと思います。今は、ヴィパッサナーというか仏教というのは知れば知るほどやり切る難しさを感じますし、ゴールが遠すぎるようにも思え、幸せになりたいと思えばそれは欲だと言われ、苦を感じればお前が蒔いた種だと言われる世界。 ただ、この因果論やカルマを知識としてではなく、ほんとうに腹に落とし込んだとき、すべてが受け入れられるのかもしれない。それに少しでも近づけるのか、どこかで「やっぱり無理!」となる日が来るのか、それは知る由もありませんが、今はとにかく五戒を守り、毎瞬毎瞬サティを入れ、やがて智慧につながるその日を夢見て精進していくつもりです。いつかまたその後の瞑想体験が書けるときが来るように頑張ります。

 最後に、いつも夜、三帰依をするときに、このダンマを、今この時代の自分が知ることができているのは、連綿と続いてきたサンガのおかげだと感謝の気持ちが湧いてきます。その教えを引き継がれている地橋先生や、グリーンヒルのスタッフのかたがたにも心から感謝申し上げます。ありがとうございました。これからも至らぬ凡夫ですが、お導きのほどよろしくお願いいたします。

 生きとし生けるもの、すべての生命に悟りの光があらわれますように……。
 合掌
(完)
季節の写真

智光山公園の花菖蒲(U.K.撮影)


先生と話そう

第三回 瞑想の道しるべ 小説家の瞑想現場を参考例に(後編)

 前回は妄想と格闘するような姿勢で瞑想に取り組んでいた時期までを掲載しました。妄想している自分に「妄想するな、バカヤロー」と怒鳴るようなサティを入れていたのですが、それでは妄想した事実を対象化できずに巻き込まれているだけなので、もっと妄想も淡々と受け入れる態度でサティを入れなさい、というアドバイスをいただいたところででした。今回はその後半をお送りします。

【モグラ叩き法の時期】

榎本 僕は自分の仕事場で瞑想しています。歩きの瞑想は、六畳間の長辺を行ったり来たりしています。できれば、端から端まで妄想なしで歩きたいのですが、これがなかなかうまくいかない。ただ、妄想が2回か3回までに減った時に、この妄想を根絶してやれとばかりに〈モグラ叩き法〉に移行しました。〈モグラ叩き〉は先生の命名で、妄想が出てくるのを待ち構えるように心がけて、出てきたと思ったら、モグラを叩くように、瞬時にサティを入れる。これを試してみることにしました。そして、さらに、歩く速度を速めてみたのです。すると、歩行距離に対して妄想の回数は減りました。まあ、それはそうですよね。

地橋 はい。それは当然です。サティとサティの間の時間が短くなるわけですから、一定の距離に対して妄想が減るのは当然でしょう。

榎本 そう。とりあえず妄想の回数が減ったのはよかったなとは思ったのですが、注意が足裏から離れがちになり、センセーションの密度・濃度が弱まってしまったのです。

地橋 ここは道が分かれるところです。そしてどちらの道に行くべきかは人によってちがいます。〈モグラ叩き法〉は、妄想が出る瞬間を待ち構えるように見張り役を立てている感じです。妄想だけではなく、どんな知覚情報にも瞬時にサティを入れていくやり方で、正式には法随観と呼ばれます。中心対象に絞り込んでいた注意を六門全体に拡散させるので、足のセンセーションが微弱に感じられるのは当然です。  私は個人的に法随観が向いているのですが、ミャンマーのウ・パンディータ・サヤドーは身随観に徹底させる先生でした。面接で瞑想体験をいろいろレポートしても、「そんなことはどうでもよい。中心対象はどうだったのか」とひたすらセンセーションに没入させましたね。それに対し、モッコク・サヤドーは法随観を重視するタイプでした。私がミャンマーに入った時にはすでに亡くなっていましたが、指導書だけでもの凄く修行が進んで感動しました。榎本さんは妄想に人一倍敏感だったので、法随観に向いているのではないかと思ったのですが、そちらの方向で修行をしてもらうにはすこし早かったんですね。


【センセーション没入法へのシフトチェンジ】

榎本 はい。それで1Day合宿の面接で、「妄想が出てもかまわない。(端から端まで妄想なしで歩くという)目標設定もいちどバラして、もっと足裏からのセンセーションを深く感じ取るようにしなさい」という指導を受けました。

地橋 妄想の対処法は基本的にふたつです。ひとつは〈モグラ叩き法〉ですね。もうひとつは〈センセーション没入法〉です。〈モグラ叩き法〉は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六門からモグラ(知覚)がひょこっと顔を出せば、瞬時にそれを叩く。意識の張り方としては、どのような知覚情報も認知してやるぞという姿勢を取るのです。もうひとつの〈センセーション没入法〉は、ほかの五つの門は閉めきった状態にしてセンセーションのみに集中する。――ここで道が分かれます。

榎本 分かれる? それは瞑想の方向性がですか?

地橋 そうです。つまり、ウ・パンディータ・サヤドーのような、徹底的に足やお腹の感覚に集中する道と、どんなことでも意識に上ったものにはすべてサティを入れていく道です。

榎本 かなりちがいますね。〈モグラ叩き法〉にはトライしたのですが、これでセンセーションを深掘りするのは難しいですね。

地橋 それは無理です。

榎本 だから、最終ゴールはともに解脱だとしても、「道が分かれている」という表現になるのですね。ところで、なんとなく、〈センセーション集中法〉の道はイメージできそうなのですが、〈モグラ叩き法〉、つまり法随観を上達させていくというのは、どのような道を歩むことになるのでしょうか。

地橋 身随観は、センセーションを深堀りしながら身体現象(ルーパ)の無常・苦・無我を洞察して悟りに至る方向です。一方、法随観が徹底していくと、意識の流れの怖るべき無常性や、エゴの思いどおりにならない無我性、意識現象を否応なしに惹き起こされてしまう「意識の奴隷状態」でしか生きていけない苦(ドゥッカ)の本質を洞察しながら解脱していく道ですね。かなりレベルの高い話になってしまいますが、解脱にいたるさんだつもんというのがあるのです。どの道を行くかは、過去生の修行によってすでに決まっているとも言われます。

榎本 でも、過去生で法随観による修行をしていた人は、さきほどのウ・パンディータ・サヤドーのような、<センセーション集中法>以外は許しませんという先生についたら、かなり苦しい修行を強いられることになりませんか。

地橋 ですから、私はウ・パンディータのもとを離れたのですよ。私の道ではなかったということです。

榎本 それはかなり修行してからわかったことなのですか。

地橋 いや、それは最初からわかっていましたが、それより話をもういちど初心者レベル、妄想の対処法には〈モグラ叩き法〉と〈センセーション集中法〉の二つがあるということに戻しましょう。

榎本 はい。ともあれ僕は、一時モグラたたき法を試みたのですが、<センセーション集中法>にシフトチェンジしたわけです。足に向けた意識を強くするようにしていくと、自然と歩く速度がまた遅くなった。「どうせ妄想はするものだ」と腹を括って、「脱線したら瞑想に戻る。それを繰り返すのが修行だ」という気持ちを強めました。また、僕は歩く瞑想には、必ず立つ瞑想の時間を混ぜているのですが、立つ瞑想がだんだん面白くなってきて、台所でコーヒーを淹れるためにケトルをコンロにかけていて、湯が沸くまでの間に立つ瞑想をしています。


【脳の休息 無我 そして閃き】


地橋 それは、いいですね。榎本さんのような仕事をしている人は、わずかの時間でもセンセーションに集中して左脳の細胞の電源を切って休ませることが大事です。それから、榎本さんは書いていないときでも自分の作品のテーマなどについて考えることがあるでしょう。逆にそれを考えている脳の領域への干渉を完全に止める。そのことが閃きや直感の源泉になることが多いのです。

榎本 ふむ。睡眠が大事なように、脳を休ませることは大事ですね。これはわかりますが、それが直感やひらめきにつながるというのはなぜでしょう。

地橋 榎本さんのお仕事に即していえば、思考を展開させているのは基本的にエゴですから、どうしてもエゴに都合のよいデータ操作をしてしまうし、自我意識を超えた高度な展開にはなりづらいのです。狙いどおりに造型され、作者の意図に操られる人物ではなく、作者自身が裏切られて、作中人物がひとりでに歩き出していくような迫真の展開に読者は感動するのです。ゾーンに入ったような、執筆中の無我感覚とでも言うのでしょうか。神業や入魂のパフォーマンスに共通するのは、エゴ感覚の脱落です。エゴが操作する思考の流れが手放されると、純粋な直感やひらめきが溢れ出るということになるのです。

榎本 ああ、それはわかる気がします。たしかに思考が止まってからの瞑想中に、突然よいアイディアが浮かぶことが多いですね。「妄想」とサティを入れて見送ってしまうのが辛いところですが。

地橋 そうです。ですから、お湯が沸く間の短い間でも瞑想するのはとてもいいですね。ひとつは言語脳の休息という意味で。もうひとつは<瞑想に集中する→思考が止まる→エゴモードを離れる>と、日常でも無我の時間を増やして高次の閃きを産むという意味で。とてもいいと思いますよ。


【直接知覚】


榎本 ありがとうございます。それで、瞑想をはじめて2年ぐらい経ったあと、2025年の年明けから、座りの瞑想を一日の瞑想時間の中に混ぜはじめたのです。このころから、ニミッタが出るようになりました。また、丁度その頃から歩く瞑想時に、足裏から伝わってくる感覚が変わりました。足裏から発生したセンセーションが脳に達するような感覚が得られるようになったのです。これはどういうことでしょうか?

地橋 たぶん、直接知覚が高まっている状態になっているのでは、と思います。

榎本 直接知覚とはなんですか。

地橋 概念フィルターを通さない、他の知覚とダブらないなま生の知覚ですね。複数の門から入力された情報が脳内で束ねられミックスされた結果としての知覚ではなく、あるがままの知覚です。

榎本 ああ、昔、僕が先生に、「歩きの瞑想の時に足を見ながら歩いたほうが雑念が湧きにくいのですが」と泣き言を言ったら、「それは二つの知覚情報がダブっているのでよくない」とおっしゃっていましたね。それと同じですか。

地橋 うーん。同じと言えば同じですけど、ちょっと違いますね。今のは、身体感覚と視覚イメージをミックスさせるなという話です。複数の門から入った情報が脳内で束ねられる瞬間から妄想の世界が始まるのです。先入観や思い込みを投影しながら眼前の人を見れば、実像が歪むだろうということです。複数の情報がダブった瞬間、エゴの干渉と編集が始まり、ドゥッカ(苦)の原因がスタートするとも言えます。法と概念を仕分けて、ものごとの真実相を洞察するタスクが崩れる瞬間だと言ってもよい。

榎本 ほお…。

地橋 一方、足裏の感覚が脳を直撃するような直接知覚は、ノイズがきれいに除去されたレポートです。これは私の造語なのですが、非常に細かい、普通では気づかないような妄想、うっすらとした通奏低音のような妄想、これをマイクロ妄想、ナノ妄想と呼んでいます。このノイズがあると音楽などを聴いてもあまり鮮明には聞こえません。逆に言うとマイクロ妄想、ナノ妄想が減少すれば、センセーションの曇りが取れて、ヴィヴィッドな感覚が得られるようになります。さらには、足で生じた電気信号が脳に届いたというよりも、脳が足にあるという感覚にまで至ります。

榎本 脳が足にある? それはすごいなあ。

地橋 ともあれ、榎本さんのこのレポートは、マイクロ妄想、ナノ妄想の減少によって、直接知覚が高まりつつあるのではないか、と想定しています。法と概念の仕分けができて、ここからヴィパッサナー瞑想が本当に始まっていくのです。

榎本 いや、それは、どうも…。今日はありがとうございました。これからも精進したいと思います。

今日のひと言

2025年6月号

1月号
(1)人は、なぜ瞑想するのだろうか?
 なぜ瞑想は、孤独になって、森の中で、樹の下で、廃屋で、自分と向き合うのだろうか?
 ・・・瞑想会へ行ってみるか。

(2)欲しかったものが手に入り、欲望が満たされたときの幸福感。
 人のお役に立つことができた。
 人に心から喜んでもらえた。
 あなたのお陰です、と感謝されたときの幸福感。
 ゲットする幸せがあり、与える幸せがある。
 成熟するということ・・・。

(3)合宿の最後は、沈黙行から解放された瞑想者が、簡単な自己紹介をしながら互いに親睦を深め合う。
 ご家族を喪って瞑想に出会うまでの経緯が淡々と語られ、感銘を受けたこともある。
 なぜ、これほどの悲しみを、かくも静かに伝えられるのか。
 客観的な事実のみが呈示され、叙情が抑制されているゆえに、語り手の胸中への共感が深まり、心を打たれた・・・。

(4)修行が始まるや一斉に沈黙行が布かれ、誰もがサティの瞑想に没頭していく。
 一日のどこかで必ず慈悲の瞑想をするのも義務化されている。
 参加者全員が、他の全員に対して慈悲のバイブレーションを互いに放射し合っている状態。
 一言もしゃべらず目も合わさず挨拶もしないのに、優しい沈黙が響いているグリーンヒル合宿の瞑想空間・・・。

(5)自信が持てない人、自己評価が低すぎる人、「慢」の煩悩に悩まされている人、正確な自己イメージが捉えきれない人たち・・。
 エゴ感覚を手放し、因果の流れに我が身をゆだねきった人もいる。
 いつでもどの瞬間にも、諸力に支えられ理法に貫かれた一挙手一投足・・と心得た人の静かな自信。

(6)子供の前で、夫婦喧嘩するほど、愚かなことはない。
 子供の心を傷つけ、親が嫌いになる理由の1番か、2番・・。

(7)ともかく、そういうことが、起きてしまったのだ。
 受け容れる覚悟を定めれば、経験の意味が変わり始める。
 知識も経験知もあらゆる情報が、決意した方向に向かって結晶していく・・・。
読んでみました

加藤聖文著『満蒙開拓団-国策の虜囚』(岩波書店 2023)

加藤聖文著『満蒙開拓団-国策の虜囚』(岩波書店 2023)

 本書は2017年3月、『満蒙開拓団-虚妄の「日満一体」』(岩波現代全書)として刊行され、2023年に「岩波現代文庫」へ収録されたものである。その際、書名を『満蒙開拓団-国策の虜囚』とあらためたうえ、 「関連年表」と文庫版のためのあとがきが付け加えられた。

 2023年9月23日の毎日新聞に、「夢見た開拓 目にした地獄」「旧満州 疫病に飢餓、妻子手にかける上官」「収容生活 語り継ぐ94歳」という記事が載った。(※当紙では満洲ではなく満州としてあった)
 有料記事なのでネットで見られるリード文、およびそれに続く一部だけを紹介する。
「鬼となり、目の前で最愛の妻や幼い子どもを手にかける上官がいた。寒さと飢えで多くの仲間が死んだ。ロシアによるウクライナ侵攻の約80年前、夢の大地を求めて海を渡った少年を待ち受けていたのは『地獄』の日々だった」(リード文)
 先の見えない逃避行のなか当時19歳だった野田さんが見たのは・・・。
 肺炎、発疹チフス、高熱による呼吸困難、栄養失調で容体が急変して息も絶え絶えの高田中隊長の妻。薬などはもちろんない。「ごめんなさい。先に逝かせてください」との妻の懇願に、「どうすることもできないことを悟った高田さんは震える両手を妻の首にかけながら『許してくれ。俺は子どもたちを守る。再び妻も取らない』と叫び、号泣していた」姿。そして、「絶命した母親の前で、幼い子どもたちは『お母さん!お母さん!』と泣きついていた。野田さんは『励ます言葉一つ見つけられなかった』」。
 高田さんはこの地で家族6人全員を失ったという。

 ところで、私の運転免許証には普通車のほかに、茨城県内原で11日間合宿講習を受けて取った大特車(カタピラ車に限る)がある。昭和42年当時、翌年から1年間の派米農業実習が決まっていることもあって役に立つかと思って夏休みを利用してのものだった。
茨城県の内原といえば、大学入学当初、満蒙開拓の夢と結びつけてよく聞かされていた場所だ。あまりピンと来ないかも知れないが、那須皓(しろし)、加藤完二、石黒忠篤、橋本傳左衛門と言えば、当時はとても偉い人たちという認識だった。日本の農村を救い、「日満一体」を標榜しつつ「王道楽土」「五族協和」を旗印に、満蒙開拓のプランを立ち上げかつ実行し、そこに参集した人々の指導者だったと。学科には満洲の開拓事業に携わったり、加藤完二の思想を受けついているような先生方もおられ、私たちもそんなスローガンを本気で信じていた。二十歳前後だった。

 ところが、その後次第に満蒙開拓について書かれたものを読んだり、残留孤児が報道されるようになった。また帰国した叔父からも現地での民族差別の実態を聞くこともあり、次第にそんな単純なものではないと知るようになった。
 しかしそれでも、敗戦後に避難民を襲った途方もない悲劇は、ソ連軍の突然の侵攻、開拓地の壮年男子の根こそぎ召集、南方移動による兵力の弱体化、ソ連侵攻に先立って逃げ出した関東軍とその関係者等々にその責任の大半があると思っていた。もちろんその通りではあるが、実はその背景には根本的な「国策の誤り」があったことをあらためて本書で痛感させられた。

 著者は人間文化研究機構国文学研究資料館准教授。毎日新聞『今週の本棚』(2023.7.20)には、「情も理もある優れた研究者」と書かれている。(加藤陽子、池澤夏樹、奥泉光3氏による鼎談から)
 本書は綿密かつ膨大な資料をもとに執筆されているため、本欄では概要だけに絞らざるを得なかった。
 なおそれに先立ち、今紹介した鼎談から一部を引用したい。本書を読む上での理解の整理に役立つと思う。
・本書に登場する農林官僚は地主制や土地問題に関心が深く、何らかの「善意」で日本の農民を豊かにしたいと考えた。しかし、その学知は本人の意図とは異なった形で使われてしまう。(加藤)
・総力戦体制下の官僚制は戦後に持ち越され強化された。だからここで論じられているのは、まさに今の問題です。個々の官僚が無能であるという問題ではない。高い理想や理念を持ち、政策決定をしていくが、それが国策という形で集合体となると、ほぼ確実に悲惨な結果になる。(奥泉)
・よく日本人の宿病といわれる「無責任の体系」ですね。(略)本書では、そのメカニズムがよく描かれています。(加藤)
・悲劇を中心に置いて物語化したくなるのを抑え、システムの問題としてとらえて、満蒙開拓団を書いています。(奥泉)
・国策の責任の部分を読んで感動しました。おっしゃるとおり、結果の検証がないまま進んでいく。今で言えば大阪・関西万博でパビリオンが建たないとかね。(池澤)
・当時の国際的な通念でいえば開拓団は軍事組織でした。普通は女、子どもはいない。そのはずが関東軍の幕僚を除いて、開拓政策を推進した官僚らは、国内問題の延長で考えていた。だから、まさかソ連軍の攻撃の対象となるとは考えられない。国際法の教育を何も受けずに前線に放り出された、日本兵と同じ構造でした。(加藤)
・開拓団が入植した土地でいえば、現地の歴史的な土地制度を知らなかったり、実勢価格を知らなかったりしたために、開拓団員が思わぬ憾みを買っている。その背景もしっかり書かれていました。(加藤)

 本書は6章で構成される。それぞれ個々の事例とともに、それを推進した人々、そしてコントロールを失っていく状況とその背景が詳しく述べられている。また多くの名前があがり、彼らの間の意見の違いや反目、事なかれ主義、現場を知らない机上の計算、無責任体制、それら複合的な要因が働いて自ずから悲劇が生まれる構造が出来上がっていったことが明らかにされる。

 「はじめに」は上記毎日新聞記事のような、5人の子供を手にかけて殺した妻の夫の証言から始められる。
 「これは第三次試験移民団として北安省綬稜県に入植した瑞穂村開拓民の証言である。敗戦間際の根こそぎ召集で開拓団を離れていたため生き残ったこの開拓民は、戦後もあの時起きた現実と向き合い続け、死ぬまでその苦しみから解き放たれることはなかった。彼は、なぜこのような苦しみを味わわなければならなかったのか、その原因も分からなかったし、そもそもなぜ満洲へ開拓団として渡ることになったのか、その背景も分からなかった。そして、家族を襲った悲劇の責任は誰にあるのかも分からなかったであろう」

 一方、敗戦時に東満総省長だった五十子巻三(いらごけんぞう)は、4年間のシベリア抑留を経験しながらも「開拓移民こそ世界大調和による世界恒久平和完遂の礎石であり、かかる考えから私はソ同盟引揚後再び縁あって中南米移民のお世話をすることになった次第で、ここで開拓移民の根本理念を実現し、開拓移民を通じて万人ひとしく念願する世界恒久平和の完成に貢献し、一はもって七万有余の満州開拓殉難者の英霊を慰め、一はもって我が人生観――開拓万邦化一家、万民協和為一体――に合致した終生の仕事をしたいと思った次第である」と言う。
 著者によれば、彼は終生「満州開拓が『五族協和』の実現に貢献したとの考えを持ち続けた」という。彼は決して詭弁を弄しているわけではなく、「民族協和の実践例として開拓政策を高く評価する考えは、加藤完治を筆頭に開拓政策に関わった者たちの意識のなかに大なり小なり、いだかれ続けてきた」。私が学生時代に教わったのもそうした見方だった。

 確かに、現地民と共同作業したり、治安を回復させて現地民から感謝されたり、あるいは避難時に現地民から助けられたというような話しは多くある。しかし、「このようなエピソードをいくら繋ぎ合わせても満蒙開拓団の本質を明らかにすることはできない」し、なにより開拓団の集団自決や、「五人の子供を殺した母親がいたという事実は、満洲開拓政策が成功だったことを証明するものではない」と著者は主張する。
 著者の課題は、このような隔たりは「何故に生まれるのか、その疑問を出発点として、満蒙開拓団の歴史を政策史の視点から検証」し、その根底にあるものを明らかにしてゆくことにあった。

 「はじめに」のこの箇所は特に重要と思われる。それは、国策を推進する当事者は、その時点では「最善と思われる政策」を立案するのであって、「善意」や「熱意」が政策実現を後押ししていることが多く、同じことは満洲開拓政策にも当てはまるということになる。
つまり、例えば農村救済に熱心な人物であればあるほど「善意」でのめり込んでいく。それに対して、消極的や反対する人たちの多くは、無関心な都会人や地主制を維持したい既得権者。そこには、根源的な土地制度の問題を解決すべきとか、開拓政策が抱える侵略性に気づいて反対するという「先見の明がある賢人などほとんどいなかった」のが現実だった。
 さらに、満洲開拓政策という国策は、人物の多彩さ、満洲国までを巻き込む政治状況の複維さ、多民族をめぐる間題、それらが絡み合って実態への接近を拒絶し続けてきた。本書は、その実態に接近しその歴史を考察していこうということであった。

 本書はすべてがこの稿の筆者にとって新たな知見であった。ここで紹介するのは第1章の一部にすぎないが、それでも理解が深まることは間違いないと思う。

 第1章:満洲移民計画の浮上
 満洲に日本人を入植させようという発想は日露戦争直後まで遡るという。日本は関東州と満鉄(南満州鉄道株式会社)の租借地を実効支配するため、関連会社による入植を図ったが失敗する。それは、当時の政府には満洲移民を後押しする気はなく、大蔵省も予算的に否定的、拓務省は南米移民に比重を置いていたからである。
 一方、当時農村の疲弊はますます深刻となり、国全体も不況のまっただ中にあった時、陸軍の中の一夕会系によって起こされたのが満州事変(1931年)だった。当初は日本による領有を考えていたというが、当時は常任理事国であった国際連盟の規約に違反することや他の国際的現実から独立論へと転換せざるを得なかった。しかし移民に消極的な陸軍に対して、関東軍では移民計画が急浮上してくる。その理由は、「傀儡とはいえ独立国家という建前をとる以上、新国家内部における日本人の人口比率が他民族に比べて著しく低いことは大きな問題」だということからだった。
 一方国内ではどうだったか。
 当時。目立った業務が南米移民くらいしかなかった拓務省にとって、満州移民は「省益拡大と組織存続の切り札となり得るものであった」が、しかし政府内では賛同を得られなかった。なぜなら、新規事業を抑制しようとする大蔵省はもとより、陸軍中央も関東軍とは異なって消極的だったため。
 そうした時、農村問題に強い関心を抱いていた加藤完治、那須皓、橋本博左衛門、農林官僚の石黒忠篤らによって満洲移民「構想」が浮上する。本書ではこう描写されている。
「のちの満洲移民政策に関わる民間人や後述する官僚や学者の多くは、当初から誇大妄想気味の侵略主義者だったのではなく、マルクス主義でも資本主義でもない第三の道として協同組合主義を掲げ、現実の社会で深刻化していた農村問題――とくに小作問題――解決に向き合っていた者たちであった。満洲移民政策が「善意」から出発していた点がむしろ問題の本質を複雑にしていくのである」と。

 本書では次に加藤完二の軌跡が述べられているが、本稿では略す。

 一方、1932年には農村の窮乏に対して全国的に農村救済請願運動が起こり、農林省が主導する農山漁村経済更生運動が発足する。 この運動は「隣保共助」「自力更生」をスローガンに村落共同体を再建するもので、それを推進する人材育成のために「農民道場が全国につくられ、加藤が校長を務める日本国民高等学校がその中心施設と位置づけられた」。
 しかしこの経済更生運動は満洲移民とは調和しない政策だった。なぜなら農林省は、「満洲移民は農村問題の根本的解決にはならない」と考えていたからである。そのため、満洲移民の政策的効果は限定的にならざるをえず、そうした事情から「初期の満洲移民はより軍事的色彩の濃いものとならざるを得なかったといえよう」と著者は言う。

 一方、加藤は石原を介して満洲国軍政部顧問の東宮鉄男(とうみやかねお)と接触し、用地確保の目途をつける。こうして「加藤を介して関東軍と拓務省との移民案が形づくられていたが、政府内部で予算を獲得するためには陸軍省の同意が必要であった」。これはつまり、満洲移民計画が国策となるためには、「弱小官庁である拓務省よりも陸軍の動向が決定的に重要であった」ということだった。
 陸軍は一枚岩として積極的だったわけではないが、最終的に同意したのは、「事変拡大にともなって兵力不足が顕在化していたことに陸軍中央も危機感をいだいていた」ためである。つまり、依然として張学良軍との戦闘は続き、反満抗日ゲリラによる抵抗も激しく、極東ソ連軍と直接国境を接するようになったため対ソ戦にも備えなければならなかった。にもかかわらず事変時の兵力は少なく2万人に満たない。そのうえ寄せ集めの満州国軍の軍事能力は低かったため、それを「指導していた東宮は日本人武装移民によってその穴埋めを図ろうと考えたのである」。
 さらに、関東軍の兵力不足は陸軍中央でも認識されていた。「その応急的な解決策として、単なる農業移民ではなく兵力不足を補う武装移民という計画は、経済的にはともかく軍事的には一つの選択肢として魅力的に映ったのである」。
 こうして、満洲事変を契機として高まった満洲への国民的関心と満洲移民いう国策が結合する土壌が形成されるなか、1932年秋に在郷軍人を主体とした軍事色の強い第一次試験移民が送り出されていった。

 本書の目次は次のようになっている(ただし、節は第1章のみ)。その後の展開は要約のみなので、推測の上、もし関心を持たれたらぜひ直接読まれたい。

 第1章 満洲移民計画の浮上
 満洲事変と高まる移民熟/2農村不況の深刻化と満洲移民/3加藤完治の登場/4関東軍の移民計画/5拓務省の移民計画/6救農議会と経済更生運動の始動/7東宮鉄男の屯墾軍計画と試験移民の実現

第2章 迷走する試験移民
 試験移民として慌ただしく進められた計画はたちまち問題が噴出、宣伝と現実との落差に直面した移民団には動揺が広がり、退団者が続出する。
 満洲の土地はそもそも権利が入り組んでおり、そのような土地の無理な買収は現地を混乱させるばかりか現地民の反感を買い、ついには武装蜂起、土竜山事件に至る。
 一方、日本国内では地方各県からは移民割り当てを求める声が相次ぐ。その結果、対満事務局が設置され、陸軍主導で満洲移民政策の一元化が図られるようになる。

 第3章 百万戸移住計画と本格移民の実施
 1934年12月に関東軍が策定した方策案によって本格移民への拡大が目論まれ、府県への割り当ても行われるようになる。そして、満洲拓殖株式会社(のちの満洲拓殖公社)と、日本国内で移民を斡旋する満洲移住協会が設立される。こうして集団移民が始まる。
一方では「百万戸移住計画」が突然浮上する。これは、「関東軍と極東ソ連軍との軍事バランスが崩れつつある危機感のなかで生まれたものであり、対ソ戦を前提とした軍事的要請に基づくものであった」。

 第4章 経済更生運動と分村計画の結合
1937年度から満洲産業開発五カ年計画と同時に百万戸計画が始まる。
 そうしたなか、農家適正規模論を基にした分村計画が構想されるようになる。そして、長野県の「大日向村による分村計画が社会的に注目を浴びるようになると、農林省も積極姿勢へと転換」、ついには経済更正計画と分村計画が連結して大量移民送出のメカニズムが出来上がる。
 一方、有事の際の兵力補充対策と加藤の構想とが結びつき「満蒙開拓青少年義勇軍」が誕生する。これは当初から軍事目的であった。

 第5章 戦局の悪化と破綻する国策
日満両国の国策として位置づけた「満洲開拓政策基本要綱」が1939年末に決定される。
 これにより、「青少年義勇軍の拡大や満洲建設勤労奉仕隊の創設にとどまらず、戦時体制のなかで仕事にあぶれた中小商工業者なども開拓民の対象とされ、帰農開拓団として満洲へ」送り出される。
 また地方に対して半ば強制的にノルマを割り当て、ついには、「被差別部落民や空襲雁災者などに対する社会政策の一環として開拓政策が位置づけられるように」なった。
 一方、開拓団への食糧増産要求は激化し、後方支援基地としての役割がますます重視されるようになった結果、「開拓政策は本来の目的を失い、ついに敗戦直前に終焉を迎える」。

 第6章 開拓団の壊滅と開拓民の戦後
 防衛の軍事拠点でもあった開拓団はソ連国境近くに多く点在していた。しかし、成年男子の不在という状況のなかで、「ソ連軍の攻撃と現地民の襲撃によって集団自決が相次ぎ、逃避行を続けるなかで死亡者が激増、中国残留日本人という現在も続く問題の起源ともなった」。
 かろうじて日本にたどり着いた人々も、すべての財産を処分していたため故郷での生活再建は不可能だった。一方、食糧不足が深刻となっていた日本では、「緊急開拓政策による食糧増産」が計画され、「開拓民らを対象として、国有地の開放と未墾地への入植を進めた」が、ほとんどが失敗に終わる。なぜなら、「開放農地の多くは、もともと農業に適さない荒蕪地」だったから。
 さらに、「日本が独立すると再び海外移民が進められるようになり、ドミ二力移民のような悲劇が起きる。
 結局、戦後になっても国策の失敗が繰り返されたのである。

 「おわりに」で著者は、国民が主権者ではなかった時代には、現実はどうであれ国民は国策の「犠牲者」だったと言えなくもない。しかし、「現在においては国民が主権者であり、政策結果の責任の一端を担う以上、国策という怪物から目を背けてはならない。現在、そして将来にわたって生み出される国策をいかに制御していくべきか、満蒙開拓団の歴史は我々にその覚悟を自覚させるものなのである」と結んでいる。
 さらに「文庫版のためのあとがき」で次のように言う。「満蒙開拓団の歴史はまだまだ未解明の部分」が多く、「関係者は確実に減少」している。しかし、「逆に埋もれていた記録が世に現れてくることもあろう。人の数だけ記録があり、真実がある。互いが矛盾し合う記録を突き合わせて事実に迫ることが、満蒙開拓団の歴史に翻弄された人びとに対する手向けでもあり、歴史学者としての責務でもある」と。

 本書を読めば、私たちがいかにその時の社会の風潮に流され易いか、公共的政策はレベルにかかわらず決定は硬直化し、責任も曖昧に検証がないままに進められるかがよく分かる。慄然とするばかりであるが、その背景を鋭くえぐった本書は、とくに社会の舵取りを担う人々にはぜひ読んでほしい一冊だと思った。(M.I.)

ちょっと紹介を!

草下シンヤ著『怒られの作法』(筑摩書房 2023)

 草下シンヤ著『怒られの作法』(筑摩書房 2023)

 著者は彩図社(出版社)の書籍編集長、そして作家で漫画の原作者でもある。新聞に載った書評によれば、「著者はヤクザや裏社会を得意ジャンルとして長年活躍してきた名編集者」だという。
著者は自身が関わるさまざまな出版物に対する外部からの、それも時には危険に感じるほどのしばしばのクレームの現場に対応しながらさまざまな気づきを重ねていく。本書は若かった時代の自らの歩みも背景に、そうした気づきの一環を具体的に、しかも説得力をもって著わしている。

 その一つをあげるとすれば「怒られ」という言い回し。私もはじめは「何これ?」と思ったが、2010年代後半頃から若い世代を中心にSNS上で使われるようになっているという。著者によれば、例えば「発生」と組み合わせて「社内会議で怒られが発生した」「上司に仕事のミスがばれて怒られが発生しそう」というふうにも使われるという。(下線は本稿筆者)
 ではなぜこのような表現が使われるのか。著者によればその理由はこうなる。

 「怒りを感情ではなく現象として捉えている点に」あって、「『怒られ』の部分をたとえば『事件』『事故』『災害』といった言葉に置き換えても、ほとんど違和感がありません。つまり怒られることを、天変地異のように自分とは無関係に発生した現象として捉えているのが『怒られ』の特徴と言えます」

 つまり、一見客観視しているようにも見えるが、実はそんなかっこいいものではない。単に逃げているにすぎないと著者は考える。と言うのは、こうした対処法は昔からあって、「雷親父」とか「虫の居所が悪い」などというのもそうした例だが、「相手だけでなく自分も含めて怒りを外在化している」ところに「怒られ」の特徴があるという。

 さらにこの「怒られ」は、「ネット社会で生まれ、SNS上で使われている点と無関係ではない」とされる。なぜなら、「対面での直接的なコミュニケーションが求められる実社会では、(心の中で思うのは自由であるにせよ)『怒られ』として無関心、無責任を貫くことは許されない」が、ネットでは、「怒られた事実も傍観者のように俯瞰することが可能」だからだ。ということで、「怒られ」とはSNSというツールを利用して、「相手の怒りを自分とは無関係な場所に遠ざけ、怒りの原因や責任を外在化させることで自分の精神を疲弊させない、傷つけないための一種の自己防衛策とも言えます」と結んでいる。

 本書で著者はこうした考えに至った背景にある多くの経験を、筋道を立てながら具体的に述べている。私たちは、普通に考えれば著者が携わる仕事にまつわる経験があるわけではないだろう。しかし根っ子のところで似たような思いをすることもあるのではないだろうか。そうであれば、本書には数々のヒントを得るところもあるに違いない。なお本書では、要点と思われるところが著者によって太字で書かれ、より理解しやすくなっている。

 書評者は、私たちは「怒られると恐怖で萎縮してしまい、とにかくひたすら謝ってその場をおさめようとする人も多いのではないだろうか」として、本書は「まさにそんな人に読んでほしい」と言う。さらには、「恫喝や理不尽なクレームが日常茶飯事という日々を送る」著者が「実践を通して学んだ怒られ術は、とにかく面白いとしか言いようがない。怖い人たちからどんな目に遭い、どう危機を切り抜けてきたのか、そんな興味本位から読んでも十分に楽しめる」とも。

 また書評者は異なる面からも本書の魅力を語る。それは「怒られ」の場面を「相手の心に向き合うチャンス」と捉えること。どういうことかと言うと、著者は「決して彼らの言いなりにはならずに、かつ、怒りの背後にある傷に触れることで信頼関係を築いていく」が、そのときの「瞬間的な判断や、厳しさとやさしさの絶妙な使い分け、相手を見抜いて形勢を逆転させていく様子の記述は、まるで合気道の本でも読んでいるかのようだ」とも言い、最大級の賛辞を贈っている。

 本欄では太字になっている要点をもとにそれぞれの概要だけを紹介する。
第1章では、「怒られ」というのは「怒り」の外在化、「感情に片足を残しながら、一方で相手の怒りに引きずられないように距離を取っている状態」と捉える。なぜそうするのか。それは「心が傷つけられることを防ぐため」であり、また一方では「相手との関係性を破壊しないため」。このようにして「怒られ」を究めると人間に対する「諦観」にはなるけれどしかし、「怒り」のすべてを「怒られ」と捉えるのは決して得策とは言えないのだとも。「怒り」と向き合う方法は他にもあるとする。

 第2章は怒りの種類による対処法。怒りには「意思表示」、「自己防衛」、「目的達成」という3つのパターンがあるという。
「意思表示」というのは「反応としての怒り」で、傷つけられた負の感情の現れ。そのような怒りに直面したらその背後の傷に目を向けるようにする。
 「自己防衛」は怯えからの怒りで、多くの場合言われた方はその理由がわからない。なので、できるだけ距離を置いたり環境を変える。
 「目的達成」は例えば金銭が目的のような手段としての怒り。よくある「誠意を見せろ」には「それはどういう意味ですか?」「考えたけどわからないのではっきり言ってください』と食い下がる。そして何を言われても気にせず「すみません、わからないのでもうー度説明してもらえますか?」と質問を繰り返していくと、ついには相手も疲れて「もういいわ」と音を上げるという。言った時点で恐喝罪になるから、相手も「金を出せ」とは言わずに「誠意を見せろ」なわけなので、こちらからは絶対に忖度しないこと。「とことん議論の姐上に載せて話し合うことが重要です」と言っている。

 第3章では、いかに「怒られ」として無力化しようとしても、否応なく巻き込まれてしまい、無視続けることが出来ない時もある。そのような場合にもっとも怖いのは怒られること自体ではなく、「心にもない言動を取ってしまうこと」。
 ではどうするか。それは前もってリスクをきちんと評価して対処の仕方を考えておくことだと言う。そのリスクは著者によると「身体的リスク」「訴訟(金銭的)リスク」「信頼性のリスク」の3つに分けられる。内容は略すが、3つ目は「ミスを隠したために信頼を失うこと」ということ。(←よくある話しです)
 否応なく巻き込まれた場合の最悪手は「過剰に自分を守ろうとすること」。重要なのは相手が怒っている原因に意識を向けることであり、その場合、「怒りから逃げるコスト」と「問題に決着を付けるコスト」とは同じだと著者は言っている。

 第4章では「謝罪するべき場面」と「謝らなくてもよい場面」を見分けることが大切だという。そしてダメな謝罪のパターンの一つは「相手の感情に飲み込まれてしまう」こと、もう一つは「相手の感情を無視して聞き耳をもたない」ことの二つ。むしろ、「謝罪の場面は、人間の心理や社会について理解を深める絶好の機会」でもあり、また「謝意は主観で、実害は客観で」と切り分けることも大切だという。
 そして究極的な心構えとして二つの重要なことは、「トラブルを解決しようとは思わない」ことと「相手にも赦してもらおうとも思わない」こと。
 なぜなら、トラブルの解決には相手の合意が必要であり、また、相手が赦してくれるかどうかもわからない。つまり、「どちらも自分にはコントロールできないことなので、深く考えても意味がない」からだ。それなのに、「問題を解決したい」とか「赦してほしい」というのは「別の見方をすれば、相手の意思や行動を恣意的に変容しようとしている」ことにもなってしまうから。(←まさに「あるがまま」ではない)

 この章を著者は次のようにまとめている。
 「つまり相手の怒りを鎮めようとするのも、自分を許してほしいと思うのも、どちらも相手のためではなく自己保身でしかない。厳しい言い方になりますが、それでは謝罪になっていないのです。
 問題の解決とは、個人が実現するものではなく、条件が整った局面で起こる“現象”だと私は考えています。ほとんどの問題は不確定な要素が複雑に絡まり合っていて、その全ての流れを自分で操作するのは土台無理な話です。まずは自分でコントロールできることと、できないことをしっかりと区別する必要があります」と。

 第5章はネットでの炎上の傾向と対策を取り上げているが、ここでは省略する。

 第6章では先ずこれまで述べてきたことを端的にまとめている。そして、「怒りに向き合うとは、この彼我の間に横たわる断絶の谷を埋めていく作業」であって、そこでは「『あなたと私は違う』という事実をまずは認めることが大切」なのだとする。
ここからが著者の結論になるが、読んでいてまさにヴィパッサナーに通じると思われる個所を紹介したい。(←本文はもっと長く、ここでは一部だけ)
 第6章の見出し「能動的に諦めるということ」に次のように書かれている。
 「・・・自分の主観から一旦離れ、全体的な視点から自他の違いを明らかにし、自分の感情を納得させる。『能動的に諦める』ことで見えてくる物事や道はたしかにあります。
 諦めることはまた、執着を捨てることでもあります。強い執着があるときは、自分が問題や関係性の壷に組み込まれている状態です。当然ながら全体像を客観的に捉えることはできないし、自分の立ち位置を見失いやすくなる。
そこで執着を捨てて、-歩引いて俯瞰で見ることを意識する。具体的に言うと、『あいつはむかつく』と考えているのが主観であり、執着している状態。一方で、『むかついてるな、自分』と考えるのが客観です。
 客観視ができると、自分さえもひとつの駒として見られるようになる。その結果、『ここは相手の言い分を飲んであげよう』とか『この方向から解決策を出すこともできるな』とか、多面的に思考できるようになります。
 つまり『諦観』とは、相手だけでなく、自分を含めて客観視することです。相手だけでなく、自分の感情も冷静に見つめられるようになれば、多くの人間関係の苦しみは和らぐ」
 さらに、
 「『相手が○○だから××する』という考え方は、主体が相手にある状態で、自分の思考や感情の決定権を相手に委ねている状態であるとも言えます。そうではなくて、『自分はそのときこう感じた、だからこう決めたんだ』と、行動の主体を常に自分に置く。そうすれば、結果的に不利益を被ったり、不本意な結末になりたりしても、『自分が決めたことだから仕方ないよな』と明るく諦めることができます。過去の自分を呪うことなく、自己肯定感を損なうこともない。まずは自分がどう感じたのか。そこをしっかりと拾い上げた上で、それは自分の行動で変えることができるのかどうかを考える。そして自分では解決しようのないことであれば、すっぱりと諦める。順序立てて感情に向き合う必要があります」

 最後に著者は、本来の自分は気の大きな人間ではなく、むしろ「これは大丈夫かな」とすぐに心配になってしまうほうだったのが、「叩かれて叩かれて、これ以上は小さくならないというところまで叩かれたことで、自分という人間を客観的に見つめられるようになった」、そして「不思議なことに、自分のことがわかると他者を許せるように」なってきたという。
 こうしたところに至るまでのかずかずの具体的なエピソードは、ぜひ本書を直接読まれたら良いと思う。
(雅)

ダンマ写真

タイ寺院重層屋根


サンガの言葉

「私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話」

「月刊サティ!」2005年1月~2005年5月号に掲載されました。今月はその5回目です。

 ブッダのことを考えてみると、師はなんと正しいことをお話になったことでしょう。私たちは、ブッダが非常に多くの敬礼と崇敬と尊敬に値すると感じます。 実際にはまだダンマの実践をしていなくとも、私たちが何かの真理を理解すると、そこにかならずブッダの教えがあります。しかし、ブッダの教えを知り、教えを勉強し、実践していたとしても、まだその教えの真理を理解していないなら、私たちにとっての「真の家」は無いのです。
 ですから、すべての人、すべての生き物があなたのもとから去ろうとしているということを理解しなさい。生き物は、寿命が来たら、それぞれの道を行きます。金持ちも、貧乏人も、老人も、すべての生き物はこの変化を経験しなければなりません。
これがこの世のあり方だとあなたが悟れば、この世はうんざりするような所だと感じるでしょう。あなたが頼れるような安定したものや物質的なものは何も無いと理解すれば、うんざりし、迷いから覚めたと感じるでしょう。ですが、迷いから覚めるとは、あなたに嫌悪感が生じるということではありません。心は明晰です。心は、この物事のあり方を変える方法は何も無い、これがこの世のあり方だと理解します。このように知ると、あなたは執着を手放すことができます。うれしくもなく悲しくもない気持ちで、智慧をもってサンカーラ(行い、状態)の変化する本質を理解することによって、サンカーラとは平和に共存したままで、手放すことができます。
 Anicca vata sankhāra――全てのサンカーラは無常である。簡単に言うと、無常はブッダだということです。私たちが無常の現象を本当にはっきりと理解すると、「現象は常である、変化する本質が不変である、という意味で常である」と理解します。これが生き物が持っている常性です。幼少期から青年期を経て老齢に至るまで、常に変化し続けています。そして、まさにその無常性、つまり、変化するという本質は、常であり固定しています。あなたが現象をそのように見れば、あなたの心は平穏になります。このことを経験しなければならないのはあなただけではありません。誰もが経験しなければならないのです。
 あなたが物事をこのように考えると、物事はうんざりするようなものであるとみなすようになり、迷いからの覚醒が生じます。感覚の喜びの世界に対するあなたの喜びは消滅します。たくさんの物を持っているとたくさんの物を残して去らねばならず、少しの物しか持っていなければ少しの物だけを残して去るのだということを理解します。富は単なる富、長寿は単なる長寿であり、特別なものではありません。
 大切なのは、ブッダがお説きになったように私たちが行動し私たち自身の家を建てること、すなわち、私が今まであなたに説明してきた方法で家を建てることです。あなたの家を建てなさい。手放しなさい。進むことも無く、戻ることも無く、留まることも無い平安に心が到達するまで、手放しなさい。喜びは私たちの家ではありません。苦しみは私たちの家ではありません。喜びと苦しみのどちらも衰え、消え去ります。
 偉大なる教師であるブッダは、すべてのサンカーラ(行ない、状態)は無常であることを理解し、それゆえ私たちに、サンカーラに対する執着を手放しなさい、とお説きになりました。私たちが人生の終わりに至ると、どうせ選択肢は無くなり、何も持っていくことはできません。ですから、その前にいろいろなものを下ろしたほうが良くありませんか。持ち歩くには重い荷物でしかありません。その重荷を今捨ててはどうですか。なぜわざわざ重荷を引きずって歩くのですか。手放し、リラックスし、家族にあなたの面倒を見させなさい。
 病人の世話をする人の優しさと徳は増えて行きます。病気で、他の人にその機会を与えている人は、世話をしてくれる人がやりづらくなるようにしてはいけません。痛みや何らかの問題などがあれば、世話をしてくれている人にそのことを伝え、心を健全な状態に保ちなさい。 両親の世話をしている人は自分の心を温かさと親切で満たすべきであり、嫌悪にとらわれてはいけません。これが両親に借りを返すことのできる唯一の時なのですから。生まれてから少年となり、さらに大人になるまで、あなたは両親に頼りつづけてきました。私たちが今日ここにあるのは、父と母が多くの点で私たちを助けてきてくれたからです。私たちは途方もない量の感謝の借りを両親に負っているのです。 ですから、今日あなたの子供と親戚が全員ここに集まりました。あなたの両親がどのようにしてあなたの子供になったのかを見てみなさい。以前に、あなたは彼らの子供だったのです。今は、彼らがあなたの子供です。彼らはどんどん歳を取り、やがて再び子供に帰ります。彼らの記憶は無くなり、目はあまり良く見えなくなり、耳は聞こえなくなり、時には間違ったことを言うようになります。それに動揺してはいけません。
 病人の世話をしているあなた方は、誰もが手放し方を知らねばなりません。物事をつかんではいけません。何としても手放し、物事のしたいままにさせるのです。子供が若いときに言うことを聞かないと、両親はただ平穏を保つために、子供を幸せにするために、子供に好きなようにさせることがあります。今、あなたたちの親はその子供と同じです。記憶と知覚は混乱します。あなたたちの名前をごちゃ混ぜにすることもあるでしょう。また、コップを持ってきてくれと頼んだのに皿を持ってくることもあるでしょう。それは普通の事です。それに動揺してはいけません。
 病人であるあなたは、世話をし、つらい感情に辛抱強く耐える人の親切心を忘れてはいけません。気を強く持ち、心を散乱させたり動揺させたりしてはいけません。そして、あなたの世話をしてくれている人に迷惑をかけてはいけません。病人の世話をする人の心が、徳と親切で満たされるようにしなさい。仕事の嫌な面、粘液と痰や糞尿の掃除をすることを嫌悪してはいけません。全力を尽くしなさい。家族は全員が手助けをしなさい。
 ここにいるのは、あなたたちの唯一の両親です。二人はあなたたちに生命を与え、あなたたちの教師であり、看護師であり、医者でした――二人はあなたたちにとってすべてでした。二人があなたたちを育て、あなたたちと富を共有し、あなたたちを遺産相続人にしたことは、両親の偉大な善行です。
 それゆえ、ブッダは、私たちの感謝の借りを知る徳(カタンニュ)と、それを返そうとする徳(カタヴェーディ)をお説きになりました。この二つの徳は補い合うものです。両親が困っていたり、健康に優れなかったり、苦境にあるなら、私たちは全力を尽くして両親を助けます。これがカタンニュ・カタヴェーディであり、この世を支えている徳です。これがあれば家族が崩壊することも無く、安定した仲睦まじい家族となります。
 今日、私はこの病気のときの贈り物として、ダンマ(真理)を持ってきました。あなたに渡す物質的なものは何もありません。そういうものは既にこの家にたくさんあるようですから、あなたには永続的な価値があり、決して使い切ることのできないものであるダンマ(真理)をあげました。それを私から受け取ったのですから、あなたはそのダンマを好きなだけ多くの人に渡すことができますし、そのダンマは決して使い尽くされることはありません。それが真理の本質です。この法の贈り物をあなたに与えることができたことをうれしく思います。そして、この贈り物によって、苦痛に立ち向かう力があなたに与えられますように。(完)
 Ajaan Chah「Our Real Home」よりまとめました。
 (文責:編集部)