メインビジュアル

月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

💎新装版「月刊サティ!」4月号巻頭ダンマトーク 『ヴィパッサナー瞑想大全』の公開

★「月刊サティ!」が装いを新たに再スタートしました。
 「巻頭ダンマトーク」も従来どおり誌面の一角を飾ることになりました。
 旧「月刊サティ!」の「ラベリング論」が完結しておりませんので連載が継続されます。
 ただ別案が検討され、「ラベリング論」を断続的に掲載しながら、『ヴィパッサナー瞑想大全』という大きな本を連載していくことになりました。

 『ヴィパッサナー瞑想大全』(以下『大全』)が最初に構想されたのは十数年前になるでしょう。多くのグリーンヒル関係者が関わり、内容も構成も二転三転しながら月日が流れ、幻の本のまま今に至っています。ヴィパッサナー瞑想の実践に特化したグリーンヒルの瞑想理論と技法の集大成として上梓する使命感が共有され、多くの人が仕事を分担し力を合わせてくれたのですが、私の完璧主義が仇となり完成を阻んできたと言えるでしょう。

 この本は、私がこれまでに執筆した原稿を中心に、各種瞑想会や朝日カルチャー講座のダンマトーク文字起こし原稿を集大成しようとしたものです。多くの方々が膨大な時間と労力をかけてテープ起こしをなされ、その原稿を故井上雅也初代「月刊サティ!」編集長が読みやすい文章にリライトされ、さらに私が大幅に書き直して草稿をまとめていきました。
 グリーンヒルを支えてくださった何人もの方々から構想案が提出され、何度も修正を重ねながら進めてきましたが、とりわけライフワークのように心血を注いでくださったのは故井上編集長でした。大学の先生がなぜここまで…と訝るほど力を尽くしてくださる展開に、宿世の因縁を想わざるを得ませんでした。何としても恩義に報いなければと思いつつ、優先すべき出版社から刊行する本や諸々の仕事に忙殺され、『大全』は未完のまま歳月が流れていきました。

 それでも2017年に刊行が具体化し、出版社の意向にしたがい故井上編集長が並々ならぬエネルギーを注がれて『大全』の構成を大幅に変更されて上梓できる運びになったのですが、諸般の事情からまたもや流産してしまいました。折しも、私自身が修行者に戻る決意を固め、ダンマの情報発信を激減させるとともに『大全』への情熱も失われていきました。
 こうした紆余曲折を、温厚な井上編集長は文句ひとつ言わずに静観されていましたが、間質性肺炎が急速に悪化し2024年に帰らぬ人となってしまったのです。
 痛恨の極みでした。

 最新刊『死のレッスン』が私の手を離れ、「月刊サティ!」が再開した今、『大全』を連載し全文を公開するアイデアが浮かびました。私も間もなく喜寿を迎える齢となり、瞑想に役立つ情報はすべて発信してこの世を去ろうと覚悟を定めています。文章には特に完璧主義になる私の悪癖が情報発信量を激減させてきたのですから、不本意と感じても妥協しないと『大全』は永遠に日の目を見ることがないだろうと思われます。
 という訳で、再読すれば修正したくなる心を見送りながら『大全』を順次掲載していくことになりました。
 以下に『大全』の目次を掲げ、次回から本文を掲載してまいります。

   ▲▲▲▲▲▲

★§【ヴィパッサナー瞑想大全】§★

◆第1分冊→(53,474字)

序章
一.マインドフルネスからヴィパッサナーへ
   (一) 現代社会のストレスとマインドフルネス

   (二) ヴィパッサナー瞑想へ
    ⑴ サティの機能
    ⑵ 正しい判断基軸を

二.八正道 ―仏教の心髄―
   (一) 正語
   (二) 正行(正業)
   (三) 正命
   (四) 正精進
   (五) 正念
   (六) 正定
   (七) 正見
   (八) 正思(正思惟)
コラム:すべての瞬間を貫く仏教

第1章:苦諦の章―苦とは何か―
一.さまざまな苦を抱えながら

二.苦には段階がある
   (一) 生命としての苦 ―苦苦―

   (二) 変わりゆくことから生まれる苦 ―変移苦―

   (三) 存在そのものの苦 ―行苦―

   (四) 行苦を越えるためには

コラム:幸せなのか、不幸せなのか?

三.煩悩のままに生きると ―『大苦蘊経』に語られる苦―
   (一) 欲の楽しみ

   (二) 欲の危険要素

   (三) 身体の楽しみと危険要素

   (四) 感受の楽しみと危険要素

   (五) 解放

コラム:「ハイッ、満点です!・・・?」

   ■■■■■■■

◆第2分冊→(50,937字)

第2章:集諦の章―苦はどこからくるのか
一.生命と欲望
   (一) 脳の仕組み

   (二) 学習による反応

二.エゴの探求
   (一) エゴの起源
   ⑴ 自意識の成長と働き
   ⑵ 分かち合いの淵源
   ⑶ 堕落の発端

  (二) 社会的システムから生まれるエゴ
   ⑴ 心のプログラム
   ⑵ 学習されるエゴ
   ⑶ 戦後日本人のエゴ感覚
   ⑷ エゴ感覚を止める
   ⑸ 劣悪な環境を越えて

コラム:そんなに責めないで・・・

三.「私」という錯覚
  (一) 「私」とは
   ⑴ 何が「私」なのか
   ⑵ 「私」は妄想
   ⑶ 五蘊は無我

  (二) 「法を見る者は我を見る」 ―ヴァッカリ比丘の願い―
   ⑴ 幻想か、事実か
   ⑵ 有身見とは
   ⑶ 無明の暗がり
   ⑷ 病篤きヴァッカリ

   (三) 『私』の体? 体が『私』?
   ⑴ ありのままに五蘊を観る
   ⑵ 体が私?
   ⑶ 物質的存在の観察
   ⑷ 「エゴ妄想!」の作られ方

   (四) 感じる私、優劣の私・・・
   ⑴ 体よりも心
   ⑵ 変滅する心の実態を正しく観る
   ⑶ 感じたものを認識する
   ⑷ エゴが消えれば苦痛が消える
   ⑸ 楽受の引力
   ⑹ 想への執着

(五) エゴの終焉を目指して
   ⑴ 諸行無常
   ⑵ 行=業
   ⑶ 一瞬の心の状態
   ⑷ 生きている証し
   ⑸ ヴァッカリ比丘の解脱
   ⑹ エゴの超克

四.苦をもたらす十四の不善心所
  (一) 四つの共一切不善心所

  (二) 三つの貪り系の不善心所

  (三) 四つの怒り系の不善心所

  (四) 三つのおろそか系の不善心所

コラム:あるがままの自分を肯定する?

   ■■■■■■■

◆第3分冊→(49,479字)

第3章:滅諦の章(1)―仏教の教えに生きる―
一.引き算の世界
  (一)「物財」と「食」の引き算
   ⑴ 物財と幸せ
   ⑵ 少食のススメ

  (二) 心の引き算
   ⑴ ただの概念ではないか
   ⑵ 記憶の源流
   ⑶ 達人の技
   ⑷ データの力
   ⑸ 思考の止め方

  (三) 質問に応えて
   ⑴ 作られていく欲望
   ⑵ 欲望の無常性
コラム:サマーディは、腹五分目から・・・

二.愛が超えられるとき
  (一) 無償の愛とは・・・?

  (二) 愛もエゴも超える

  (三) 愛から慈悲へ

三.慈悲の瞑想とその功徳
  (一) 慈悲の瞑想のために
   ⑴ 慈悲の瞑想の意義
   ⑵ 慈悲の瞑想の対象
   ⑶ 慈悲の瞑想を妨げるもの

  (二) ウペッカーの心を養うヒント
   ⑴ 慈悲の瞑想がうまくいく条件とは
   ⑵ 『荘子』から

  (三) 慈悲の瞑想の功徳

   ■■■■■■■

◆第4分冊→(→43,640字)

第4章:滅諦の章(2)―戒の真髄―
一.戒に始まり戒に終わる
   (一) 生命の営みと戒
    ⑴ 戒の起源とその範囲
    ⑵ 「あるがまま」の受容

   (二) 戒を守るステージ
    ⑴ 自分のために守る ―劣戒
    ⑵ 社会のために守る ―中戒
    ⑶ 悟るために守る ―清戒

   (三) 『清浄道論』の戒
    ⑴ 不犯が戒なり
    ⑵ 言葉の戒
    ⑶ 業を作る意志

   (四) 戒に始まり戒に終わる
    ⑴ なぜ戒を守るのか
    ⑵ 心の中で成長する戒

コラム:闘牛士のサティ

   ■■■■■■■

第5分冊→(41,924字)

第5章:道諦の章(1)―心の安定と修行の深化(基礎編)―
一.心を安定させる工夫 ―『二種考経』に学ぶ―
   ⑴ 快と不快
   ⑵ 抑制を学ぶこと
   ⑶ ブッダは欲の考えをどうしたか
   ⑷ 修行の上で欲の考えが起きたら
   ⑸ 欲のない考え

  (一) 欲のない考え
   ⑴ 快と不快
   ⑵ 抑制を学ぶこと
   ⑶ ブッダは欲の考えをどうしたか
   ⑷ 修行の上で欲の考えが起きたら
   ⑸ 欲のない考え

  (二) 怒りのない考え
   ⑴ 怒りの考え
   ⑵ 怒りのない考え
   ⑶ 傷つける考え

  (三) 明智から悟りへ
   ⑴ 細大漏らさず考えること
   ⑵ 善の心を増大させる
   ⑶ 心の安定を第一に
   ⑷ 定の中でサティ
   ⑸ 三つの明智から悟りへ
    終わりに―この経典を紹介した意義―

  二.「あるがまま」の本質を知る
  (一) 「あるがまま」を観る瞑想
   ⑴ 正確な対象認織
   ⑵ 「あるがまま」の本質
   ⑶ 現実から逃避するサティ

  (二)「想いの世界」と「事実の世界」
   ⑴ 「事実」と「想い」の世界のはざまで
   ⑵ 思い通りにならない世界
   ⑶ 諸法無我とエゴ
   ⑷ 「エゴ感覚」が生まれる背景

コラム:「もういい!」と言えない・・・

三.正しいヴィパッサナーのために
  (一) 反応パターンを変えよう
   ⑴ 技術だけのサティ
   ⑵ 行う以上は正しいサティを
   ⑶ 究極の課題は反応パターンを変えること
   ⑷ 目的追求型の人
   ⑸ 目的追求に価値を置くことは渇愛になる

  (二) 「戒」を受け入れる
   ⑴ 積極的な意志
   ⑵ 心の深層から浮かび上がるもの
   ⑶ 正しい反応パターンとは
   ⑷ 戒の受け入れがすべての土台
   ⑸ 戒→定→慧という順

  (三) 欲望の汚れを離れる
   ⑴ 四つの煩悩
   ⑵ 欲望の汚れ
   ⑶ 「欲漏」の正確な定義
   ⑷ 欲をなくすには

  (四) 生存・見解・無明の汚れを離れる
   ⑴ 生存の汚れ
   ⑵ 見解の汚れ
   ⑶ 無明の汚れ
   ⑷ 無明を超えて

コラム:なぜ瞑想するのですか?

   ■■■■■■■

第6分冊→(→45,800字)

第6章:道諦の章(2)―心の安定と修行の深化(実践編)―
一.不善心を回避する五つの方法 ―『考相経』に学ぶー
  (一) 妄想が煩悩を発生させる

  (二) 「相(ニミッタ)」とは

  (三) 『考相経』の教え
   ⑴ 対抗思念
   ⑵ 危険要素のチェック
   ⑶ 考えない
   ⑷ 分析論
   ⑸ ダメなものはダメ

コラム:あーあ、眠たいなぁ

二.煩悩から離れるために

  (一) 煩悩から離れる五つの道 ―『清浄道論』―
   ⑴ 省察
   ⑵ 鎮伏
   ⑶ 彼分
   ⑷ 正断
   ⑸ 安息

  (二) 反応系プログラムの書き換え ―『推理経』から―
   ⑴ 『推理経』の構成
   ⑵ 省察すべきこと

コラム:雨、風、光、サマーディの力

三.ヴィパッサナー瞑想を支える五つの力 ―五根とそのバランス―
  (一) 集中とサマーディ
   ⑴ 智慧の三つの段階
   ⑵ 私たちの認知システム
   ⑶ 集中を高める
   ⑷ サマーディの特色
   ⑸ サマタのサマーディとヴィパッサナーのサマーディ
   ⑹ サマーディの段階
   ⑺ 心と体の条件を整える
   ⑻ ヴィパッサナーのサマーディ
   ⑼ 仏教の瞑想とは

  (二) 精進の力と信の定まり
   ⑴ 精進の力
   ⑵ そのままでは抑制は働かない
   ⑶ 疑を晴らす
   ⑷ 信を定める

  (三) 五根のバランス
   ⑴ 信勤念定慧の要素
   ⑵ サティの重要性

   ■■■■■■■

第7分冊→(40,493字)

第7章:道諦の章(3)―智慧の発現のために―
一.中道を歩む
  (一) 中道とは何か
   ⑴ 楽が極まれば
   ⑵ 苦行は必ずしも否定されていない
   ⑶ 苦行のマイナス面
   ⑷ 中道は八正道に通じる
    質疑応答

  (二) 中道と十二縁起
   ⑴ 有無中道
   ⑵ 断常中道
   ⑶ 常見・断見
   ⑷ 十二縁起
   ⑸ 「有」は過程のこと
   ⑹ 「生」とはなにか
   ⑺ 妄想を離れる

コラム:「願望」は実現するか・・・

    二.智慧が現れる瞑想
  (一) 正確な情報と瞑想
   ⑴ 正しい情報と善悪の判断
   ⑵ 認識の仕組み
   ⑶ 認識の危うさ ―トップダウンとボトムアップ―
   ⑷ 後続を断つサティ
   ⑸ 認識確定のサティ
   ⑹ 対象化するサティ
   ⑺ サティの成長
   ⑻ 分析力

  (二) 智慧とはどのようなものか ―智慧の種類と段階―
   ⑴ 聞法の智慧
   ⑵ 思索の智慧
   ⑶ 洞察の智慧 ―智慧が閃く瞬間―

   (三) 智慧を発現させる具体的方法
   ⑴ 精査する
   ⑵ 質問をする
   ⑶ 好きになる
   ⑷ 脳をかき回す質問
   ⑸ 紙に書き出す
   ⑹ 書くことの創造性
   ⑺ 作り作られる双方向性
   ⑻自己客観視のために
    質疑応答

コラム:恐怖はなくせます

   ■■■■■■■

◆第8分冊→(40,552字)

第8章:道諦の章(4)―心の探究―
一.『心随観』へ
  (一) サティの原点に帰る
   ⑴ 瞑想の原点
   ⑵ 根本教理の実践
   ⑶ 厳密なサティ
   ⑷ 概念の消滅

  (二) 拮抗するサティとサマーディ
   ⑴ 悟りの七覚支
   ⑵ サマーディよりもサティ
   ⑶ 正確な技法で「身」から「心」へ
   ⑷ サマーディの妨害

  (三) 瞑想する心の分析
   ⑴ 心のエネルギー配分
   ⑵ 「撤退型」の瞑想とは

  (四) 心の深層を見る
   ⑴ 心随観などやりたくない
   ⑵ 「撤退型」から「特化型」へ
   ⑶ 「特化型」の瞑想
   ⑷ 気づき・集中・撤退・特化

  (五) エゴを乗り越えるために
   ⑴ ないものは見られない
   ⑵ 自己対象化
   ⑶ 視座の転換

  (六) 心随観上達のために
   ⑴ 問われる人格
   ⑵ 日常生活での心随観
   ⑶ 心の洞察の深まり
   ⑷ 構成因子に仕分ける

  (七) 秘訣はラベリング
   ⑴ ラベリングの諸問題
   ⑵ 分析的なラベリング

  (八) 質疑応答
   ⑴ タイミングとバランス
   ⑵ 追及の手がのびると・・・
   ⑶ 瞑想が進むこと

コラム:夏は、秋になっていく・・・

   ■■■■■■■

◆第9分冊→(60,168字)

第9章:道諦の章(5)―幸せへの道のり
    (瞑想修行質疑応答)

一.ラベリング
  (一) ラベリングの意義と基本

  (二) サティの秘訣はラベリング
   ◎ラベリングの重要性
   ◎言葉の選択
   ◎観察と認識のリレー
   ◎言葉が出てこない・・・
   ◎言葉の短縮化
   ◎言葉の工夫
   ◎音楽が鳴り止まない・・・
   ◎妄想が好きだから

  (三) 洞察から智慧の発現へ
   ◎ラベリングから自己理解へ
   ◎徐々に現れてくる智慧
   ◎洞察から智慧の発現へ

二.感覚の取り方のヒント
  (一) お腹の感覚

  (二) 鼻の感覚

  (三) 歩きの感覚

  (四) 感覚への意識

三.妄想と向き合う
  ◎妄想の由来
  ◎妄想が不幸にする
  ◎妄想対策
  ◎「妄想」か「膨らみ・縮み」か・・・
  ◎消えない時は…
  ◎妄想もありのままに

コラム:「変身願望」が叶えば・・・

四.痛み
  (一)痛みが起きたら
   ◎なぜ痛みを観察するのか
   ◎嫌なものから学ぶ
   ◎事実と妄想の混同
   ◎感覚の精査

  (二)「痛み」の観察法
   ◎痛みの由来
   ◎後続を断ち切る
   ◎マイナスをプラスに転じる
   ◎痛みが瞑想を進ませてくれる

五.怒りから慈悲へ
  (一)怒りはなぜ「悪」なのか

  (二)怒り・欲望・刺激

  (三)心のコントロール

  (四)怒りを静める工夫

  (五)何を最も優先すべきか

六.慈悲の瞑想へ
   ◎慈悲の瞑想の効果
   ◎慈悲の瞑想で気をつけること
   ◎慈悲の瞑想の心構え

   ■■■■■■■
Web会だより

【グリーンヒルのベスト瞑想者賞いただきました(笑)】(2) 飾間浩二

<サティで心が見えた>


 移転後、鬱状態が続いていたとき、座禅をやろうといろいろ求めていると澤木興道(曹洞宗の僧侶)という人のことを知り、本を読みあさりました。読んでるうちに心が軽くなることもありましたが、根本的には変わらず、「ただ座れ!」という教えでなかなか理解できないまま座禅のまねごとを続けていた頃、もともとあまりテレビは見ないのですが、たまたまテレビの前を通ったときに、オレンジの法衣をまとった外国の坊さんが、タレント相手に手を上げ下げしながら、上がる上がる、下がる下がる、と手を動かして言葉確認する方法を教えていて、これが瞑想です、みたいなことを仰ってるのを見て、「えっ?」???これが瞑想?という印象と少し興味は持ったものの、その時はやり過ごしてしまいました。が、その後少し経って、仕事である作業をしてるとき、1分程度の待ち時間があり、そこに積み上げられている古新聞を手にして読んだりするのですが、そのとき手に取った新聞の本当に小さいスペース(2cm四方ぐらい)に、先日テレビに出ていたあのお坊さんの写真が載っていて、「あっ!あの人だ」と目を止め記事を読みました。それがスマナサーラ長老の写真だったのです。何の記事かは忘れましたが、そこにヴィパッサナー瞑想という聞いたこともない言葉があり、とりあえずメモして家に帰って検索すると、テーラーワーダ協会やヴィパッサナー瞑想のことがいろいろ出てきて、大阪の伊丹というところでスマナサーラ長老の瞑想会があることを知り、早速行ってみました。それがヴィパッサナー瞑想との出会いでした。あのときテレビの前を通らなかったら、違う古新聞を見ていたら、おそらくこの瞑想にも地橋先生にも出会えてなかったのでないかと思います。
 そしてヴィパッサナー瞑想を知り 、次に日本人でどなたかいないかなと思って調べて、地橋先生のことを知りました。理論的に瞑想の説明をされている先生の「ブッダの瞑想法」を読んで、今の自分に当てはめたとき、頭の中でいろいろ妄想をして苦しみを自分で作り上げていたんだということに気がつきました。この本を読んで初めて瞑想とはこういうことなのかと知り、この瞑想をやってみたいと思いました。当時先生は 関西の瞑想会で指導されていたので、何度か通い、また短期合宿にも2回参加しました。初めての合宿ではサティの瞑想のやり方を1から教わり、そのとき自分はサティの瞑想がきちんとできていなかったことを痛感しました。2日目の夜に、歩く瞑想で集中が非常に高まり、座る瞑想に移行した時に「あっ!お腹の感覚がある」と思い、お腹の膨らみ縮みをやりだした途端、俗に言うサティの自動化が起こりました。もうそれこそ数秒の間に何回ものサティが勝手に入り、妄想、妄想、音、妄想、お腹の膨らみ、音、妄想、チヂミ、妄想、音、妄想、音、という具合で、どんな妄想が出たかも自分では分からないぐらいのスピードで、妄想が立ち上がろうとする瞬間にサティで撃ち落とす、まさにそんな感じでした。時間にしてわずか1分〜2分だったと思いますが、それが逆にアダとなり、あの時のあの体験をずっと追い求めるようになってしまいました。これも先生がよくおっしゃられてますが、それを望んでる間は起こりませんと、実際その通り。あれから15年以上が経ちましたが一度も同じ体験はありません 。その後も瞑想会にも行き、短期合宿にももう一度参加させていただきました。3年ぐらいヴィパッサナーというよりも、その当時はサティの瞑想を1日10分、とにかくやろうと頑張っていました。人生でなにかやろうと決めたことを、3年以上1日も怠ること無く、やり続けた経験はあのときだけでした。あのとき座る瞑想ではなく、歩く瞑想を、しっかりしていればもう少し結果は変わっていたのかもしれません。と、言うのも3年やったといいましても主に寝る前、布団に座って座る瞑想をやるのですが、ほとんど10分座って8分は寝ていた(笑)のが現状でした。あとは、気がつけば日常のサティを入れていました。その程度のことしかやっていなかったにもかかわらず、色々と心に変化は起きました。主に仕事の面ですが、移転した当時は毎日仕事が嫌で嫌で、違う仕事をずっと探し、ご飯を食べに行くと飲食店で働こうかとか、外壁を塗っているのをみるとペンキやさんになろうかとか、とにかく今の仕事以外なら何でもやると思いながら、つらい日々を送っていました。  ところがヴィパッサナーを知ってからは、仕事内容が単純作業の数をこなす仕事だったのでサティは入れやすく、サティを入れていると ある時、腕を動かしながら神経のうごきが鮮明に見えたというか感じられ、背中の神経につながっていて、こんな動きをしてるのかと感じて、サティを入れるのが楽しくなり、なんと、あんなに嫌がっていた仕事が、この仕事で良かったと思えたのです。仕事内容は何も変わっていない、心の持ちようが変わっただけで、同じものが180度変わって見えた、驚きの体験でした。その他にも前述した取引先の社長とは相変わらず反りが合わず、事があるたびイライラや怒りが常にあり、ある時非常に腹のたつ出来事があり、自宅で座る瞑想をしているとき、どうも腰の痛みがひどく、これは社長への怒りだなと思ったので心髄観をしようと心を見つめていました。「怒り」「憎しみ」「嫌悪」……と怒り系の言葉を羅列しましたがヒットせず、そのときに自分の口から「殺意!」という言葉が飛び出し「えっ!」と思いました。次の瞬間、腰の痛みが「スパーン!」と消えてなくなり、またまた「え〜っ!」と驚きました。マサカそこまで思っているのかと、ほんとに驚きました。人に殺意など覚えたことはないと思っていましたが、自分の中にそんな心があるのか、そして腰の痛みが消えたということは、まさにそういうことなのか。そして次の瞑想会で先生に質問したら、やはり先生の考えも同じで、おそらくそういうことでしょうね、とのインストラクションにもう一度落ち込みました。これは何とかしないと、と事あるごとに慈悲の瞑想をするようになりました。 そして、今度は仕事が少し暇になってきたときに、社長が、合併の話を切り出してきました。移転のときには一緒にやっていこうと言っていた、その舌の根も乾かないうちに、今度は合併の話です。このときも「そっちに回す仕事もなくなるで」と、言ってきたので、「もう全部放り出して辞めたろか!」と腹が立ちましたが、結局、借金の肩代わりとうちの従業員を、今の雇用内容以上の待遇で希望者を全員雇 用する事を条件に、合併に合意しました。自分は辞めると社長には言いましたが、会社の人や関係者からも引き止められ説得され、このときも私にも生活があったのでやむにやまれず合併してそこの会社の従業員になることになりました。 そのやり口に腹が立ちましたが、本来自分は経営者には向いていないとずっと思っていたので、社長の肩書が取れてある意味スッキリしました。確かに収入は減りましたが、生活レベルもほぼ落とすことなく生活できるぐらいの給料はくれましたし、以前より気楽な思いで働いていたように思います。(つづく)
季節の写真

下館のソメイヨシノ



撮影者は地橋秀雄先生

先生と話そう

第1回 瞑想の道しるべ

【前説】

 新装版『月刊サティ!』の新しいメニューとして、 先生と話そう。というシリーズをはじめます。ややフランクに、思いついたことを先生になんでも訊いてみようというコーナーです。会話がまとまる時もあればまとまらない時もあるでしょうが(そして、第一回目の冒頭から暗礁に乗り上げているのは否めないのですが)、日本におけるヴィパッサナー瞑想の第一人者との肘張らない楽しいお喋りを皆様にも楽しんでいただけたらと存じます。(榎本)

榎本 今日は第1回目になります。先生どうぞよろしくお願いいたします。

地橋 どうぞよろしく。今日はなにを話すんですか。

榎本 瞑想をはじめてからのロードマップをお尋ねしたいなと思っています。

地橋 というのは?

榎本 仏教では、瞑想の最終目的は解脱になりますが、さすがにこれはハードルが高いので、とりあえずサマーディの境地に至るまでをゴールに設定して、どのようなステップで到達するのか、その時になにが道しるべとして、現れてくるのか、俯瞰図を描いていもらいたいのです。

地橋 いやあ、それはねえ、人それぞれなんですよ。

榎本 いきなり、うっちゃりをくらった気分ですが(笑)。いや、実は先生がそうおっしゃられているのをなんどか聞いてはいるのですが、そこをなんとか。

地橋 まず瞑想が得意である、不得意であるというのは、才能というものに影響されるのです。

榎本 ええ、そうおっしゃってますね。先生がミャンマーの僧院で修行されたときに、1年目にどうも瞑想がうまくできていない様子でいるお坊さんを見かけ、1年後にもういちど出かけたら、ほとんど何も変わっていない状態だった。そして次回訪問したときには、瞑想を断念して、学僧になるべく勉強をはじめられた、と。仏教では、瞑想が苦手な僧は学問に専心することになるのかと知って驚いたし、瞑想がなかなか上手くならない僕などは、この話を聞いて身につまされもしたのですが。

地橋 でも、現実にそういうことはありますね。また、サマーディの境地に至るというのは、できる人は最初からできるし、できない人はなかなかできない。ただそこに到達するための注意点、よりよい食事とか、体調の整え方、瞑想にふさわしい心の整え方などは改善できます。ただ、そこから先は『頑張ってくれ』としか言いようがないんです。

榎本 なるほど、しょっぱなからインタビューにつまずいちゃってますが(苦笑)、このつまずきの原因は、僕がサマーディをとりあえずのゴールに設定したことにあるのかもしれません。もっとグリーンヒルに瞑想を教わりに来る人たちの動機に着目すべきなのかな。

地橋 その点で言うと、私がひそかに〈グリーンヒル瞑想病院〉と名付けているように、瞑想をやってみようという動機としては、人生の苦しみから解放されたいというものが圧倒的に多いんですね。そういう人にとってはたとえサマーディの境地までいけなくても、グリーンヒルで瞑想することによってネガティブな反芻思考がおさまり、結果的に苦しみが無くなっていけば、仏教の役割は充分に果たせているのではないかと思います。

榎本 はい、先生が〈反応系の修行〉と呼んでおられるものですね。もうすこし説明していただけますか。

地橋 心が正しい反応をするように、心の反応パターンを仏教的に組み替えていくということです。自己中心的な発想をやめる、すぐに怒りを沸騰させるのはやめる、慈悲の瞑想をする、利他行をする…というように。

榎本 正しく反応するためにはどうすればいいんですか。

地橋 その点について指導者として心がけているのは、『納得してもらう』ということです。なぜその反応を変えていかなければならないのか、なぜ心を込めて慈悲の瞑想をするのか、利他行をやる真の意味はどこにあるのか…そうした意義や修行の構造を心底から納得し諒解すれば、変わりづらい人の心も変わっていく確率が高まります。その時に、反応が誤作動をおこしたりもするのですが、練習することによってこの誤作動は減ります。私の経験から言えば、〈サマーディを目指す修行〉とはちがって、〈反応系の修行〉は誰でもきちんとやれば進歩は確実に見られます。

榎本 1Day合宿に参加するようになって2年が過ぎましたが、自分のような興味本位の参加者はどちらかというと少数派で、怒りなどの心の問題について悩んでいらっしゃる人が多いということがわかりました。ということは、やはり瞑想は対機説法で指導を受けたほうがいいということなりますか?

地橋 まったくそう思います。

榎本 グリーンヒルは、1Day合宿のときも、事前のレポートを参考に面接の時間をたっぷり取られますね。面接となると、そのときは瞑想モードから概念モードに切り替わるので、もったいないような気持ちにもなっていたんですが、指導を受けてるとこれは重要だなと思うことがとても多いです。

地橋 ただ、基本的なサティの入れ方などは汎用性があるので、それはまず身につけていただきたいとは思っていますよ。

榎本 先生が独自に作られたルールもありますよね。たとえば〈50:50の法則〉(妄想がセンセーションよりも50%以下であると感じられれば、サティを入れずに無視してよいというルール)などですが。

地橋 あれは個人的な体験に由来するんです。あまりに細かな妄想まですべてサティを入れていくと、たった数メートルの距離が30分たってもたどり着けないことになってしまったんです。そこで、見送るのか、サティを入れるのか、について、ある程度の規範を設けないと駄目だと思い、次第にルール化していったわけですね。

榎本 なるほど。先生はいちおう在家で教えているとおっしゃっておられますが、お寺ではどうなのでしょう。瞑想を教えてくれる外国の僧院ではこういうアドバイスはないんですか。

地橋 ないですね。驚くほどない。わざわざ外国の寺で6ヶ月間もリトリートに入り、なにも会得できないまま帰国して、その後、グリーンヒルの10日間合宿に来てようやく『ああ、こうやってやるんですね』と言われた方もいます。

榎本 そういう寺でも、参加者が積極的に質問をぶつけていけば、教えてくれるんですか。それとも寺のほうが教えないことにしているのでしょうか。

地橋 大先生なら、なにを訊いても教えられるし、教えてくれると思いますよ。ただ、そういう先生はたいてい留守にしてるんです。

榎本 高僧が寺にいない? どこにおられるんです。

地橋 世界の瞑想センターを巡回して教えていることが多いんですよ。

榎本 そうすると、留守番しているお弟子さんに教わることになるのか。これは当たり外れがあるのでしょうか。

地橋 あるんですよ。また、技術的な指導は上手だけど、精神的に寄り添うのは苦手だなという人もいます。いい指導者に巡り会えるか否かはカルマが問われますね。

(続く)

今日のひと言

2025年4月号

(1)赤裸々な感情を露わにするのが憚られる場面ではサティを入れ、冷静に、淡々と振る舞えたら素晴らしい。悲しみに浸りたい時には敢えてサティを入れず、心おきなく泣けばよい。自分自身を自在にコントロールし、なすべきことをなしていく。その拠りどころとなるヴィパッサナー瞑想……。

(2)……と、達観している人のサティ。いつ終わるともなく浮上してくる心の現象に「欲」「落胆」「失望」とラベリングしながら、際限なく一時停止をかけ続けるサティ……。

(3)世間では運命と呼ばれる「宿業(過去世のカルマ)」によって、人生の流れも寿命もおおむね決まっている。今この瞬間の意志が新たな業を作り、その流れを微妙に変えていく。調整はできるが、ほぼ決定された人生……。

(4)人格がととのい、反応系の心の汚染がなくなり、思考を止め判断を停止して、ただ一瞬一瞬の事象をありのままに受け容れていく……。

(5)同じエネルギーを出力をしても、対価の全額をもらえる人と、借金が天引きされてしまう人がいる。願いを叶える人も、努力の報われない人もいるのが業の世界だ。我が身に起きた事柄を、苦は苦のままに楽は楽のままに、ことごとく受け容れて感謝を捧げ、業の世界からの出離を目指す人達……。

(6)瞑想は、孤独ないとなみである。樹の下で、洞窟で、廃屋で、自分自身と向き合わなければならない。人と群れていてはならない。おしゃべりをしていてはならない。だが、人は独りでは生きていけないのだ。瞑想と孤独……。

(7)もう後戻りしない、揺るぎない反応系の心が確立されるまでは、自転車のペダルを踏み続けて坂道を上っていくと覚悟する。

読んでみました

朝鮮に思いを馳せる三冊

〔1〕高崎宗司著『朝鮮の土となった日本人-浅川巧の生涯』(草風館 2002)
〔2〕江宮隆之著『白磁の人』(河出書房新社 1994)
〔3〕江宮隆之著『冬萌の朝 新・白磁の人』(柏艪舎 2006)


先ず柳宗悦と安倍能成の浅川巧への追悼文の一部を紹介したい。〔1〕による
柳宗悦
『浅川が死んだ。取り返しのつかない損失である。あんなに朝鮮の事を内から分つてゐた人を私は他に知らない。ほんとうに朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうしてほんとうに朝鮮人からも愛されたのである。死が伝へられた時、朝鮮人から献げられた熱情は無類のものであつた。棺は進んで申出た鮮人達によつてかつがれ、朝鮮の共同墓地に埋葬された』(p.5)


安倍能成
『巧さんは私の最も尊敬する、さうして最も好愛する友人であつた。(略)巧さんは官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで露堂堂と生きぬいて行つた。かういふ人はよい人といふばかりでなくえらい人である。(略)かういふ人の喪失が朝鮮の大なる損失であることは無論であるが、私は更に大きくこれを人類の損失だといふに躊躇しない』(p.7)


〔1〕の著者は歴史学者。2013年まで津田塾大学国際関係学科教授。著書に『「妄言」の原形-日本人の朝鮮観』、『「反日感情」-韓国・朝鮮人と日本人』(ともに木犀社)、『中国朝鮮族』(明石書店)、『検証日韓会談』(岩波新書)、『朝鮮人』講談社現代新書)等。
〔2〕〔3〕の著者は88年に『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞受賞、95年に『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村聖湖賞を受賞。近著に『石田三成』(学習研究社)、『沙也可』(結書房)など。


20年以上前に「韓国人になりたかった日本人」という放送で浅川巧のことを知ったのはすでに先月号で述べた。
〔1〕はその浅川巧の生涯を、生い立ちから系図、親族、そして朝鮮に渡ってからの仕事、生活、心情、交流、これからの企図、そして遺した事跡や影響などなど、つまりそのすべてにわたってさまざまな資料や証言に丹念にあたって記述されたもの。まさに総合的な研究書であり、著者自らが「本書は、柳宗悦や安倍能成をして先のように言わしめ、朝鮮人をして今も追慕の念を起こさせる類ない日本人・浅川巧の生涯をたどったものである」と述べているが、その通りだと思う。


〔2〕〔3〕は浅川巧と同じ山梨県出身の著者による小説。〔1〕を丁寧に参考にしつつも独自の展開(とくに〔3〕)があり、さすが小説家の手腕とはこういうものかと惹きつけられる。ということを考慮すれば、もし興味を持たれたら先に〔2〕〔3〕から読まれるとよいとも思う。
そのようなわけで、本稿では〔1〕(以下「本書」)のみ、しかも彼の人柄、彼に接した人々の思いというところだけに絞って紹介することにする。なので、彼の生い立ちや研究所時代の業績、陶磁器・民藝(民衆的工芸)への打ち込み、朝鮮民族美術館、木喰仏の発見や著書などにつては必要最小限にした。
資料原文の撥音便「つ」は大文字のままにした。漢数字は改め、日記文のみは『』で括った。さらに、本書では資料の詳細が記載されているが、字数の関係から省略して本書でのページを記しておいたので、興味を持たれたら直接当たられたい。


先ず本書の目次は次のようになっている。
序:朝鮮人を愛し、朝鮮人に愛された人―柳宗悦と安倍能成の追悼/慟哭した朝鮮人たち
1.巧を生んだ土地と家系、2.朝鮮古陶磁の神様・伯教、3.山を緑にするために、4.朝鮮の民芸品に魅せられて、5.1922~23年の日記から、6.朝鮮民芸の美論、7.巧をめぐる人びと、8.朝鮮の土となる、9.蘇る浅川巧、10.浅川巧・1997~2002、索引を兼ねた年譜/参考文献


1913年に朝鮮に渡った兄伯教の功績も忘れてはならない。彼は朝鮮古来の風俗画や民画について、『支那の模倣でなく全く朝鮮の感覚を描出した処、前後にない朝鮮独歩の風俗画師だと思ふ』と評価している。著者は、「朝鮮の芸術は中国の芸術の模倣にすぎないとみる人の多かった当時に、このように指摘できた伯教は、偏見にとらわれない確かな眼をもっていた」と記し、また安倍能成は『私は伯教君の茶道に対する理解には、柳(宗悦)君以上のもののあったことを疑はない』と述べたという。(p.55)


巧は1914年、兄を慕って朝鮮に渡り、朝鮮総督府林業試験所の職員となる。「露天埋蔵法」を開発して種子を良く発芽させることに成功する。それは韓国語を上手に話せまた聞き取れたので、韓国人の人夫どうし会話にヒントを得たからだった。
関東大震災と朝鮮人虐殺事件の情報にも、朝鮮人の弁護をするために彼らの前に行きたいとも日記に綴っているという。
また日記には、景福宮内に建築中の朝鮮総督府庁舎を見て、『白岳や勤政殿や慶会楼や光化門の間に無理強情に割り込んで座り込んで』調和を破っているとし、加えて、『朝鮮神社も永久に日鮮両民族の融和を計る根本の力を有してゐないばかりか、これから又問題の的にもなることであらう』とも綴った。
さらには、「朝鮮の風物に対する巧の優しい目、朝鮮の民族文化に対する励ましの声は、日記のいたるところに出てくる」。例えば、『朝鮮人の旅芸人の踊や軽業や人形使ひを見に行つた。原始的で粗野でゐて何処かいゝ処がある』と書かれ、『朝鮮人の大勢は川原で飲み食ひして太鼓や鐘を鳴らして踊り狂つて居た。実に愉快さうだつた。僕も一緒に踊り度い様の気分になつて見とれた。(中略)賀宴舞踏の曲を民族打揃つて奏する平和の日よ来れ(1922年)』と記され、このように、「巧の優しい目は、風物に向けられただけではない。ごくふつうの朝鮮人に対しても向けられた。そして、それは何の努力もなしに注がれたごく自然の眼差しである」と著者は記している。
さらに日記には、『実際日本人の態度は僕等から見ても腹の立つ様なことが多かつた』とあり、「巧は自ら下人用の下房に住み、三福(*)を主人用の内房に住まわせた。巧はいつも虐げられた朝鮮人の味方であった」。(p.145~146) *朝鮮人の若者、姓は不詳


著者は『朝鮮の膳』の末尾からも引用している。
「ブレイクは云つた『馬鹿者もその痴行を固持すれば賢者になれる』と。疲れた朝鮮よ、他人の真似をするより、持つてゐる大事なものを失はなかつたなら、やがて自信のつく日が来るであらう。このことは又工芸の道ばかりではない。昭和3年3月3日於清涼里』」
そして、「『他人』が日本であり、『持つてゐる大事なもの』が朝鮮固有の民族文化であること、そして、『自信のつく日』が独立の日であることは明らかであろう」とも述べる。(p.154)

本書にあるエピソードから。
『4、50個の大小碗を自分の前に置きし50前後の男が、市場の片隅に坐つて居眠りをしてゐる。そのうちに老婆が来て男を呼び起し、「一つ何程か」、「一つが三銭」
老婆は暫くかゝつて選択した揚句、
「二つ五銭で呉れ」、「一文も掛値はない」
と云ふてその交渉は不調に終つた。
私も一つ佳いのにありつきたいと側から見て居た所なので、老婆の去つた後近づいて三つを選み出し、先程からの問答で値段は判明して居たので十銭白銅を渡して、「勝手に選択したから当方から一銭負けて遣る』と云ふと、男は『こんなことは生れて始めてだ』と喜んだ。然し私も驚かざるを得ない。窯元から七人里も距てた所で、これだけ立派な碗が選り取りの三銭とは勿体ない気がする」(p.176)


柳宗悦の記録。
「嘗て青物を女が売りに来たことがある。『あゝ買つて上げよう、いくらだ』、『之は一つ廿銭ですが』そばで奥さんが云ふ、『今お隣りではねぎつて十五銭で買へましたのよ』、『あゝさうか、それならわしは廿五銭で買つてやる』。貧しい女をさうしていたはつた。奥さんはわざわざ高く買ふ夫の行為にほゝえんだ。彼の所へは時々人知れず台所に贈り物が届けられた。みな貧しい鮮人達の志の現れだつた。朝鮮人は日本人を憎んでも浅川を愛した。(こんな逸話が浅川には多いのである。集めたら何よりのいゝ伝記とならうと思ふ)』(p.189)


小宮山栄の証言。
「朝鮮服を着てね、まことに風采はあがらない顔でした。ですから、『ヨボ、ヨボ〔朝鮮人に対する蔑称〕』と朝鮮人だと思われて。電車に腰をかけていると、『「ヨボ、どけ』なんて席を立たされると、黙ってどいて席にかけさせました。
あるときは、青年が学校にいってたけん、父が亡くなつたので学校をやめた、なんていう話を聞きますと、そりやかわいそうだといって、月謝を出してやって、しまいまで学校に出してやりました。それから、部落の人が初物だといって、もろこしを持ってき、大根を持ってきて。一所懸命庭をはいてくれたり、お風呂をくんでくれたりしたんですよ。そういう人には、お小遣いをあげたんです。月給日になると、もらいにくるんですが、あるときは月給が遅れて、『明日お出で』なんて言っているときもありました。素朴で、飾りもないし」(p.189)


元同僚の方鐘さんの話。
「浅川さんは男のコジキに会うとかならず村役場に連れていってなにか仕事を見つけてやりました。女のコジキに会えばポケットにはいっているお金をみんなあげてしまいました。浅川さんはそんな人でした」(p.185)


1963年まで働いて「木おじいさん」と呼ばれた金二万氏は次のように語る。
「浅川氏は、韓国語を非常にじょうずに話し、常に韓国語で話した。(略)韓国人同僚に対する態度に差別はなく、日本人同僚から『あなたは韓国人か』と悪口をいわれ、迫害されたほど、韓国人を愛した。それだけでなく、彼は朝鮮服を好んで着て、夕方にはパジ・チョゴリに木履をはいて帰った。長いキセルを好み、中国の帽子をかぶり、縄で編んだ袋を背負い、市場にいって、韓国の骨董品・陶磁器などを日常的に買い集めた。そのおかしな様子のために、(日本人の)警官から取り調べられたこともよくあったという」(p.185)


崔民之さんの話。
「浅川氏は、林業試験場内の官舎に住み、平素、韓国人に親切で、韓国人を愛したために、正月や節季のときは、たくさんの韓国人同僚が遊びにいった。自分は飢えても、因っている人を助け、何人かの韓国人の学生には奨学金を与えていた。対象は主に国民学校の生徒であり、中学生も2、3人いたと思うが、たいていは林業試験場の職員の子女であった」(p.186)


著者は、「技手である巧の給料は、当時の中学校教師の初任給程度であったという。しかし、彼はそれでも日本人であった。したがって、給料の6割という『外地手当て』が与えられていたのである。彼が朝鮮人に奨学金を出していたのは、もちろん因っている人を見捨てておけない性格によることに間違いないが、それと同時に、自分が朝鮮人よりも余分な手当てをもらっていることに対する購罪の気持ちもあったのではないだろうか」と推測している。(p.186)


1931年2月~3月、長期の出張から帰った巧は風邪をこじらせ、3月26日林業試験場で映写会を行った翌27日、急性肺炎で床につく。一時峠を越えたかに見えたが4月2日午後5時37分に亡くなった。
柳宗悦は、4月1日夕、「病重し」との知らせに急遽その夜京都を立ったが、翌2日夜、汽車が大邱を過ぎたとき再び電報をうけて、巧が2日午後6時に死んだことを知った。
「柳は眠れない一夜を車内で過ごし、翌朝、京城の清涼里にかけつけた。柳は玄関で出迎えた伯教の手をとって慟哭した」(p.212)
翌3日、多くの人が弔問に訪れ、その中には巧がしばしば通った清涼寺の3人の尼さんが「『アイゴー』と、声を出して全く泣いた時は、はたの目にもいじらしもらい泣きをしてしまつた」(土井浜一の回想)(p.214)


葬儀は4月4日だった。葬式の参席者の中には、のちに柳海剛と併称され韓国陶芸界の巨匠となる池順鐸の姿もあった。(彼は伯教の薫陶を受けている)
出棺の時、巧の死を悲しむ朝鮮人のようすを記録した柳宗悦。
「彼の死が近くの村々に知らされた時、人々は、群をなして別れを告げに集つた。横たはる彼の亡軀を見て、慟哭した鮮人がどんなに多かつた事か。日鮮の反目が暗く流れてゐる朝鮮の現状では見られない場面であつた。棺は申し出によつて悉く鮮人に担がれて、清涼里から里門里の丘へと運ばれた。余り申し出の人が多く応じきれない程であつた。その日は激しい雨であつた。途中の村人から棺を止めて祭をしたいとせがまれたのもその時である。彼は彼の愛した朝鮮服を着たまゝ、鮮人の共同墓地に葬られた」
「巧さんは人の為にしたことをめつたに人には語られなかつた。けれども、巧さんの助力によつて学資を得、独立の生活を営み、相当の地位を得るに至つた朝鮮の人は、一人や二人ではなかつたさうである。巧さんの死を聞いて集つて来たこれらの人々の、慈父の死に対するやうな心からの悲は、見る人を惻々と動かしたといふ。私も亦その一人を見た。彼は巧さんを本当にお父さんよりも懐かしく思つてゐたといつた。さういふ彼の顔には掩はれぬ誠が見えた。巧さんは恐らくその素直な曇りなき直覚で、人の気づかぬ朝鮮人の美点を見出されたのであらう。巧さんの心は朝鮮人の心を掴んでゐた。その芸術の心を掴んでゐたやうに。
親族・知人が集つて相談の結果、巧さんの遺骸に白い朝鮮服を着せ、重さ40貫もあつたといふ二重の厚い棺に納め、清涼里に近い里門里の朝鮮人共同基地に土葬したことは、この人に対してふさはしい最後の心やりであつた。里門里の村人の、平生巧さんに親しんでゐた物(ママ)が三十人も棺を担ぐことを申し出でたが、里長はその中から十人を選んだといふ。この人達が朝鮮流に歌をうたひつゝ、棺を埋めためたことは、誠に強ひられざる内鮮融和の美談である。(安倍能生の回想)(p.238)


著者は言う。「朝鮮人によってこれほどまでに死を惜しまれた日本人としては、前述の曾田嘉伊智や、水原でキリスト教を伝道した乗松雅休、朝鮮の孤児を育てた田内千鶴子(*)、朝鮮人朴烈の妻であった金子文子がいるくらいではないだろうか」(p.220~221)
*キリスト教伝道師の尹致浩(ユンチホ)さんが孤児7人を引き取り育てたのを始まりとする児童福祉施設「木浦(モッポ)共生園」、そののち高知県出身の田内千鶴子さんが約3千人の孤児を育て「韓国孤児の母」と慕われた。昨年10月13日の開園95周年式典には尹大統領が訪れ、また岸田首相も祝辞を寄せている。森山諭著『真珠の詩』(真珠の詩刊行委員会)、長男田内基著『愛の黙示録』(汐文社1995)、石田えり主演の日韓合作映画『愛の黙示録』(1997)がある。


ほぼ半年後の10月19日、「朝鮮民族の新聞『東亜日報』は、4分の1頁を割いて洪淳赫の書評『浅川巧著「朝鮮の謄」を読んで』を掲載した。それは事実上の追悼文であった」という。それは、
「わたしが浜口〔良光〕氏とともに清涼里に氏を訪ねたのは、もはや4年前のある寝つけない夜だった。(中略)氏のわが国の芸術工芸に対する多くの愛・理解・知識・経験は、わたしをして言わしめれば、敬服せざるをえない。(中略)
外国人ではあるが、彼の残した業績、特にわが学徒に与えた教えを考えるとき、彼の代表作としてこの一巻をまだ読んでいない、志しを同じくする人に紹介するのも意味のないことではないと思う」
著者は「『東亜日報』が日本人の死を悼んでこれほど大きな紙面を割いたのは、後にも先にもこのときだけであった」という。(p.10)
なお洪淳赫はまた本文中に差し込まれた写真について、次のようなエピソードを伝えているという。
「(写真に写っている膳が)32個、そのうちの5個を除いては、すべてが朝鮮民族美術館蔵になっていた。聞くところによると、その大部分は著者の所蔵で、すべて美術館に寄付したものだという。このように、蒐集研究家として、個人蔵にしたものが一つもないところに、氏の面目を見ることができるのである」(p.156~158)


巧の三周忌にあたる1934年4月『工芸』4月号の浅川巧追悼号における浜口良光の回想。
「『あの朝鮮人は随分国語〔日本語〕がうまいね』
巧さんの行つたあとで、かう云つた私の友人もあつた。(略)
凡そ巧さんほど朝鮮を理解し、朝鮮の自然を愛し、朝鮮民族に親しみ、又埋れてゐた工芸品(新と旧とに拘らず)を掘り出して示してくれた人は今までにないと思ふ。これからもきつと出ないと思ふ。
巧さんはさうして朝鮮と云ふものに融け込んで行つた半面、一歩退いて、朝鮮と云ふものを客観的に深く見て、鋭く批評し、一種の経綸さへもつてゐた。つまり山に入つて山其の物を究めると同時に、山を下つて総ての方面から山の全形を見ることの出来た人であった」(p.241)


この追悼号における崔福鉉の回想。
「思ひ出せば、先生はよく朝鮮服をお召しになられた。物珍しいといふよりは、先生には寧ろバチ・チョゴリの方が落着くやうであり、一種の誇りとさへも見受けられた。聞けば先生は今も朝鮮服で清涼の山にお眠りになつてゐられるといふ。誠に先生は生きては朝鮮の生命を生命とせられ、死しては朝鮮の土となられたのである」(p.242)


戦争に敗れると日本人は朝鮮人の仕返しを恐れ、先を争って帰国を急いだ。
「しかし、浅川伯教や咲に、そのような恐怖心はなかった。彼らはむしろ朝鮮人によって守られていたからである。こんなエピソードがある。敗戦直後、朝鮮人が日本人の朝鮮からの立ち退きを要求して家に押しかけてくることがよくあった。ある日、咲と園絵の住んでいた家にも数人の朝鮮人がやってきた。しかし、勝気な園絵が、その中に顔身知りの京城大学の学生を認めて、『うちの人たちが朝鮮人とどういうふうに付き合っていたかをあなたは知っているでしょう』と抗議すると、その学生は余人を制して、帰っていったというのである。とはいえ朝鮮は他人の土地である。同年12月、伯教の勧めもあって、咲と園絵は帰国することにした」(p.245)


いかがだっただろうか。今回はほとんど資料の引用ばかりになってしまったが、とても総合的にまとめられるような内容ではなく、その点は了承願いたい。今の時代、検索などでぜひ知って欲しいと思う。(雅)

ちょっと紹介を!

『民藝四十年』(柳宗悦著 岩波書店)より

柳宗悦著『民藝四十年』(岩波書店1984)所収から


 柳宗悦(1889~1961)は民藝運動を創始し、日本統治時代の朝鮮の民間で日常に使われている素朴な器、道具に美しさ、価値を見いだした。なお、美術評論家、宗教哲学者、思想家としても有名。

○「朝鮮の友に贈る書」(『改造』大正9年6月号)
 これは朝鮮への思いを語っているもの。詳しくは末尾の「解説」にあるけれど、柳宗悦の思いの一部でも伝わればと思う。
 ただ、柳宗悦に対しては評価と批判もある。例えば高崎宗司著『「妄言の原形―日本人の朝鮮観』(木犀社2002)に「朝鮮問題への公憤と藝術への思慕」として柳宗悦が取り上げられている。そこには合わせて寄せられた評価と批判、そして批判自体への問題点が述べられているので、参照すればより理解が深まると思われる。したがって、あくまでそれを前提にここでは一部のみを紹介する。

「私は今の状態を自然なものとは想わない。またこの不幸な関係が永続していいものだとは思わない。不自然なものが淘汰を受けるのは、この世の固い理法である。私は今、二つの国にある不自然な関係が正される日の来ることを、切に希っている。まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。私は私の日本が、かかる恥辱をも省みない上は思わない。否、未来の日本を信じている」(p.26)

「私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情に憧れ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている」(p.32)

 こればかりではなく他の文などからも、柳宗悦の朝鮮観=「悲哀の美」という見方がついて回ったという。それについては『朝鮮の土になった日本人』にも次のようにも載せられている。
「巧が柳に与えた影響がいかに大きなものであったかについては、在日朝鮮人の歴史家李進熙が次のように述べているが、正鵠を射たものだと思う。
『柳宗悦についていろいろな批判が出ていますが、とくに「悲哀の美」が、かれのすべてであるかのような議論ですね、あれはいただけない。確かに柳は1920年代のはじめに「悲哀の美」を書き、それが大きな影響をあたえてきた。しかし、1926年に「下手ものの美」を書くころから、見方が変っていくでしょう。朝鮮のやきものや木工品に健康な美を見出したのがきっかけとなって、日本で民芸運動をはじめるわけですが、そこのところをしっかりみないから、柳はすでに1920年〔代〕の後半は、「悲哀の美」論を克服しはじめているのに、今まで悲哀をよすがとして朝鮮や朝鮮文化を論じているというおかしなところがあるでしょう。
 ところで、柳のそれを転換させるのはソウルにいた浅川巧、伯教兄弟ですよね」(『朝鮮の土となった日本人』(p.176)から)

「ある者は支那の影響を除いては、朝鮮の藝術はあり得ないかのようにいう。あるいはまた支那の偉大に比べては、認め得る美の特色がないかのように考えている。実に専門の教養ある人人すら、時としてかかる見解を抱くようである。しかし私は、かかる考えが真に独断に過ぎなく、理解なき謬見に過ぎぬのを感じている。私はそこに日本においてと同じく、支那の影響を否みはしない。しかしどうして支那の感情が、そのままに朝鮮の感情であり得よう。特に著しい内面の経験と美の直観とを持つ朝鮮が、どうして支那の作品をそのままに模倣し得よう。よしその外面において歴史において関係があったにせよ、その心とその表現とにおいて、まごう事ない差違があると私は解している。(略)
 今日法隆寺や夢殿に残された百済の観音は、支那のどの作品に劣るであろう。またどの作品の模倣であり得よう。それらは日本の国宝と呼ばれるが、真に朝鮮の国宝とこそ呼ばれねばならぬ」(p.37)

「為政者が朝鮮を内から理解し得ないのは、一つには全く宗教や藝術の教養を持たないからである、ただ武力や政治を通して、内から結び得る国と国とはないはずである。真の理解や平和をこの世に齎すものは、信を現す宗教である、美に活きる藝術である。かかるもののみ第一義である。第一義なものにのみ、人は真の故郷を見出すのである。信や美の世界には、憎悪がなく反逆がない。永えに吾々の間から争いの不幸を断とうとするなら、吾々は吾々の間を宗教や藝術によって結ばねばならぬ。かかる力のみが吾々に真の情愛と理解との道を示すのである。人はそれを理想に止まるというであろうか。しかしこれが唯一な、しかも最も直接な交りの道であるという事を真に悟らねばならぬ」(p.42)

○「失われんとするー朝鮮建築のために」(『改造』大正11年9月号)  前記『「妄言」の原形』にこうある。「1920年、柳宗悦が音楽会開催のために朝鮮に渡った時、「『京城』(現:ソウル)」の町を歩くことによって、朝鮮総督府の庁舎の新築が光化門を棄て去る前徴であることを見抜くこともでき」、1920年10月号の『改造』に「光化門破壊の危機について警告を発したが、その後の事態には、柳の危倶した通りに進んだ」(p.107)
「柳の第4回めの朝鮮旅行直前の1921年5月24日の『東亜日報』には、『光化門移転計画』が報道されていた。柳はこうした情勢に促されて、1922年7月4日、『失はれんとする一朝鮮建築のために』を書いた。これは、朝鮮では8月24日から28日にかけて『東亜日報』に発表され、日本では9月号の『改造』に発表された。柳の一文は、光化門を破壊から救う決定的な一国になった」(p.111)
『朝鮮の土となった日本人』にはこう書かれている。
1922年8月7日、柳から原稿を受け取った巧は「『なかなかよく書けて居る。これを読んだら誰れでも朝鮮に対する同情、人類的の愛が怯えると思ふ」と日記に記した。巧の怒りは柳の怒りでもあった。そして、9日、「東亜日報山社に行って、『張徳秀氏に置手紙して例の原稿も置いて来た』」(同書:p.138)
 その冒頭と本文の一部を紹介する。

「この一篇を公開すべき時期が私に熟してきたように思う。まさに行われようとしている東洋古建築の無益な破壊に対して、私は今胸を絞られる想いを感じている。朝鮮の主府京城に景福宮を訪ねられた事のない方々には、その王宮の正門であるあの壮大な光化門が取り毀される事について、おそらく何らの神経をも動かす事がないかもしれぬ。しかし私は凡ての読者が東洋を愛し、藝術を愛する心の所有者である事を信じたい。たとえ朝鮮という事が直接の注意を読者に促さないとしても、漸次湮滅してゆく東洋の古藝術のために、この一篇を読まれる事を希うのである。これは失われてならぬ一つの藝術の、失われんとする運命に対する追惜の文字である。そうして特にその作者である民族が、目前にその破壊を余儀なくされている事に対する私の淋しい感情の披瀝である。しかしなおこの題目が活々と読者に形ある姿を思い浮ばす事が出来ないなら、どうか次のように想像して頂こう。仮りに今朝鮮が勃興し日本が衰頽し、ついに朝鮮に併合せられ、宮城が廃墟となり、代ってその位置に厖大な洋風な日本総督府の建築が建てられ、あの碧の堀を越えて遥はるかに仰がれた白壁の江戸城が毀されるその光景を想像して下さい。否、もう鑿の音を聞く日が迫ってきたと強く想像してみて下さい。私はあの江戸を記念すべき日本固有の建築の死を悼まずにはおられない。それをもう無用なものだと思って下さるな。実際美においてより優れたものを今日の人は建てる事が出来ないではないか。(ああ、私は亡びてゆく国の苦痛についてここに新しく語る必要はないであろう)必ずや日本の凡ての者はこの無謀な所置に憤りを感じるにちがいない。しかし同じ事が現に今京城において、強いられている沈黙の中に起ろうとしているのである。
 光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕たんせきに迫ろうとしている。お前がかつてこの世にいたとい う記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。どうしたらいいのであるか。私は想い惑っている 。酷い鑿や無情な槌がお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くはないのだ。この事を考えて胸を痛 めている人は多いにちがいない。だけれども誰もお前を救ける事は出来ないのだ。不幸にも救け得る人 はお前の事を悲しんでいる人ではないのだ」(p.46~47)

 これに続く心に訴える文章が人々の感動を呼び、移築というかたちであったがついに命を長らえることが出来た。この『光化門よ、光化門よ』はそれをわずか8文字に凝縮している。
(文責:井上雅哉元編集長)
ダンマ写真

下館プッタランシ-寺院西壁の黄金仏

撮影者は地橋秀雄先生

サンガの言葉

「私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話」 アチャン・チャー

 「月刊サティ!」2005年1月~2005年5月号に掲載されました。今月はその3回目です。


 疲れてくたくたになったと感じたとしても、瞑想をし続けなさい。あなたの心を呼吸にとどめなさい。深呼吸を数回してから、「ブッダ」というマントラを使って心を呼吸に定着させなさい。この修行を習慣にしなさい。より強い疲れを感じれば感じるほど、あなたの集中力はより微細になり、より集中するはずです。その結果、生じてくる苦痛にうまく対処することができるようになります。疲れたと感じ始めたら、全ての思考を中断し、心を集中させ、それから呼吸を見ることに心を向けなさい。心の中で「ブッダ、ブッダ」とマントラを唱え続けなさい。
 外側のものは全て手放しなさい。子供や親族に対する思いをつかんではいけません。手放しなさい。心を一点に集め、その落ち着いた心を呼吸にとどめなさい。ただ呼吸だけを認識の対象としなさい。心がどんどん微細になるまで集中しなさい。やがて、感覚は些細なものになり、大いなる内的明晰さと覚醒が生じます。すると、苦痛が生じても、自然と徐々に消滅して行きます。ついには、親戚が訪問しに来たかのように呼吸をみなすようになります。
 親戚が帰るとき、彼に従って外に出て見送りをしますね。歩きであれ、車であれ、彼が視界から消えるまで見送ってから家の中に戻ります。呼吸についても同じように見つめます。呼吸が粗ければ粗いと知り、微細なら微細であると知ります。私たちは呼吸がどんどん微細になるのを追いかけ続け、それと同時に心を覚醒させ続けます。ついには、呼吸は完全に消え、残るのは覚醒の感覚だけになります。
この状態を「ブッダに会う」と呼んでいます。私たちは、知者であり、覚醒者であり、光明である「ブッダ」と呼ばれる明晰な覚醒を手に入れます。それは、智慧と明晰さを有しながら、ブッダと会い、ブッダととどまることです。というのは、パリニッバーナ(般涅槃)※に入られたのは、血と肉を持つ歴史上のブッダだけだからです。真のブッダ、明晰で輝く智慧のブッダ(覚者)を、私たちは今日でも経験し、体現することができます。そして私たちが体現すると、心はひとつとなります。
 ですから、手放しなさい。すべてを、知ることを除くすべてを肩から下ろしなさい。瞑想中、心の中に映像や音が生じたとしても騙されてはいけません。そうしたことはすべて下ろすのです。決して何かをつかんではいけません。ひたすらこの気づきと共にとどまりなさい。過去や未来の事で悩んではいけません。ひたすら落ち着いていなさい。そうすれば、進むことも無く、戻ることも無く、とどまることも無い場所、つかんだり執着するものが何も存在しない場所に到達します。それはなぜでしょう。なぜなら無我だからです。「私」も存在しないし、「私のもの」も存在しないからです。すべて去ってしまいました。ブッダは私たちに、「このようにして中のすべてをあけて空っぽになり、何も持ち歩かないようにしなさい」とお説きになりました。これから知ることも、すでに知ってしまったことも手放しなさい。
法――生と死の輪廻から解放される道――に気づくことは、私たちの誰もが独りでしなければならない仕事です。ですから、手放そうとし続け、教えを理解しようとし続けなさい。静かに思いめぐらすことに、本当に努力を傾けなさい。家族のことを心配してはいけません。あなたの家族は、現在は若くて元気ですが、 将来にはあなたのようになるのです。この運命から逃れられる人はこの世に誰もいません。
ブッダは私たちに、「本当に永続する中身を持たないものはすべて下ろしなさい」とお説きになりました。あなたは、すべてを下ろせば、真理を理解するでしょう、下ろさなければ真理を理解することはありません。それが物事のありようです。そして、これは誰の場合でも同じです。ですから、心配してはいけませんし、何かをつかんでもいけません。
 自分が考えていることに気がついたとしても、賢明な考え方をしている限りそれはそれで良いのです。愚かな考え方をしてはいけません。自分の子供について考えるとすれば、智慧を持って考えなさい。愚かさを持って考えてはいけません。心が何に向かおうとも、智慧を持ってそのことについて考え、知り、その本質に気づきなさい。あなたが知恵を持ってあることを知れば、それを手放しても苦は生じません。心は明るく、楽しく、平安で、散漫さに向かうことはありません。心は統一されています。今の瞬間、助けを求めて頼ることができるのはあなたの呼吸です。
これはあなた自身の仕事であり、他の人の仕事ではありません。他の人には他の人の仕事をさせておきなさい。あなたにはあなたの義務と責任があり、あなたの家族の義務と責任を引き受ける必要はありません。他のものは何も引き受けてはいけません。すべてを手放すのです。そのように手放すとあなたの心は静かになります。今あなたに課せられた唯一の責任は、心を集中させ、心を平安に導くことです。他のことはすべて他の人に任せなさい。形、音、香り、味――こうしたものに集中するのは他人に任せておきなさい。すべてを置き去り、自分の仕事をし、自分の責任を果たしなさい。心に何が生じても――苦痛の恐怖であれ、死の恐怖であれ、他の人に関する不安であれ何であれ――こう言いなさい。「私に構わないでくれ。お前はもう私には関係無いんだ」と。こうしたダンマ(法)が生じるのを見たときは、ひたすら自分にこのように言い続けなさい。
「ダンマ」という言葉はどういう意味なのでしょうか。すべてはダンマ(現象)です。ダンマでないものはありません。では、「世俗」とはどういう意味でしょう。世俗とは、この瞬間にあなたを動揺させている心の状態です。つまり、「この人は何をするのだろうか。あの人は何をするのだろうか。私が死んだら家族の面倒は誰が見るのだろうか。家族はやっていけるのだろうか」。こうしたことすべてが「世俗」なのです。死や苦痛を恐れる気持ちがただ生じることですら「世俗」なのです。
世俗を捨てなさい。世俗とは今のあり様です。世俗が心に生じ、意識を支配することをあなたが許してしまうと、心は曇り、心は自分自身を見ることができ無くなります。ですから、心に何が生じようとも、ただこう言いなさい。「これは私には関係無い。これは無常であり、苦であり、無我である」と。

長生きしたいと考えると、あなたは苦しみます。しかし、すぐに死にたいとか、死ぬときは一瞬にして死にたいと考えることも正しくありません。これも苦ですね。諸々の状況は私たちのものではなく、それ自身の自然の法則に従います。肉体のあり方についてあなたは何もできません。若い女の子が口紅を塗ったり爪を伸ばしたりするように、しばらくの間、肉体を飾り立てたり、魅力的に見せたり、清潔に見せたりすることはできますが、老いると誰でも同じ運命になります。それが肉体のあり方であり、それを変えることはできません。しかし、あなたが向上させ、美しくできるものがあります。それは心です。

 誰でも木とレンガで家を建てることができます。しかし、ブッダは、「そうした種類の家は私たちの『真の家』ではなく、名目上私たちのものになっているにすぎない」とお説きになりました。それは世俗の家であり、世俗の法則に従います。私たちの「真の家」とは内的平安です。外的な物質の家は確かに素敵かもしれませんが、それほど平安をもたらすものではありません。
こういう心配ごとがあるかと思えばああいう心配ごとがあり、こういう不安があるかと思えばああいう不安もあります。
 ですから、世俗の家は私たちの「真の家」ではなく、私たちの外側のものであり、遅かれ早かれ私たちはその家を捨てなければなりません。なぜなら、それは私たちのものではなく、世俗のものだからです。私たちの肉体も同じです。私たちは肉体を「我」であり、「私」であり、「私のもの」だと思っていますが、実際はそんなことはまったくありません。肉体もまた別の世俗の家なのです。(つづく)
※般涅槃:全面的な解脱。阿羅漢の死によって、五薀が完全に停止すること。
Ajaan Chah「Our Real Home」よりまとめました。
(文責:井上雅哉元編集長)